第一章 夢から覚めた日
夢から覚めた日(1)
開演までのカウントダウン。シンガーソングライター『
細身に
そしてそっと胸に手を当てると心臓の音がバクバクと
昔、この鼓動は一種の呪いだと思っていた。鳴り始めると、口下手になって人に想いを上手く伝えられなくなるもどかしい呪い。
でも今は違う。この鼓動は自分の歌、想いを伝えられる
――今日も、皆に届けられる。
歌に救われた自分だからこそ、皆に伝えられるものがある。今日という一日が、誰かの思い出のワンシーンとして強く残るようにと、胸の鼓動に願いを託した。
会場に流れていたBGMのボリュームが瞬間的に大きくなる。
それは幕開けの合図。暗転した会場は歓声に包まれ、BGMはフェードアウトする。
しかしそれもほんの一瞬、ピアノの音が物悲しく響き渡ると会場は水を打ったようにしんとなった。暗闇の中で前方モニターに映し出される映像、サウンドエフェクト。
ツアータイトルの文字がステージ奥に映し出され――中心には、黒い衣装に身を包んだ俺が照明に照らされる。
マイクを包む手には力を。声には想いを込めて。
歌声が波紋のように広がる開幕のバラード曲に、再び拍手と歓声が巻き起こった。
本編に
観客も勢い良く手を上げ、テンションは序盤から惜しみなく沸点目掛けて加速していった。
いつまでも歌い続けたい。一体感が生まれるこの空間で、いつまでも。
レーザー光線で彩られたステージの中心でどんな音よりも強く鮮明に、願うように、歌う。
これが俺の生きている証なんだ――。
かつての栄光はこうして幾度となく夢の中で繰り返される。
現実に引き戻された
呼吸が整った後も
ぼうっとして。目覚めてもなお、夢の中の映像に翻弄されてしまいそうになる。
浸ってはいけない。これは悪夢だ。
そう言い聞かせて起き上がっても、余韻に浸りたくなる自分が惨めだった。
そんな風に何度繰り返しても慣れないまま悪夢に
容赦なく突き付けられる現実から目を背けられないのなら、いっそのこと目を覚まさない方が良い。それが無理ならば眠りたくない。思えば思う程夜眠りに就く時間は次第に遅くなっていき、今となっては窓の外が薄明るくなる朝方、睡魔に負けて眠る生活が染み付いてしまっている。
本当に嫌という程、過去の輝かしかった自分と再会する夢を見た。
国内の年間アルバム売上ランキングが一位だったことや、歴史ある賞を受賞したこと。程度の差こそあれ全てが昨日の出来事のように感じられる、希望みたいに錯覚してしまう残酷な夢を幾つも。
その中でも今日は一段と生々しく、
ステージに立ち無我夢中に歌う夢。それはかつて紛れもない現実だった戻りたくなる遠い過去。
確かにこの手で
昨日使ってから置き場所も変わっていないグラスで、渇いた喉に水を流し込む。
結局、いくら歌おうと努力しても結果は出なかった。
あの頃みたいに歌えない自分に、何が残されている?
もう、二〇四〇年。この三年間は只管に辛酸を
夢で見たあの頃の自分に、戻りたい。ただそれだけなのに。
絞り出した歌声は
そうか。歌なんて、好きにならなければ良かったんだ。
数週間経って、外には四月の香が広がり、鳥の
このまま線路に飛び込んだ方が早いのにな。
ホームに勢い良く入ってくる
勇気が無いのは重々承知の上で胸の内で嘆いた。
途中で江ノ電に乗り換えて、目的地の江ノ島駅で降りた後は石畳の小道を南に向かって歩く。
人々の笑顔から目を背けるように、一人ずっと足元だけを見ながら。楽しげな声を聞かぬように耳にはイヤフォンを。音楽を流すことはない、あくまで
行き交う人の中に、自分の歌を聴いてくれていた人がいてもおかしくないと思ってしまうのは、元歌手ならば仕方のないことなのか。それともこの期に及んでまで、そうであってほしいと願わずにはいられない孤独な自分の弱さ故なのか、分からなかった。
マップを確認しながら、ものの数分歩くと、交差点の角地に五階建ての白い建物が見えた。
全国に十数ヶ所点在するという『ラストリゾート』。
最後の
建物の前、数本並ぶ電線はまるで五線譜みたいで、そこに
届いた浜風に連れ去られて、
ここで、何人の安楽死希望者が安楽死したのか。ラストリゾートの前で
四階に案内されて重たい足を
そして着いた部屋の前、扉を開ければいよいよ死へのカウントダウンが始まる。もう恐れるものなど無いはずなのに、ノックをする前に無意識に生唾を
意を決して部屋に入ると、純白のフリルブラウスに淡紅色のロング丈スカートを
まだ学生とも見て取れそうな、童顔で小柄な女性。
「初めまして、望月要さん。お名前に間違いはないですか?」
落ち着きのある冷静な話し方。高過ぎず、綺麗な響きを持った心地いい声だった。
安楽死しようとしている者と向き合うアシスターならばもう少し年齢が上だろうと思っていたのは、偏見だったのか。あまりの若さに
返事を出来ずにいるとアシスターは少しだけ不安気な面持ちに変わり、持っていた電子端末を確認するように一度視線を落とした。
「えっと……」
彼女が顔を上げたタイミングでまた目が合い、こくりと
「あ……ありがとうございます。今日から担当させていただく、アシスターの東峰渚と申します」
今し方、
アシスターの後ろ姿を目で追う。細くて白い肌。今年三十歳になる自分と一回りまでは違わないだろう。小柄な体付きはか弱く見えるが、歩き方など落ち着き払った姿や話し方は芯があるようにも思える。実は気が強い人なのかもしれない。二十歳を少し超えたくらいだろうかと推測しながら、椅子に腰を下ろしてじっくりと室内を見渡した。
白い壁に囲まれた部屋。床は大理石調、天井には暖色のダウンライトとスポットライトタイプのシーリングライトが備え付けられていて、清潔感の溢れる綺麗な空間だ。
極め付けは壁の三分の二を占める大きな窓。申請を取り下げた人の話を事前にネットで見たが、江ノ島が浮かぶ湘南の海を一望すれば「本当に素敵な場所だった」と書いてあったのも頷ける。
この場所を最後にして死ねるなら悪くはない。
生きることの諦めさえ許してくれそうなくらい、瑠璃色の海は
アシスターは戻ってくると「どうぞ」と温かい
言葉を発する代わりに軽く頭を下げて礼を伝えると、彼女は
散々大勢の前で歌ってきた身であるにも
誤魔化すように見始めた窓の外、落日に染められた空に魅入られていく。
あの景色に溶け込んで消えてしまえたら良いのに。
そんな、叶うはずもない願いを浮かべながら。
「江ノ島は初めてでしたか?」
アシスターの問いには反応せず景色に目を向けたまま、昔活動していた時にミュージックビデオの撮影で一度訪れたことを思い出す。
あの時は人気の女優と共演し、一緒に江ノ島本島を巡るのがメインだった。撮影がスムーズに進んで時間を余した後は散策をして。切ないバラード曲の撮影に似つかわしくないほど雰囲気は賑やかで。いつか海外デビューしたら、なんて話で盛り上がっていたのがひどく懐かしい。
皆と話した明るい未来はもう無くて、今は悲しい現実しか見えなくなった。
「私、最初に来たときはちょっと綺麗だなくらいの感想だったんですけど、来る度に好きな所が増えていく場所なんです。江ノ島に花が綺麗に咲く所があって。あまり知られていないと思いますが桜も咲きますし、
彼女は想いを馳せるように、同じく日が差し込む方を見ていた。
「一方的に
もし声を出さない理由を訊かれたら何と答えようか迷っていたが、気を遣っているのか一向に訊いてこない。
安心するにはまだ早かったが、声には出さずに頷いた。
「ありがとうございます」とアシスターは一瞬表情を和らげ、少し間が空く。
「……既にご存知かもしれないですが、要さんには今日を含めて一年間で最低十回の面談をしていただきます。申請してから一年間は検討期間となっているので……一年後、最終日の翌日から三日以内に改めて最後の意思確認面談をさせていただくことも、要件の一つとなっています。もしそれまでに私以外の者と面談したいというご希望があれば、アシスターを変更することも出来ますので」
それを聴く度に少なくとも一年間は生きなければいけないことを思い知らされる。
「面談する場所を変えたい時はラストリゾート以外の場所を指定していただければ駆けつけます。お役に立てるか分かりませんが、出来る限りのことをさせてください」
言葉の合間合間でアシスターは自分の反応を
「あの――」
「……」
「要さん、携帯電話は持っていますか?」
唐突な質問に意図が
「もしお話しするのが難しければ、メールとかでやりとりしませんか?」
日頃から使い慣れているのに、その案は浮かんでいなかった。
「私もまだ面談の時にメールでお話ししたことはないんですけれど……昔、自分の悩みを言葉にするのが辛かった時に、文字に起こすと楽になったことがあって。私の場合それは日記で、誰にも見せられないものでしたが……」
目を逸らして話し辛そうに言った後、視線をこちらへ戻してくるアシスター。
「すみません、日記とは違いますがメールだとどうでしょう。勿論、これは私の一案なので。気が進まなければ打った文章を画面で見せていただいても大丈夫ですし……要さんがお話ししやすい方法は何かありますか?」
何故話さないのかと訊かずに話すための手段を提案してくれる。そして彼女が心配そうに見つめてくるものだから、優しさが真っ直ぐ伝わって
アシスターという職業を深く知らなくとも、きっと良い人なのだということくらいは分かる。
それにしても、業界人以外からメールアドレスを訊かれたのはいつ以来のことだろう。アシスターは自分のことを知らないのだから当然だが、突拍子もない質問をされて一瞬動揺してしまった。
話すかどうかは別として、メールだとデータが残ってしまうかもしれないと懸念が
一世を
その情報が世間に
それ自体は許せても、また心無い言葉を浴びせられるのはもう御免だ。
黙り込んでいると「……どうでしょうか?」と遠慮がちに様子を窺ってきた。
――そもそもこの子は俺を知っているのか。
ファンも同じくらいの年齢層が多かったことを踏まえると、最低限の確認はしておきたい。もし知られているのなら自分が当の本人であることは隠した方が互いの
考えながら携帯電話を取り出すと、暗いディスプレイに反射して映る元歌手と目が合った。
歌えていた頃の自分など、今では見る影も無かった。毛先が傷んだ
どうせもう、これで最後なんだ。
ゆっくりと文字を打ってアシスターに見せた。
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