ザラリとした質感の作品は、触れるまでに躊躇する。
特に純文学と呼ばれるたぐいのそれは、最初は澄まして無害なふりしてそこに在るから余計に迷う。かくいう今作も、棚に並んでいるところをチラ見しながら素通りして、何度目かでようやく手に取った次第。
いざ踏み込んで、読んでみればそれは紛れもなく「小説」であるのは明確。初めての味わいと新鮮な食感、そこに山菜のような滋味が加わりなお一層、唯一性を提示してくる。
よくある話と云うと些か語弊があるが、主題としては古今東西扱われ続けてきたものだ。特に、「文学」の看板を掲げると性的な爛れすら芸術として認知されるという、許された領域が我が国には確実に存在する。しかし、そういう固定概念(色眼鏡)で見るには少々、この作品には捨て置けない要素があるように感じる。偶然ながら、読者である私が今、少々戸惑いつつ向き合っている、「時間」というものの無常性(無情でもある)に触れる体験となるからだ。
唐突だが……。テレビのインタビューに子供が出ていて、妙に大人びた答えをするシーンが度々目につく。最近の子供はずいぶん進んでるねぇ、という上っ面の解釈もあろうが、私はこれには少々、作為と外連味を感じて好きではない。
「温もりが……」「優しさが……」「人のために……」「深く考えることが大事だといおもいます」
言葉にすれば誰でも発せられる内容ではあるが、実際のところ「人の痛み」とか「温もり、ニンジョウ」なんてものは、五十も間近の年になって私はようやくその片鱗が見え始めた程度だ。個人差はあろう。しかし、経験も体験も浅い子供が「人の痛み」とか「温もり」「ほんたうのさいはひ」などを解するとはとても思えんのだ。
ひどい言い方だが、心が死ぬほどの苦痛を受けたあとでなければ、心に染みる優しさを理解できるはずがない。
異論はあろうが、私にはそうとしか思えないのだ。
──彼女は十六歳。
さて、その深淵をほんたうのいみで理解できる人はいるだろうか。
私は正直自信が無い。しかし、作中の彼女には痛みの実感とそれを上書きせんとする、なりふり構わぬ情動と衝動、そして踏みとどまろうとする激情が、片鱗だけでも感じられた気がした。
多分作者氏も私とそう変わらない年齢だと思われるが、その筆にどれだけ自分を乗せていただろう。そこを考えると、少々恐ろしい。
文章として表現するにあたり、どこまで「乗せて」どこまで「削ぎ落とすか」は常に葛藤の連続だ。そこに、意図を超えて零れ乗り移ってしまった情念というのが感じられるのが、「文学」の醍醐味に思う。
主人公の眼差しがいい。
彼女は、インタビューに応じる「大人のふりをした子供」ではない。
痛みを知って、人は人になる。