雨上がりのぺトリコール
みずかき
第1話 騒音
初めて雨靴シタの曲を聴いたのは高校一年生の頃だった。
親父に殴られ、殴り返し、蹴飛ばされ、蹴飛ばし返したあの日も、今日のように空は鉛色で、俺の心とシンクロしているかのようだった。
少しだけでも良い気分になろうとして、傘を取る暇もなく外に飛び出た後、びしょ濡れになりながらイヤホンをつけたのを覚えている。最近流行りのアニメの主題歌。そんなのでいいから、この頭の中のドブみたいな感情と、五月蝿い雨音をかき消してくれ。
そんな願いの中、現れたのが雨靴シタだった。
思い描いていた理想の曲とは全くの真逆。泥水でうがいをした挙句それを飲むような、公衆トイレの床に大の字で寝そべるような、そんな最悪に更に覆いかぶさってくる最悪。思わず無料プランのランダム再生を呪ったのを覚えている。
呪ったはずなのに、最悪なはずなのに、それがなんとも不思議なことに、面白いことに、妙に心地よかった。
それからクソみたいな日には、さらにクソを塗りたくるように、雨靴シタの曲を聴いていた。最悪で最悪で仕方がないはずなのに、心地よくてリピートが止まらない。熱烈ではないにしろ、少なくとも俺は雨靴シタのファンになっていた。
今日も、いつものように親父は怒鳴っている。かつてのような逞しい体つきはもうどこにもなく、今では骨と皮と酒とタバコで成り立ってる化け物だ。なのに、まだ自分が強いと思っているからタチが悪い。
ありったけの悪意を孫の手みたいな拳に纏い、親父は俺を殴る。痛みは全く感じない。これじゃマッサージにもならない。
薄暗く湿気高い部屋の中央で、親父を睨みつける。親父の目は、俺の目とよく似ている。いや、俺の目がよく似ているのか。何はともあれ胸糞悪い。すぐさま親父から目を離し、玄関の方へと足を動かす。木製の床が湿り気のある音を立て、続くように、天井から垂れ落ちる生ぬるい液体が、首筋を滑るように辿った。靴下が濡れている。不快だ。
雨漏りは、この家の廃れ具合と玄関の先に広がる景色、その両方を見事に物語っている。いつからこんな風になってしまったのだろうか。
「おい!!葵!戻ってこい!!!」
親父の声を背中で弾きながらビニール傘を左手で鷲掴みにし、迷いなく右手でドアノブを捻る。
ドアを開けると同時に、真っ先に生暖かい風が緩く広く吹き込んでくる。髪が揺れる。
そして、その先に広がるは曇天、漂うアスファルトの匂い。それらにはお構い無しに、俺は大股でゆっくりと歩き、傘を開く。傘が守ってくれるから、長い前髪が垂れることも、降り注ぐ雨粒が傷口に染み込むこともない。ビニール越しに映る世界は半透明で、信号機の光を身に纏いながら、生地の上を絶え間なく滑り落ちていく雨粒は、まるで流星群のようで少し面白い。なんてことはなく、ただ邪魔だ。
ザーーーという騒音。快晴の時は蝉の鳴く声が、曇り空の日は雨音が、俺の耳に絶え間なく降り注いでくる。夏に雑音は付き物なのだろうか。
右ポケットからスマホを取り出し、「母」と書いてあるアカウントを開くと、「いまお父さん家で暴走してるから」とだけメッセージを送る。傘は、全ての雨粒から俺を守ってくれる訳ではない。雨粒は斜めに体をうねらせ、俺の手とスマホを濡らしていた。そのせいか、思うようにフリック入力ができず、この簡単な一文を送るのに30秒ほどかかってしまう。
びしょ濡れになったスマホを右ポケットにしまう。次は左ポケットからイヤホンを取り出し耳に挿す。ザーーーという騒音が小さくなる。雨に濡れると壊れるだろうか、まあどうだっていいや。傘も差しているし、位置的にも手とスマホのようにはならないだろう。
さらに再び右ポケットからスマホを取り出すと、音楽アプリを開く。ザーーーという騒音は完全に消える。こんな最悪な日には、さらに最悪のトッピングを。
履歴には、雨靴シタの曲がずらりと並んでいた。それを親指で、下へ下へとスクロールしていく。
『ぺトリコール』
『うねり馬』
『狂う日も狂う日も』
『針のない蚊はそれでも嫌われる』
見慣れた曲名だらけだ。どれもどんよりしていて、おどろおどろしくて、どんなにハッピーな気分も全て飲み込み、雨靴シタの世界に引きずり込んでくる。
『ゲオスミン』
ふと、新鮮味を感じる曲名が目に入る。知らない曲名だ。そういえば、もうすぐ新曲が出るとか言ってたな。いや、でもそれはこんな曲名じゃなかった。たしか、『鬱くしい子』という曲名だったはずだ。曲名から既に漂う暗さに、俺は心を少し躍らせていた。だから覚えている。
何故告知もされていないはずの曲が突然リリースされたのか、『鬱くしい子』はどうなったのか。何も分からず、思わず首を傾げる。それでも、再生ボタンを押す指は止まらない。新曲ならなんでも嬉しいし、聴かない理由は無い。『ゲオスミン』が流れ始める。
「うっ、なんだ、これ」
耳に届いたのは、思わず心臓が跳ね上がるほどの爆音と、ピコピコピコピコとやけにポップな音、爆竹の破裂するような音に、マイクを地面に叩き落した時のようなキィィィンと鳴る音。どれも雨靴シタの曲から鳴るとは思えない音ばかりだった。
おもちゃ箱にぎゅうぎゅう詰めにした音の鳴る玩具を、全て同時に鳴らし、それを録音した物をそのまま曲にしました。とでも言われないと納得できない仕上がりの曲だ。
いや、ファンという身分の俺からしても、これはもはや曲とは言えない。意味がわからない。雨音よりも、蝉の鳴く声よりも、ずっとずっとうるさい騒音が、俺の思考を置いてけぼりにしながら、ただひたすらに鼓膜を震わせていた。
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