物語の裏側 ~昔話たちのもう一つの声~

Algo Lighter アルゴライター

桃太郎の影

桃太郎の視点――夜明け前の葛藤

 夜明け前の村は、ひどく静かだった。時折、軒先の風鈴が小さく鳴るほかは、家々が眠りに沈み、すべての生き物が深く呼吸している。桃太郎は、まだ寝床の中にいるはずの自分を、闇の中でじっと見つめていた。

 茅葺き屋根の家の天井を仰ぎ、何度目か分からぬため息をつく。土間には灰色の光が差し込み始めていた。


 ふと耳を澄ますと、囲炉裏の灰の中で木炭がわずかに燻っている音がした。あたたかい家の中。川から拾われて以来、父と母が与えてくれた無償の愛情。きびだんごの甘さ、膝の上で笑った幼い日々。すべてが今、背中を押してくれるはずだった。


 それでも胸の奥には、どうしようもなく冷たいものが残っていた。

 「本当に、自分は正しいことをしようとしているのか」

 そう問いかけると、胸の奥がじくじく痛んだ。鬼を退治すれば、村人たちはきっと喜ぶだろう。両親もきっと、誇らしげに微笑むに違いない。だけど、その向こうにある“正義”が、自分の目に見えてこない。


 村の外れで聞いた話を思い出す。

 「鬼たちは恐ろしい。子どもをさらい、畑を荒らす悪党だ」

 だが、そう決めつけているのは村人たちだけではないか?鬼たちにも、家族や仲間がいるのではないか――そんな考えが、ふと心をよぎる。もしも、自分が鬼の立場だったなら。もしも、自分の大切な誰かが、「悪」だと決めつけられていたら。


 寝静まる母の寝息が、すぐ背後から聞こえる。

 「無理はしないでおくれよ」

 昨日の夜、母がそう言った。言葉の奥に、心配と祈りが詰まっていた。桃太郎は、母に心配をかけたくなかった。だが、自分の心が選ぶ“正義”と、人が望む“正義”は同じなのか分からなくなっていた。


 朝が近い。

 桃太郎はそっと布団を抜け出し、きびだんごを手に取った。ふっくらと柔らかい団子。その温もりを、しばらく手のひらで感じていた。

 障子を静かに開けて、冷たい朝の空気に頬を刺された。東の空がわずかに青みを帯び、鳥たちが遠くで目覚めを告げ始めていた。村の家並みが、白い靄の中にぼんやりと浮かぶ。


 「桃太郎さん」

 外で犬が待っていた。優しい目で見上げる犬の隣に、猿と雉もいる。三匹は不安げに、しかし誇り高く桃太郎を見つめる。

 「行こう」

 自分に言い聞かせるように、桃太郎は歩き出した。道の先に何があるのか分からない。鬼の砦で、自分は正義の剣を振るうことができるのかも分からない。

 けれど、歩くたびに心の中で波紋が広がる。「正しさ」とは何か、「敵」とは誰なのか。その答えを知るために、桃太郎は一歩ずつ進み始める。


鬼の視点――灯火の消えた砦で

 朝靄が山を包むころ、鬼の砦にはひっそりとした静寂があった。砦の奥深く、石造りの大広間には、昨夜の残り火が赤く揺れている。

 蒼鬼は、重い肩を抱いてその炎を見つめていた。


 砦の壁には、幼い鬼たちが描いた絵が貼られている。花や星、家族の笑顔――その無邪気な絵の下で、蒼鬼は己の大きな手を見つめた。

 「俺たちは、そんなに恐ろしい存在なのか」

 夜、子どもを寝かしつけるとき、静かに子守唄を歌う。

 けれど、村の人間たちは、鬼のことを「悪」と呼ぶ。


 蒼鬼が子どものころは、人と鬼はもっと近かった。祭りの日には、人間の子どもと一緒に山道を駆け回った。だが、干ばつが村を襲い、食料が乏しくなると、「外の者」に不満と恐怖が向けられた。それが鬼だった。ただの生き物でしかない自分たちが、「悪」の象徴にされたのだった。


 今、砦の外には、人間の足音が近づいているという。

 「桃太郎が来る」

 その名前を聞いた時、蒼鬼は、抗うことのできない運命を感じた。村を守るために鬼を討つ――それが英雄の物語だ。

 だが、鬼にも守るべきものがある。寒さと飢え、迫害から逃れるために、この谷に住みつき、村から少しだけ食べ物を奪っていた。それだけだった。


 「父ちゃん、怖いの?」

 子ども鬼が小さな手で、蒼鬼の指を握った。澄んだ瞳には、怯えと信頼が入り混じっている。

 蒼鬼は、小さく首を振る。「大丈夫だ。父ちゃんがいるからな」

 けれど、その声は微かに震えていた。

 ふと、昔の春の日の光景がよみがえる。桃色の花が咲く山の斜面で、見知らぬ人間の少年と石を積み上げて遊んだことがあった。あれが桃太郎だったのか、今ではもう思い出せない。


 人と鬼が本当に分かり合えたことなど、あったのだろうか。


 砦の中には、静かに涙を流す者もいた。帰らぬ家族を想う鬼の母、斧を研ぎながらも瞳に迷いを浮かべる若い鬼の戦士たち。

 「なぜ俺たちは、いつも追われる側なのだろう」

 蒼鬼は炎の前に座り、手を合わせた。灯火の揺らめきが、砦の壁に影を作る。その影は、人間と同じ顔をしているようにも見えた。


 外から、犬の吠える声が響いた。桃太郎たちが、もうそこまで来ている。

 砦の鬼たちは静かに立ち上がる。蒼鬼も、最後にもう一度だけ、家族の顔を振り返った。

 この戦いの先に、誰かの正義が叶うのか。

 それとも、ただ新しい悲しみが生まれるだけなのか。


 朝の光が、谷に差し込む。霧が晴れていく中、鬼たちの影が伸びる。

 その影の上に、桃太郎とその仲間たちの足音が重なった。


――正義とは何か。悪とは誰か。

桃太郎と鬼、それぞれが抱く「影」は、朝焼けの中でひっそりと揺れていた。

物語は、未だ誰も知らない未来へと歩み出す――

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