第十二話 時雨のノート

探偵事務所の奥にある、小さな和室。
掛け軸には「虚心坦懐」の文字。
湯飲みに湯気が立ち、壁の時計はわずかに遅れていた。

**時雨善哉は、畳に正座しながら、かつて書き綴った一冊のノートを開いていた。
それは、今となっては誰にも見せていない記録──「Kノート」**と、彼自身が呼んでいるものだった。




彼がまだ三十代の頃、彼は新聞記者だった。
政治部に配属されながら、なぜか「現場に出たい」と希望し、数々の地方事件を自ら追っていた。

そのなかで出会ったのが、天穂福祉センター。

施設に関する疑惑が匿名で通報され、彼は長野県警の内部協力を得て潜入調査を開始。
表向きには“優良な施設”とされていたが、内部には複数の“不可視のルール”が存在していた。


時雨の記録には、こう記されている。


「5人の子どもたちが特別室に隔離されていた。
そこでは日常生活とは別に、“観察”と“記録”がなされていた」


「記録者は子どもたちのひとり。
彼が選ばれたのか、自ら名乗り出たのかは不明。
ただ、彼の“記述力”と“記憶力”は異常だった。
施設職員さえ、彼の記録に頼っていた節がある」


「彼の名前は、名簿には載っていなかった。
だが、子どもたちは彼を“ケイ”と呼んでいた。
K──記録者、Keeper、Kafka、さまざまな意味が込められていたのだろう」


時雨はその記録を読みながら、静かに独白する。


「……私が彼らに手を差し伸べなかったのは、後悔している。
 だが、“記録されていく世界”のなかで、私の正義はとても小さく見えた」


当時、彼は内部告発に踏み切ろうとした。
だが、原稿は「証拠不十分」としてボツにされた。
警察も、福祉行政も、手を出さなかった。

彼のノートだけが、当時の真実をすべて記していた。


「廉、翔太、真知、洸一、由依──
彼らが見ていた世界は、あまりに閉じていた。
その中で、誰かが“記録者”として生き残った。
だが、生き残ったことこそが、呪いになったのではないか」


「私の目に映ったKは、ただひとり、ずっと笑っていた。
それが、彼の“観察者の仮面”だったと気づいたのは、随分あとだった」


時雨は、ノートの最後のページに挟んだ写真を取り出す。
そこには、子どもたち5人が並ぶ写真と、その中央でカメラを構えるひとりの少年。

シャッターを切ったのが“記録者自身”だった。

誰も写していない。
だが、彼は**“記録されることを拒否しながら、記録していた”**。

そして──
時雨はようやく、ノートに新たな一行を書き足した。


「K=沢渡廉、あるいは、彼の“もうひとつの側面”。」




その夜。
事務所の電話が鳴った。

受話器を取ると、短く、冷たい声が届いた。


「……時雨さん。
 “部屋”が、開いたようです」


声の主は、赤堀翔太だった。

時雨は、そっと目を閉じて答えた。


「そうか。……では、そろそろ私の役目も終わりだな」


(第十三話へ続く)


全二十話:乞うご期待!!

第一話  生き残った探偵

第二話  無人の探偵事務所

第三話  沈んだ窓

第四話  白い部屋

第五話  橋の下の微笑み

第六話  彼女の静けさ

第七話  あるインタビュー記録

第八話  記録という狂気

第九話  清められた姉

第十話  “あの部屋”へ

第十一話 沢渡、目覚める

第十二話 時雨のノート

第十三話 沈黙の密室

第十四話 もうひとりの声

第十五話 消された映像

第十六話 最後の告白

第十七話 交差する記憶

第十八話 祈りの花

第十九話 記録の果て

第二十話 すべてが繋がる日

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