トイレの澄子さん
カズロイド
本編
三宅奈央(37歳)は、都内の税理士事務所で働く独身女性。
几帳面で真面目だが、人付き合いはあまり得意ではない。
毎日、仕事と家を往復するだけの生活には大きな波もなければ、小さなときめきもなかった。
穏やかではあるけれど、ふとした瞬間に空っぽな気持ちが顔を出す。
通勤電車はいつも満員で、身動きも取れないまま駅に着くころには、気力が半分ほど削れている。
スーツの襟を指先で正し、無意識に背筋を伸ばして改札を通る。
雑踏を抜け、彼女が毎朝立ち寄るのは、改札脇の女子トイレだった。
淡いピンクのタイルが整然と並ぶその空間は、駅のざわめきから切り離されたように静かだった。
そこで毎朝顔を合わせるのが、清掃員の鷲尾澄子(75歳)だった。
背中を少し丸めて掃除道具を押しながらも、動きには無駄がなく、どこか所作に品のある女性だった。
最初は会釈だけだったが、次第に「暑いですね」「花粉、ひどいですね」といった短い言葉が交わされるようになった。
そのやり取りはささやかだったが、奈央にとっては、不思議と心がほどけるひとときになっていた。
――――――――――――――――――――――
ある金曜日の夜。
会社帰りの人波が行き交う駅ナカのカフェで、奈央はひとり窓に向かって並ぶカウンター席に座っていた。
外の通路では、スーツ姿の会社員や買い物帰りの人々が、流れるように行き交っている。
ガラス越しに見える世界は万華鏡のように、光と影と人の動きが絶えず入れ替わっていた。
ふと、外を眺めていた奈央の目に、見覚えのある姿が映った。
改札の方向から歩いてくる女性——澄子だった。
普段の清掃服ではなく、柔らかなベージュのニットにストールを巻き、小さな革のバッグを肩にかけた澄子は、姿勢も凛としていて、いつも以上に品の良さが際立って見えた。
まさか、こんなところで——。
思わず目で追っていると、澄子はそのままカフェの入り口から中へ入っていった。
レジカウンターの陰に隠れ、姿が見えなくなる。
しばらくして、紅茶のカップを乗せたトレイを手にした澄子が再び姿を現した。
視線が合い、澄子がふわりと微笑む。
「あら、こんばんは」
澄子が声をかけてきたとき、奈央はすぐに微笑み返した。
澄子の表情は、いつもと変わらず穏やかだった。
澄子は奈央を見て、隣の席を目で示すように視線を送った。
奈央は自然な笑顔で軽くうなずき、手で席を示した。
澄子は静かに腰を下ろし、紅茶のカップをそっと置いた。
奈央が思わず「いつもお疲れさまです」と声をかけると、澄子は紅茶のカップをそっと口元に運び、静かに言った。
「あれ、趣味なのよ」
奈央は目を瞬かせた。
——趣味?
「実は夫が亡くなってから、ずっと一人だったの。夫は不動産や株式を残してくれたから、経済的には困らないけど、毎日家にいると寂しくてね。社会との接点を持つためにも、こうして清掃の仕事を始めたのよ」
「それに、人の視線を観察するのも面白いのよ。
冷たい目、見下す目、無関心な目——そういうのを日々受けながら、その人の本質を感じ取るの」
澄子はいたずらっぽく微笑んだ。
「人ってね、相手の立場や肩書がなくなったときに、ようやく“素”が出るものなのよ」
奈央は微笑んでうなずいたが、その言葉はまっすぐ胸に届いた。
「でもね、あなたの視線は、いつも優しかったわ」
「優しかった……ですか?」
「ええ。あなたは毎朝、ちゃんと私の目を見て挨拶してくれる。それがいつも嬉しいのよ。」
奈央は、熱いコーヒーのカップを両手で包み込みながら、心の奥がじんわりと温まるのを感じた。
自分が毎朝抱えていた、誰にも伝わらないまま通り過ぎていた小さな孤独が、澄子の言葉でふわりとほどけたような気がした。
ふと、周囲の視線が気になった。
エプロン姿の店員、仕事帰りらしい男性客、学生風の若者たち。
誰もこちらをじっと見ているわけではないのに、奈央は少しだけ背筋を伸ばした。
窓際のカウンターで、歳の離れたふたりが並んで座っている姿は、どんなふうに映っているのだろう。
親子?あるいは、嫁と姑に見えることもあるのだろうか。
けれど澄子の横顔を見ていると、不思議とそうした距離や関係の定義がどうでもよく思えてくる。
「……私も、澄子さんに救われていたと思います。毎朝、お会いするだけで少し心が落ち着いていました」
そう言葉にしただけで、不思議と胸が軽くなった。
窓の外では、せわしない音と光が溢れ、駅の雑踏が途切れることなく流れていた。
けれどそのカウンターの一角には、まるでその世界とは隔てられたような、静かで柔らかな時間が流れていた。
トイレの澄子さん カズロイド @kaz_lloyd1620
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