第2話『甘い匂いと、おばあちゃんの訪問』
翌朝、森の小屋には、また別の来客があった。
ザクッ、ザクッと足音が落ち葉を踏みしめながら近づいてくる。
音の主は、大きな杖を突きながらゆっくり歩く年配の女性――昨日訪れた少女の祖母だった。
その姿を見たとき、悠は思わず身構えそうになった。
杖をついているとはいえ、森の中を一人で歩いてくるなんて、よほど慣れているのだろう。
しかもこの小屋の場所を“正確に”把握していたことから、昨日の子どもたちの話を鵜呑みにしただけではないことがうかがえる。
「おはようさん。ごめんね、突然。ここに、誰かが越してきたって村で聞いてね。あんたが、あの“森の小屋に住み始めた人”なんやろ?」
優しげな声に、悠は胸をなで下ろした。
昨日の子どもたちの話が、早速村に広まったのだろう。
彼はそっと扉を開け、微笑んで言った。
「あっ……はい。たぶん僕のことです。昨日、薪を背負ったお兄さんと、その妹さんが来てくれて。ちょうどパンを焼いていたので、一緒に食べたんです」
「ほぉ、それやそれや。うちの孫が、“えらい美味しいパンを食べた”って、帰ってきて大騒ぎしとったわ」
女性はそう言いながら、腰に提げた籠から小さな包みを取り出した。
「これ、持ってきたんよ。お礼ってほどでもないけど、村で獲れた“
差し出された布包みには、黒褐色の小さな豆がぎっしり詰まっていた。
触れてみると、ほんのりと煙のような甘い香りが漂ってくる。
「……なんだか、お香みたいな香ばしさですね」
「そやろ? この豆、火で炒ると香りが立ってな。パンに混ぜると、ふわっと甘い風味が広がるんよ」
「そんな使い方が……」
悠の脳裏に、いくつかのレシピが浮かんでいく。
そのまま焼き込んでナッツ風のアクセントにしてもいいし、潰してペーストにして練り込んでもいい。
「ありがとうございます。すごく参考になります。僕、こういう食材、大好きなんです」
「ほほ、そりゃよかった。孫も言うとったよ。“あのおにいさん、すごく丁寧にパン作ってた”って」
おばあちゃんは笑いながら、薪棚の横の切り株に腰を下ろした。
杖を脇に置き、足を伸ばす。
「こんな森の中やと、さぞかし不便かと思うたけど……住んでみると案外ええやろ?」
「ええ。静かで、空気がきれいで。それに、なんだか……落ち着きます」
悠は昨日と同じようにパン生地を仕込みながら、そっと答えた。
ただ静かに暮らす。それだけで、今の彼には十分だった。
パン生地をこねながら、彼はちらりとおばあちゃんの方を見た。
「ところで……この森、危ない動物とか、魔物とかって出ないんですか?」
少し躊躇いがちに尋ねると、おばあちゃんはけらけらと笑った。
「魔物ぉ? ここらにはおらんよ。森ん中にゃ小動物はおるけど、人を襲うようなもんはめったに出んわ。……あんた、もしかして“向こうの人”かい?」
「……はい、まあ、そんなところです」
おばあちゃんはふん、と軽く鼻を鳴らしながら、しかし好奇の目ではなく、親しげなまなざしを向けてくる。
「わたしゃ、向こうから来た人を何人か見とるよ。あんたみたいに、しずかに暮らしたがる者もおる。うるさく騒ぎたがる者もおる。でも、不思議とみんな、この土地のパンの味は褒めるんよ」
悠は苦笑しながら、石窯の扉を開け、試しに焼いた“甘煙豆”入りのパンを取り出した。
焼き色はほどよく、甘く香ばしい香りが室内にふんわりと広がる。
「これは……いいですね」
「ええにおいやなぁ。孫に持たせたら、また大騒ぎするで」
笑い合いながら、ふたりは焼きたてのパンを半分ずつかじった。
外はカリッと、中はふんわり。そして甘煙豆のほのかな甘味とスモーキーな香りが、口の中に心地よく広がっていく。
こうして、異世界でのパン作り生活に――
「森のパン屋さん」としての第一歩が、静かに刻まれていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます