第18話 歪みよ、偏見よ、並べ立てられよ

     ………………


「歪み、貴女の視座が歪んでいるだけでは?」


 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86は反撃の手を緩めない。彼女の正常なる世界は法水より放たれる乱心を誘う惑いの濃霧を拒絶する。だが、彼女の知覚と知能は残念ながら、法水の言葉を理解し、そして自意識を有している。


「あなたの、という言葉は正確ではない。全員のだ。だが皮肉な事にあなたという言葉自体は能くこの『歪み』を表しているがね。

 それは主体と客体、読む者と読まれるものを定義する。だが人間はそれぞれの主体を持っている、少なくともそういう見方が現在の主流だ。するとどうだろう、我々はそれぞれ同じものを観ながら、異なる意見を抱く。言葉の音や文字の形と意味内容の間に関連性が無いようにね」


能記シニフィアン所記シニフィエ……。ソシュールの言語学における発見……。ポスト構造主義。

 だけれどもそれが推理に適用されるというのなら、この世界の真実を求める行為の意義が失われ、無価値なものへとなってしまう。ポスト構造主義の思考……。相対的な評価を求め続ければすべてのものが普遍化され、その相対的評価をする意義さえも失われる。虚無主義に向かうばかりですよ」


「くくく。私が虚無主義者に見えるかなぁ? 果たして相対化が自家中毒を起こしその骨子となる意義までもそれを揺るがせてしまうだろうか。否。そもそもそのテーゼが違う。反題アンチ・テーゼを経た止揚アウフヘーベンの果てにある演繹的推理結果ジン・テーゼ

 はっはっは、ソシュールの後にヘーゲルとは、だが私の中にはいつでもニーチェが暴れているからね。

 ともかく、私はあらゆるものを相対化すべしと、そう考えている。それに社会的意義はない。あるとすれば個人的意義、つまりは拘りだ」


「拘り? 貴女は推理を行う者。推理とは真実へと向かう行為です。

 それが社会的意義を持たないというのは既にその推理は概念として破綻している。個人的な推理というのは『駱駝が針の穴を通り、太陽が西から昇り東に沈む』ことを真実とするような事。他者をないがしろにし、自身の意思に拘泥する。反科学的態度です」


「ははぁ、君は個人的意義を持たないのかなぁ?

 『ラクダが針の穴を通り、太陽が西から昇り東に沈む』そういう真実があってもいいじゃあないか。もちろん社会に生きる上でそれを明け透けと表に出すのは露出狂というほかないが、その心持でいることは何も問題はない。

 相対化の素晴らしさは正にそこだ、そこなんだよ。世界はキミや私の心の中でどこまでも自由なんだ。

 そして我が個人的推理手法はあにはからんや、社会的に認められた。そこの熊城クンが証人さ!

 そしてなぜ、これが社会的に認可されたのか。それは偶然か必然か、我が推理手法は相対化の果てに犯人の持っていた真理を私の知らぬ中で捕らえ、私の思ってもみない犯人の心根を犯人自らが示し、表すのだ。それは揺さぶりと疑念。

 つまりはねぇ、キミぃ。私の推理は相対化の果てにその個人的意義に寄り添うためのものなのだよ。ハナから事件の解決などは趣向していない。私は広く推理することだけ、それが他者の傍に寄り添えることを願っているだけなのだ。

 そしてそれが偶然にも私の興味を満たすことに繋がっている、それだけだよ」


 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86の精神は明らかに揺らぎを見せていた。

 その表情の変化はやや微細なものの、普段そう言った表情の機微に鈍感である支倉ですらそれに気づいていた。

 支倉の瞳には風に揺れる彼女の髪の動きがどうにも震えている彼女の心を表すように映り、それが一層彼女の表情へと視線を誘導している感じがしたのだ。

 だが、その動揺の揺らぎに、変化が生じる。


「……。寄り添う……。ですが先ほどの貴女の言い分は相対性や普遍性に欠けるものがありました。

 『猶太的犯罪ジュウイッシュ・クライム』あれを断定するのは相対的でない行為。つまりは偏見です。貴女の言う理想はほかならぬ貴女によってないがしろにされた。既に貴女の推理は破綻しているのです」


 言い逃れのできない反論。

 支倉は、法水が間違いを認める他ないとその言葉を聞いて考えた。だが、彼女は長い付き合いである法水が自らの間違いを認める姿が想像できなかった。何故ならば法水は今までその言い知れない説得力のある雰囲気と断定しない物言いで間違いの指摘をされる機会が無かったのだ。

 彼女は息をのんで、法水のこの危機的状況に何とも言えぬ不安を覚え、法水の心の不安を心配した。


 だが、法水は変わらない。


「そうなんだよ。さっきの私が話した猶太的犯罪ジュウイッシュ・クライムという断定。それは明らかに間違いだ。何の言い訳も無い」


「……。だったら、貴女の推理の信用はもう地の底に……」


「そう、私は明らかに相対的とは対極に位置する言説を先程まくしたてた。

 ――それは何故か?

 私の信条に反する行為を私が行う。

 まあ人間ならばその間違いは起こりえることと言えばそれまでかもしれない。無意識の偏見が露出したのかもしれない。差別とは不努力によって発生する人間の自然な行為なのかもしれない。

 だが、何故そのような不努力が、最も努力すべき、己を制御し、己を己の意思の下に操ろうとしている、人生の重要な楽しみに置いて、その楽しみを全てないがしろにするようなことを、あのような場面で行ったのか?

 その理由としてある一つの推理が私の中に浮かんだ!」


 法水にとって間違いを認めることは当然のことであった。

 何故ならば彼女は自身の言葉を真実であると思ったことはなく、ただ湧き上がるものを語っているだけなのだ。彼女の言葉は全てが推理であり、そしてそれだからこそ彼女が行った先程の『断定』に彼女自身が違和感を抱いた。

 今、法水の頭にあるのはそれだけ。その推理のことだけである。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86は、そのことを想像だにしなかった。だが、それがありありと目の前に示された今、彼女は慄然としてそのことを眺めるしかなかった。

 『何故、彼女はそこまで驚愕しているのか……』

 先程の彼女の動揺を認めてから、気になっていた支倉はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86の見せている深い動揺と、風によって暴れる嫋やかな黒髪の残像、それによって彼女の身体がブレているようにさえ見える感覚。それらがすべての事象がその一つの疑問を形づくる。


 法水はそうしたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86に起きる奇妙な事象を捉えるよりも、自らのうちより湧き上がる一つの推論を発露することに集中する。


「私が先程のような行為に走った理由、それは……」


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