第11話 ウィチグス・刻をこえて
……………
「なに、この世に存在しない!? い、一体どういうことなの!?」
どよめく一同。突然の法水の狂言とも言うべき発言は、しかしモーセの預言めいて真実味を帯びていた。
「そのままの意味さ。
ウィチグスなんて人物は我々の世界の歴史には存在しない。
確かにシルウェステル二世教皇は存在するが、十三使徒を派遣した記録は無いし、そもそも教皇の派遣員を火刑に処するような過激な行動なんてのはあの教皇庁が取る筈がない。基本的に異端審問は世俗権力者や民衆が支持し、聖職者がそれを諫めるものさ。なかなかに信憑性の乏しい人物だ。
にもかかわらずその呪法典を読んだと思しき博士はそれを本物だと確信をもって語った。
博士は極めて明晰な記憶力を誇ることで前々から有名だ。丁度20年前の同日から今日に至るまでに何を食べたのか即座に答えられるという隠し芸で度々教室を沸かして、何度もやりすぎて飽きられていたからねぇ。
その博士が突然、最近読んだ本について記憶違いをするものなのか?
よりにもよって彼の領分である図書室蔵書についての情報で?
しかも、根本から根拠不明な情報をアレだけハッキリと……。
そこから推論される仮説の一つ、私が最も確率の高い説と考えるのは『ウィチグス呪法典』が
「いい加減にしろ! 並行世界だって!? 映画の見過ぎだ!」
実際主義者として熊城が叫ぶが、法水はふわりと
「多元宇宙論は実際の宇宙物理学における仮説だ。そして我々の世界の見方を変えるものでもある。
かつて、宇宙物理学において宇宙は定常的であり密度は一定と仮想されていた。だが現在では幾度となくその論は覆り、ビックバン理論が定説となっている。科学において観測が広がることや新たな理論モデルが現れることで定説は大きく覆ることもしばしばある。かつて、18世紀後半において科学は絶頂を迎え、世界のほとんどすべては今後50年以内に明らかになるだろうと予想されていた。
しかし世界は量子力学や宇宙を発見し、幾度となく常識を転換していった。
そしてその革新の多くが多様なる仮説の海より現れたのだよ。そしてこの多元宇宙論もその一つに過ぎない。
私としては別に現実改変存在でもいいし、単なる記憶違いや私の知識不足が天文学的確率で同時発生した事による勘違いでもいい。だが、この仮説を置くことによって『リンフォン』の周囲で巻き起こる神秘について一つの
「……。だが仮設しているだけで事件が解決すれば世話はない」
熊城の反撃に法水はせせら笑うようにゆらりと揺れながら語る。
「それが解決するのだよ。それが今まで私が示してきたものだ。そして今回も示すことになるだろう。
「なにを……! うおぉお!?」
食い下がろうと一歩前へ出てきた熊城の背を、グイと片手で、支倉が持ち上げる。
部屋の一同がややどよめきたつが支倉は平然とした様子で言う。
「もう、熊城刑事。アツくなり過ぎですよ。麟音も少しは熊城さんのことを考えて……」
「悪いがこればかりは譲歩する気はないねぇ。相対性と非確証性だけは固辞させてもらうよ」
「もー。まあそれはそれとして……」
軽々と熊城刑事を降ろすと、支倉は話に戻る。
法水麟音は幾度となく殺人事件などを解決してきたが、その中で逆上した犯人や人物に襲われることもしばしばあった。その際に力を発揮するのが彼女、支倉奈々芽なのだ。
彼女のその可憐な少女としての姿からは想像だにできない筋力。その秘密は、彼女の異常な食欲と代謝、つまりは体質にある。彼女は鍛えることなく人間の限界に近しい筋力を保持し続けるのだ。それもあってか彼女は日に六食の食事を必要としていたが、法水の手配もあって現在は高栄養サプリメントの定期摂取によりその食事回数を一食減らすことに成功している。
「麟音、その『ウィチグス呪法典が
法水はその言葉に、待っていましたとばかりに答える。
「世界を超えてきた物体。それだけで十二分に今回起きた事象に関連できるだろうねぇ。世界の法則へと干渉するということが今回の事象の原因だとすればそれは……。一気に解決への道が導けるというもの」
その話へ
「それであるのなら早速検証してその証拠を押さえるべきだろう。その仮説が間違っていたとて、何か曰くがある可能性が高いのは言うまでもあるまい」
「ふぅん。まるで早くそれを見たがっている様な言い方だねぇ……。くくくく……。残念ながらウィチグス呪法典は私と熊城クンと支倉クン、そして博士で見に行かせてもらう」
「異論はないさ。我々はあくまで被疑者。何を期待する必要があろうか」
二人による不穏な雰囲気が部屋を覆う。
「だったらさっさと行くぞ。おい、しっかり入り口に立って被疑者を見張っていろ、戻ってきたらまた話を伺う」
熊城は部下の警官にそう指示するとスタスタと部屋を出ていく。
「あ、ちょっと、熊城さん行き先わかってないじゃないですか、待ってくださいよ!」
それに続いてやや覚束ない足取りで
法水達はかの博士のゆったりとした足取りについて行きながら二階へと至る。六芒星の道筋を示す廊下を進み中央の最も大きな図書室を避け、六芒星北東側の頂点に近しい廊下へと差し掛かった一行は、そこに存在する重厚な金庫扉によって守られる書庫を前にした。
「理事長の収集癖によって集められた非常に骨董・歴史的価値の高い本が並ぶ金書庫じゃ。ウィチグス呪法典もきちんと専門家によって鑑定された代物……。しかしウィチグスという人物の情報は……。儂には出典が思い出せぬ」
金庫のダイヤルを手早く回し、鉤によって錠を開き、重々しい金庫のハンドルを回しながら、博士は忸怩たる思いを顔に示しながら語る。
「その神秘も手にすることでわかるでしょう。我々には多くの視座がある。まあ、その場所にまだそれがあればの話ですが……」
「何を言う! これだけの厳重な金庫を破れるものがあろうか!」
そうしてゆっくりと金属の扉が開かれた。
果たして、法水の予言めいた言葉の通り、その書庫の内部、展示台に一つ一つ並んでいる本のいくつかが、あるべき場所に存在していなかった。
「な、なんじゃと!?」
「おい、これはどういうことだ!? 窃盗事件まで起きたというのか!?」
熊城の叫びに法水が付け加える。
「あるいは、博士自身が誰かにそれを渡した、か……」
「何を……! 何を根拠に!」
博士は法水へと振り向き怒りをあらわにする。
だが法水はその言葉を留めることはない。
「状況がそう語っているのだよ。その金庫の鍵は一体他に誰が持っているのかね? この硬質な鉄板に覆われ、空調機能こそあれど封鎖されたこの書庫からするりと書物を幾つも盗み出せるものがそう多くいるようには思えないねえ」
「儂を疑うというのか! ああ、それは良いだろう。だが、今、先程のお前の仮説も立証が不可能になったのだ。それは忘れるんじゃあない。これによって犯人の推定は更に困難を極め、ついで無実の儂を疑わせることに成功したのかもしれんな! まんまと嵌められたというわけじゃ!」
やや興奮気味にそう言う博士に対して法水は退くことはない。
「立証や検証はあとでもできるさ。それに今回の事件においてそれはそこまでの意義を持たないだろう。
それよりも私が今懸念すべきことは犯人によってこの厳重なる金庫が破られた、いや。破られたように見せかけられた、ということだねぇ。博士以外この金庫は触れられない。その事実が博士の疑いを跳ね上げている。……。
事件当時に
「そ、そのようなことがァッ……! クッ……ゴホッ、ゴホッ!」
博士は興奮のあまり咳き込み始める。
「博士! ……。法水、もういい。詳しくは部屋で訊く。先に担いでいかせてもらうぞ。お前と一緒に連れて行くと途中で彼を殺しかねん」
熊城はすかさず、博士を支えてそう言う。睨まれた当の法水は特に悪びれる様子もない。
全員が金庫から出て、鍵を閉めると、熊城はそそくさと博士を連れていく。
支倉は法水を諫めようと、彼が去った後に言う。
「麟音、流石にアレはやり過ぎだよ。博士が身体が弱いのはみんなも……」
「ああ、周知の通りだ。そして彼と
「ええ!? じゃあ、さっきの博士への尋問は!?」
「無論、でっち上げさ。あんな凡庸な推理、私の趣味じゃあない」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます