第6話 現象よ、真名を揺るがせよ

     ……………


 法水の狂言。しかし熊城はそれへ猜疑の質問を投げることなく、隣の部屋へ向かう事を優先した。

 法水本人もそれについて行くかたちでスタスタと部屋をあとにする。

 支倉もそれに続くが、彼女は部屋を出る前、その部屋をふと振り返って見る。

 法水の語った神話によって部屋の物品すべてが重々しい意義をもってそこに存在していた部屋はふっと一息に魔法が解けたかのようにその存在感を揺るがせているように思えた。

 果てはその物品一つ一つの輪郭が溶け合い、遠くの情景をぼんやりと眺めるときのような奇妙な光景が彼女の瞳に入り込む。

 だが、その現実味薄れる光景は彼女を呼ぶ法水の声で寸断される。


「おうい、早く来たまえよ」


「う、うん」


 そう言った直後、彼女は再び部屋を見る。先程までの奇妙な感覚はなくなり、整然と物品が棚や壁に並び、鮮血によって染められ、穢された哀れなる理事長室とその主であった遺骸が残されていた。

 支倉は先ほどの光景を自分の動揺が作り出した幻影だろうと胸をなでおろし、隣の部屋へと向かうべく赤い絨毯に彩られた廊下を進む。


     ―――――


 隣の部屋……。大応接室へと向かう廊下。丁度、その部屋の扉の前で、法水が立ち止まっている。支倉は彼女の目が廊下に掛けられた一枚の絵画に向いているのが分かった。

 その絵画は額縁に飾られながらも無地と思えるほどに何の象徴も行われていないような、正しく帆布キャンバスそのままの絵画であった。


 法水はその絵に対して深い洞察を行うように瞳をしきりに動かしながら所見を述べる。


「知っているかい? 抽象画というのは、写真技術が生まれてから活発化し一大潮流となったんだ。

 それまで現実の模倣から離れること、象徴を志すことは絵画において度々試みられてはいた。西洋芸術における頂点の美である宗教画は宗教歴史画なんかもあるが、神をそのまま示すことは偶像への忌避もあって避けられることもあったからね。奇想による象徴やナンセンスな表現も長い歴史の中においてしばしば見られる。

 だが、こと抽象においては実に乏しい。日本の画壇における漫画的表現や省略等はその萌芽と言えるが、それを主題とすることはない。そして日本における抽象画は開国以後、写真技術の浸透が進んで以後だ。芸術において江戸時代、大衆化とポスター広告文化という一大先進国であった日本だが、抽象画は生み出せなかった。

 それは写真技術が無いせいか、あるいは最初から抽象と具体の狭間における美を進んでいたからか……。

 とかく、こうした抽象画は実像を精緻に焼き付けて記録せしめる写真技術によって生み出されたのだよ。当初、写実主義が流行っていた画壇はこの工業技術によって終焉を迎えるとさえ言われたが、抽象画の隆盛とそれに続く芸術の変革によって写実画も写真と同じく生存しながら今日まで生き延びている。

 この絵はその前提を思えば、なんとも示唆に富むと言えないかね? 真実を写すと書き、実像を転写する写真によって導かれし、実像を伴わない真実の描画……。それが抽象画。

 そしてこの絵は主題として虚無的な描画を行っているとも考えられる。

 いや、もしかするとそうではない主題、例えば徒労を表すべく作られた作品。

 あるいは抽象画という概念自体を批判するべく、ただの無地帆布ホワイト・キャンバスを額縁に入れているのか。

 もしくはこの場所にこの大きさの額縁で絵画を飾りたかったが偶々丁度よい品がなくて暫定的に無地帆布ホワイト・キャンバスを飾っているだけか……。

 事件の進展とともに、この絵画の意味も明らかになるかもしれないね。何と言っても、この絵画は今日……」


 法水の流れるような講釈の果て、突如投げ落とされた爆弾に支倉は肩をびくりとすくませるほどに驚く。


「なんだって!? 突如あらわれた!?」


「そのとおり。この絵画はこの壁に今日、現れた。恐らくその要因の背景には犯人の影が潜んでいるのだろう。故にこの絵画は意味を持つ……。

 この壁を見たまえよ」


 法水が示す壁の色は黄色い壁紙に彩られている。それは金鍍金メッキの額縁と重なる色合いであり、額縁にひどく不釣り合いな状態であった。


「これは……。同系色は良くないってのは分かるけども……」


「そう、まず色味が悪い。この館の廊下は幾つか種類バリエーションがあるワケで、わざわざこの額縁をここに持ってくる必要性は全くない。犯人は少なくとも色相に関する感性センスに乏しい、あるいは色弱などの特徴を持っている可能性もある。

 そしてこの壁にはまだまだ語りかけてくる証拠が残されている。それこそまさにこの絵画が今日この場所に現れた理由さ。

 この壁の傷。これこそがこの額縁を『今日』ここに出現させたことを示す手がかりだ」


 法水が示した壁紙に見える小さな削り傷、それは額縁の裏にまで及んでいるものであり、二センチ程度の長さがある。

 支倉はきょとんとした顔を法水に向けて聞く。


「これがどうしたの? ただの傷だと思うけど……。まあ確かに額縁の裏に隠れているけど……。だからって今日、この傷ができたとは言えないんじゃないの?」


「支倉クン、先日の事件を解決した際、我々は理事長室へ招待され二三、理事長と言葉を交わしたね」


「あ、うん。そうだね。丁度、一昨日」


「そう、その時に、あの部屋には……。西洋騎兵具足、悪魔偶像バフォメットとエリシャを繋ぐ架け橋が無かった。他にも星座図の織物タペストリアイヌ刀エムㇱなどが無かったが、特にこの傷と関連するのはあの具足だ。

 理事長が骨董品に関して偏愛を抱いていることはこの学園に通う者にとってもはや言うまでもない。そしてこの偏執狂的骨董品展示欲は週替わりで館全体を模様替えする奇妙な因習を誘発している。

 この館の骨董品が一週間以上同じ場所で見られることはあり得ないのは君もよく知るところだ。大抵は用務員の方や事務員の方々が動員され週末などに物を移動しているが、ことこの部屋に関してはもっと恐るべきことに、何か来客などがあった後、理事長自らが応接室と理事長室、あるいは倉庫などから骨董品を移動させるのだ。

 当然彼一人では問題も起きる。大抵は保護具を骨董品に憑りつけるが、稀にその保護具が骨董品のみを守るように、つまりは壁にぶつかった際の衝撃吸収材が骨董品のみに向けられ、外側を木枠などで固定している場合がある。

 このような拙速な運搬は理事長しかしない。骨董品を壊して首になった職員は多いからねぇ。誰もが額に汗して慎重に運ぶ。だが当の本人はその偏執心ゆえの焦燥がこのようにやや杜撰ずさんな運搬を行い、結果、稀に壁を傷つける。

 この傷は正にそれだ。そしてこの傷ができる日取りは昨日以外ありえない。

 一昨日は私達への対応以後、職員会議と会食を控えていたようだったし、本日ではあの自尊心プライド大暴発ライオットを発生させているだろうからね。

 昨日の空き時間に、理事長自らが必死にあの物品を移動させた。

 そしてこの傷ができ、それを覆い隠すようにこの額縁が現れるわけだ」


 法水の観察能力と恐るべき想像力による推理能力がまるで過去を見てきたかのようにこの額縁の絵画に隠される歴史を紐解いた。

 そして時節タイミングの良いことに丁度、応接室の扉より熊城が顔を出した。


「おい、事情聴取に付き合え、一応お前らもこの現場に関わる被疑者だ。きわめて可能性は低いが」


「ああ、熊城クン。勿論そうさせてもらうが、この額縁に入った絵画について後で調べてくれたまえ、具体的にはいつここに出現したのかについてね。職員等々の証言を聞きまわってくれよ。もののついでで良い」


「お前な、俺は刑事だぞ? お前の部下でもなければ同僚でもない。そう言うの自分でまず……」


 熊城の正当な苦言を無視して法水はすたすたと応接室へと入っていく。


「あ、ちょっと麟音! 流石に熊城さんの言うことが正しいよ、待って」


 支倉がそう言って応接室に入ると、そこには既に六人の教師や女子生徒たちが椅子に座り、事情聴取を待ちわびていた。

 だが、彼らを見た支倉には極めて強い違和感がはしる。


 先に部屋に入っていた法水はそんな支倉の困惑した表情を見て、ニヤリとした笑みを浮かべて言う。


「わかるかい? この素晴らしき異常を……! ああ、現実はついに我々の世界の根幹さえも揺るがし始めた。我々の世界は、我々の中にのみありながら、この狂った現実の現象によっていとも容易く揺るがせられる。カフカや安部公房が暗示によって形づくったそのナンセンスが今、我々に直に降りかかっているのだ!

 ああ、ああ! この違和感、異常の正体を一刻も早く、早く暴きたい……! 神秘というヴェールを剥ぎ取りたい!」


 耽美ロマンチシズム自己陶酔ナルシズムで、芝居がかった表現をもって、法水は『謎』の発生を宣告した。

 応接室の者たちは動揺すれど、法水の示す『謎』の存在には一様に同意していた、ある一人を除いて……。

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