第38話 ぬぐえぬ違和感

ルイの放った圧倒的な重圧魔法により、クラーケンはじわじわと歪み始め、赤黒い表皮のいたるところから、血のような赤い液体が滲み出ていた。


それを見ていたアリ、ゼノ、アデル、アレクシスたちは、徐々に勝利を確信し始めていた。


古の魔法による魔物討伐を見てきた者たちは皆、

ルイの放った魔法が、古の魔法に匹敵するレベルであることを感じ取っていた。


(倒せるかもしれない……!)


「ルイ陛下、すげぇな。魔力量が圧倒的に増えてるぜ」

ゼノが感嘆の声をあげる。


アリも驚きを隠せない。

「水属性の詰まりを解消したけど、こんなになんて……

ルイが使った魔法は、タイタン討伐で使った古の魔法インペルス・マギアと同等の威力かもしれない」


「しかも、ルイが放った魔法……属性が感じられない」


ゼノが「えっ?」と聞き返した、その時――


圧力に押しつぶされ、形を歪めていたクラーケンが、わなわなと震えだした。

赤黒かった表皮が真っ赤に染まり、さらなる硬質化を始める。

“これ以上は許さない”――そんな怒りの魔力が感じられた。


そして、掛かり続けていた圧力が、一定以上は上がらなくなった。

止めを刺せない――ルイはそう直感する。


「……これ以上は、魔法がもたない……!」


広域結界と大魔法によって、ルイの魔力はすでに限界に近い。

そして、クラーケンは徐々に圧力を押し返すような動きを見せてきた。


ググッグググググ――


束の間、クラーケンの動きが止まった。

そして次の瞬間、アリの張っていた古の魔法の結界が消滅。

その直後、クラーケンを中心として、海の底から黒い衝撃波が円形状に放たれた。まるで“死の波動”のように。


「うわああああ!!」


アリ、ゼノ、ルイたちはとっさに防御結界を展開し、衝撃を防ぐ。


「まだ、こんな力が残ってやがるのか!」

アレクシスが唇をかむ。


彼とゼイガルは、逃げ遅れた船や人々を守っていたが、防御が間に合わなかった調査団の面々、そして結界に入れなかった船が、衝撃波と大波に飲み込まれていった。


衝撃波が止むと、海上には巨大な水柱が立ち、それが崩れるとともに、再びクラーケンの姿が現れる。

アリの結界は解けていたが、ルイの重力魔法はまだわずかに残っていた。


クラーケンの身体からは、なおも赤い液体が漏れ続けている。

動きは鈍り、大ダメージを負っていることは明らかだった。


(先ほどの衝撃波を万全な状態で打たれていたら、ひとたまりもなかった……!)


アリは理解した。

ルイは魔力を消耗し、とどめを刺すことができない。

ならば自分がやるしかない――そう判断し、古の魔法を再度解放した。


アリは即座にクラーケンへと最接近する。


ルイは肩で息をしながら、アリの動きを見つめる。

「アリ……!また古の魔法を使ったら……!」


アリも先ほど古の魔法を使っており、魔力は残りわずかなはず。

もう一度撃てば、魔力切れは避けられない――ルイはそれを懸念するが、

アリはすでにクラーケンの眼前にいた。


そして、静かに呟く。


「これで終わりだ。沈め――深海の魔、《クラーケン》よ」


──「ネクス・アブソルタ――《完全なる死》」


詠唱が終わると同時に、辺りを静寂が支配した。

風が止み、空気が凍りつき、世界そのものが息をひそめたかのようだった。


その言葉が響いた瞬間、大地に禍々しい気配が走る。

無属性の魔力が渦を巻きながら融合し、天と地を貫く柱と化す。

その中心には虚無が生まれ、すべての生命活動が一瞬で奪われていく。


標的の魔物は抵抗すらできなかった。

音もなく、命という概念そのものが引きはがされ、ただ崩れ落ちていく。

皮膚も、魂すらも──分解されていくように。


それは攻撃ではなかった。

裁きだった。


「これは……消滅の魔法……?」


誰かが呟いたが、それすらも空虚に消えていく。

残ったのは、沈黙と、死の余韻だけだった。

そして、空へと舞い上がる光の粒子。


アリはそれを見届けると、魔装を解き、静かに海へと沈んでいった。


「アリ――――!!」


ルイの声が、遠く響いた――


✦ ✦ ✦


鳥のさえずりが聞こえる――


ぼんやりと光を感じ、やがて視界がぼやけながら広がっていく。

うっすらと瞼を上げると、見慣れない天井が目に入った。


身体が重い……そう感じながらも、アリはゆっくりと身を起こした。


見渡すかぎり、やはり見覚えのない部屋。


(あぁ、また倒れたんだ……クラーケンは確か倒したはず……)


そう思い返していたところで、扉が開いた。


ルイだった。


「アリ! 起きたの?」


足早に近づいてきたルイはベッドの縁に腰かけ、アリの顔を覗き込む。

そして、部屋について説明しながら言った。


「ここは、アレクシス皇子が手配してくれた宿だ。

気分はどう?大丈夫?」


「うん……大丈夫だけど……今回は被害が大きくなってしまったわ……」


「そうだね……でも、君がクラーケンを討伐してくれた」


あれほどの巨体で強大な敵。

広域結界で守れる範囲には限りがある。

それに、召喚の兆候を検知した直後に出現したのでは、事前に避難を促す余裕すらなかった。


アリもルイも、それは理解していた。


けれど、それでも。多くの民が犠牲になった事実は、やりきれない。


誰が何のために、こんな魔物を召喚しているのか。

民を巻き込んでまで、何を得ようとしているのか――。


そして、タイタンの出現から今回まで、一年も経っていない。

なぜ、間隔が縮まっているのか。

これは始まりに過ぎない――そんな予感が、アリの胸をざわつかせていた。


次々と浮かぶ疑問と焦燥。アリはその不安を隠しきれなかった。

ルイもまた、彼女が何を思い、何を言いたいのか察していた。

だからこそ、しばし沈黙し――そして、口を開いた。


「俺がとどめを刺せなくて……君にばかり負担をかけて、申し訳ない」


その一言に、アリははっとした。


「ルイが謝ることなんてない! ……ルイの放った重力魔法は、古の魔法に匹敵していた。

あれほどの大魔法だし、魔力の消耗も激しかったはず。

とどめまで刺すのは、難しかったと思うわ」


そう。ルイも限界まで魔力を使っていたはずだ。


アリはふと、自分の“魔力の消耗”が気になり、ルイに尋ねた。


「そういえば……私、どれくらい眠ってたの?」


「二日ほどだよ」


その答えに、アリの思考が止まった。


(二日も……?)


――それが本当なら、この違和感は何だ。


二日も眠っていたのに、魔力がほとんど戻っていない。


今までだったら、目覚めると魔力は体にみなぎっていた。

なのに、今回は、ほんのわずかな魔力しか体に流れていない気がする。


これまでのように、目覚めて回復しているのであれば、 体質のせいだと思い込めたかもしれないが、違う。

違和感が確実にアリに襲い掛かる。


アリは、胸の奥に広がっていく不安をどうにも押さえきれなかった。


その異変に、ルイも気づいた。


「アリ……どうしたの……?」


「二日も寝ていたのに……魔力が、回復してない……」


アリは小さく呟いた。


以前、アリから「休めば回復する」と聞いていたルイは、その言葉に意表を突かれる。


「それは……魔力を使いすぎて、休息が足りないということはない?」


「わからない……こんなの、初めてで……」


確かに、前例がない。


ルイの言うように、もう少し休めば回復するのかもしれない――

けれど、その希望も心の中では揺らいでいた。


アリは、これ以上ルイを心配させたくないと感じ、言った。


「……ルイ、もう少し休んでいい?」


「もちろんだよ。ゆっくり休んで」


ルイは極力、心配の色を見せないようにそう言って部屋を出ていった。


残されたアリは、しばらく扉のほうを呆然と見つめ続けた。


(これは……体質の問題なんかじゃない)

そう、確信していた。


一方ルイもまた、アリの異変を深く受け止めていた。


体調が相当悪いのではないか――

そう感じたルイは、帰還次第、侍医ルドガーに再診させようと固く決意していた。


✦ ✦ ✦

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