第4話 はじまりの出逢い
グロザリア王宮の一室、王の間には、戦の爪痕が生々しく残っていた。
破れた絨毯、崩れた石柱、焦げた天井。その中央で、ひとりの男が静かに膝をついている。
グロザリア王、カリオン・ネブラード。
威厳を纏っていたかつての姿はなく、王の衣をまといながらも、どこか虚ろな瞳をしていた。
アリは、ゼノと数名の護衛を伴って彼の前に立った。
「カリオン王。あなたに尋ねたいことがある。」
アリの声は冷静で、けれど感情を殺しきれぬ芯のある響きを帯びていた。
王は視線を上げるも、焦点は定まらず、虚空を見つめていた。
その様子に、アリは違和感を覚える。
(妙だ……言葉を交わせる状態にあるはずなのに、まるでこちらの声が届いていない)
「……この状態で尋問しても、無意味かもな」
ゼノが警戒を込めて低く言った。
だが、アリは王の瞳をまっすぐに見つめ、歩み寄った。
そして、そっと右手を王の額へと添える。
「サリエル・ルーメン――<<魂の揺らぎを視る光>>」
古の魔法が発動する。
瞬間、アリの瞳に映ったのは、王の精神に絡みつく黒い鎖――精神を縛る呪術だった。
「……やはり、操られている」
魔力による洗脳。高位の魔術で、強制的に人格を抑え込む術。
王の中には、ほんの僅かに、残された“自我の灯”が揺れていた。
「……私の声、聞こえますか。カリオン王」
アリは、魔力を指先に集め、王の額に静かに注ぐ。
自我の灯が、微かに揺れ、そして――
「……っ……あ……ああ……!」
王の目が見開かれた。瞳に、生気と理性が戻る。
「ここは……私は……アストリアンは……我が国は……っ!」
彼は怯えたように顔を覆い、次に、深い後悔の色を湛えてアリを見た。
「あれは……私の意志では……なかったのだ……!」
アリが静かに問いかける。
「皇帝暗殺も、魔物の召喚も、あなたの意思でしたことではないのですか?」
「ちがう……私の意志では……知らぬ間に……気づいたときには……」
震える手が唇を覆う。
「誰に……? 誰に操られたのです」
「そ、それは……名は……ゼ……」
その瞬間――
ズン……
王の体が急に震えたかと思うと、彼の口元から黒い煙が漏れた。
目が見開かれたまま、苦悶の表情を浮かべ、王はその場に崩れ落ちた。
「王……!」
ゼノが駆け寄るも、すでに手遅れだった。
王の胸元からは、かすかに赤黒い魔力の痕跡が漂っていた。
アリはその痕を見つめ、低く言った。
「……自白と同時に、命を絶つ術がかけられていた」
精神操作に加え、命を奪う呪詛――
それは尋問の先を封じる、徹底した“情報の遮断”だった。
「これで……暗殺の真相も、魔物の件も……真相はすべて闇の中、か」
ゼノが苦く言う。
だがアリは、目を細めて言った。
「……いや。まだ“誰か”いる。影で糸を引く者が」
そのとき、アリの中に、あの夜感じた“不穏な気配”がよみがえる。
王を操った者、そしてあの裂け目と魔物を呼び出した存在――
『ゼ……?』
王が最後に言いかけた名が、アリの心に鈍い予感を残した。
この日以降、皇帝暗殺事件と、魔物召喚の真相は証拠不十分として公的記録から抹消された。
だがアリは確信していた。
――影に潜む“何か”が、再び牙を剥く日が来ることを。
✦ ✦ ✦
アリは即位時の宣言通り、わずか五年で国を平定し、再建と復興を成し遂げ、アストリアン大国は「黄金静穏期」と呼ばれる安定の時代を迎えていた。
――アストリアン歴947年。
爽やかな風が草花を揺らし、淡い若緑が地平を彩る春。
アリは隣国グランゼルド帝国を訪れていた。
王宮の門扉をくぐった瞬間、壮麗な景色が目に飛び込んでくる。
広大な敷地と、咲き誇る青い花々――あれは、デルフィニウムだろうか。
グランゼルドの象徴ともいえる“青”が、庭一面に広がっていた。
王宮の建物もまた、青を基調にした重厚で左右対称の壮麗な造り。
その規模も豪華さも、アストリアンとは比べものにならない。
アリは思わず息をのむ。
「美しい……。あの花も綺麗だけど、ファレノプシスも映えそう」
彼女は内心でそう呟きながら、案内役に促され、王宮の奥へと進む。
通されたのは迎賓の間。公式の謁見室ではない。
アリの意図――大々的な訪問ではなく、礼節を尽くすための私的な挨拶――を、ロイ皇帝も理解していた。
扉が静かに開き、そこにはロイ・ヴァルディア皇帝の姿があった。
柔和な笑みを浮かべ、アリを迎える。
アリは一歩進み、右手を胸元に添えて、静かに頭を下げた。
その所作は落ち着きと気品に満ち、皇帝としての威厳と礼節を感じさせる。
「アストリアン大国、皇帝アリア・クラリエル。
このたびの戦に際し、貴国より多大なるご支援を賜りましたこと、心より感謝申し上げます」
ロイは微笑みを深めた。
「顔を上げてください、アリア陛下。
我らもアストリアンの行く末を案じておりました。
よくぞ……この困難を乗り越えられましたね」
アリとロイ。年齢こそ親子ほど離れているが、国を背負う者同士、対等の言葉が交わされる。
ロイは、亡き皇帝ヴィラード・クラリエルの友人であり、アリがまだ幼い頃に何度も面会していた。
彼はアリを実の娘のように可愛がり、父の死後も、すぐに駆けつけてくれた人物だった。
当時七歳の幼き皇帝が、両親の死を乗り越えて国を背負う姿に、ロイは心を動かされ、アストリアンの支援を申し出た。
そのときアリは、深く感謝を示し、「次は私が貴国を助ける」と誓ったのだった。
やがて儀礼的な挨拶が終わると、場の緊張が和らぎ、アリはふと笑みを浮かべて言う。
「ロイ様、お久しぶりでございます。お変わりありませんか?」
「うむ、変わりない。アリア様もお元気そうで何よりです」
やわらかな会話が続くなか、ロイはふと思い出したように言った。
「そうだ、今日は息子がおります。ご挨拶させましょう」
側近に指示が出され、しばし後、扉が再び開く。
現れたのは、一人の若者だった。
「お初にお目にかかります。グランゼルド第一皇子、シリウス・ヴァルディアと申します。
アリア陛下、お会いできて光栄です」
落ち着いた笑みと、柔らかな物腰。
その佇まいはどこかロイに似ており、アリはふと「同い年には見えない」と感じた。
ロイは苦笑混じりに言った。
「アリア様と同じ年の息子は、視察からまだ戻っていないのです。今日戻るはずだったのですが……。こちらは兄のシリウスです」
アリは納得し、微笑んで応じた。
「はじめまして、シリウス皇子。アリア・クラリエルです。
ロイ様に雰囲気がよく似ていらっしゃいますね」
「よく言われます」
ロイも朗らかに笑いながら言葉を添える。
「顔つきは、もう一人の息子のほうが似ているようですが」
ふと何気なくシリウスを見ると、彼はじっとアリを見つめていた。
その視線はどこか熱を帯びていたが、気づかれると、ふわりと笑みを浮かべた。
優しく、柔らかいその笑みは、すぐに他愛ない世間話へとつながる。
けれどアリは、その一瞬、微かに違和感を覚えた。
何かが、ほんのわずかに引っかかった。
それが“感情”だと気づくには、もう少し時間がかかるだろう。
やがて短い会見は終わり、アリは王宮を後にする。
✦ ✦ ✦
帰路。
馬を走らせていたアリの目に、ふと心惹かれる風景が映った。
春の陽光に照らされた草原。
高く澄んだ空の下、緩やかな丘が続き、草の海が風に揺れていた。
アリは手綱を引き、馬を止める。
「ゼノ、少し休憩しよう」
ゼノにそう告げて馬を降りると、淡い緑の波が頬を撫で、遠くで鳥のさえずりが聞こえた。
✦ ✦ ✦
そのころ――
同じ草原の反対側を、一騎の馬が駆けていた。
簡素な軍服に身を包む少年。
金色の髪に、澄んだ碧眼。
静かな横顔は陽光に照らされ、まるで絵画のように美しかった。
彼こそ、グランゼルド帝国第二皇子――ルイ・ヴァルディア。
この日、帝国の国境地帯――数カ月ほど前に民族紛争が起きた地域を視察していた。
焼け残った家々、未だ癒えぬ人々の表情。 戦火の爪痕は、生々しくこの地に残っている。
「……これが、現実か」
まだ皇太子と定められたわけではなく、第一皇子である兄シリウスの存在もある。
けれども、ルイは己の立場に関わらず、いずれ国を担う責務の一端を負うのだと、幼いながらに理解していた。
その重みに気づくほどには、すでに冷静な目を持っていた。
そんな折、父ロイのもとに、隣国アストリアンの皇帝が訪れたという話を耳にした。
「同じ歳で、皇帝……」
どんな人物なのだろう。どんな思いで国を治めているのだろう。
会って話をしてみたい。
視察からの帰路、そんな想いがルイを小高い草原へと向かわせた。
✦ ✦ ✦
ルイが木陰に入った瞬間、足元で小枝を踏み「バキッ」と乾いた音が響く。
その音で目を覚ましたアリは、バランスを崩して木から落ちた。
「うわぁ」という声とともに、葉をかき分けるようにアリの小さな体が落ちてくる。
ルイはとっさに上を見上げ、反射的に両手を広げ受け止めた。
次の瞬間、ふたりの視線がぶつかる。一瞬、時が止まったように見つめ合う。
まるで、世界が静止したかのようだった。
風の音も、鳥のさえずりも遠のき、
ただ、互いの瞳だけがすべてを語りかける。
名も知らぬはずのその人に、
懐かしさにも似た温もりを感じた。
アリがはっと我に返り、口を開く。「ごめんなさい!!!」
ルイが応える。「...大丈夫?」
アリはうなずいて笑って見せた。「ありがとう!」
ルイがそっとアリを地面に降ろす。
アリの服装はありきたりな、お嬢さん風の服装であったが、不思議な威厳が滲み出ていた。
その佇まいに、ルイはなぜか目を離せなかった。
疑いというよりも、ただ強く惹かれていた。
「このあたりの人?」ルイは自然に尋ねた。(ルイが異性に興味を持つのは、これが初めてだった)
「ううん、ここへは旅行できてるんだよ!」
『旅行者?どこかのご令嬢か…?この辺りに観光名所なんてあったか…?』と、ルイは内心で考える。
「どこから来たの?このあともどこかへ?」
「アストリアンから来たんだ。もう帰るところだよ」
「…アストリアン」
「あなたは...。。。あなたも旅行者?」
「まぁ...そうだね。そんなところだよ」
(この国の皇子で、視察帰りだとは言えない)
そのとき、遠くから声が響いた。
「ルイス~!」
ルイとアリは同時に振り返る。声の主は魔導騎士団のアデル。視察時には身分を隠すため、ルイを「ルイス」と呼ばせている。
ルイは手を軽く挙げて応えた。
アリはその名を心の中で繰り返す。『ルイス……』
「君の名前は?」
「アリだよ」
「アリか。...また会える?」
「うん。また...会えるよ」アリは目を細めて微笑んだ。
その直後、アデルが小走りでルイのもとへ駆け寄ってくる。「ルイス!」
ルイが反射的にアデルを見たあと、もう一度アリの方を振り返る――
だが、そこにアリの姿はなかった。
『消えた……?』と、ルイは思わずあたりを見渡す。だが、アデルの声に思考を遮られ、やむなく馬車へと戻っていった。
✦ ✦ ✦
丘の陰からアリは馬で駆けていくルイの姿を見つめていた。隣にはゼノが立っている。
ゼノ「だれ、あの坊ちゃん...?」
アリ「皇子だよ。グランゼルド帝国の第二皇子、ルイ・ヴァルディアだ」
ゼノ「なんでわかるのよ?」
アリ「ロイ皇帝とお顔が似てるじゃない。容姿端麗、金髪で青い瞳、高貴。ときたら、ルイ皇子でしょう。しかも彼の剣の柄に、ヴァルディア家の紋章が入ってたしね」
ゼノ「なるほどね笑」
名を明かさなかった彼に、再び会う日は──
きっと、そう遠くはない。
アリは、ただそう感じていた。
その出逢いが、この先の運命を大きく動かしていくことになるとは、
まだ、知る由もなく。
✦ ✦ ✦
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