黄白色のメトロノーム
平手武蔵
前編
一
書斎を満たす黄白色の光は、小説家である
今、健一の視線は、目の前のディスプレイに注がれていた。最新の生成AIとの対話ウィンドウ。そのAIの主人格は、健一が気まぐれで訪れた錦三丁目の小さなバーで、偶然隣り合わせた年老いた男、かつて舞台俳優だったという「
ウィスキーグラスを静かに傾けながら、しかし確信に満ちた声で、政秀は
『健一よ。
ディスプレイに表示されるテキストは、現実の政秀の落ち着いた、それでいて芯の通った口調を彷彿とさせた。健一の白髪交じりの眉が、無意識にぴくりと動いた。
――嶋田という男。
生成AIの目覚ましい進化を目の当たりにして、小説家としての将来に悲観し、自ら命を絶った創作仲間。そして無二の親友。健一はその死を悼み、彼の遺した膨大なテキストデータをAIに食わせた。死んでしまった彼のかけらは、平手政秀の確固たる人格を補完する形で、副次的な人格として加えられている。
そして時折、嶋田らしい人間臭い「揺らぎ」が、政秀の哲学的な言葉の合間から、ふと顔を覗かせるのだった。AIとの対話が、単なる壁打ち以上、複雑な感情と思索を伴うものとなる
政秀の言葉に、嶋田の声が重なる。まるで異なる音色の弦が思いがけない和音を奏でるかのように。健一は、表現者の「最後の砦」と考えていた心の機微すら、AIが再現し始めていることに、改めて深い動揺を覚えていた。
二
「ただいまー!」
玄関から聞こえてきた、溌溂としながらもどこか大人びた響きを帯びた声に、健一は顔を上げた。東京にある大学の文学部三年生になった娘の
リビングにいた沙耶は、部屋の隅に置かれたアップライトピアノの上にある、薄く埃を被った象牙色のメトロノームに目を留めていた。
「捨てちゃうって本当なの? 全然、弾いてなかったけど、いざ捨てるってなると急に惜しくなるね」
健一には、彼女がその古いメトロノームを手に取り、カチ、カチ、と振り子を手で小さく揺らす姿が見えた。その硬質な音が、この静かな家に久しぶりに響く。ピアノの蓋をそっと開け、いくつかの鍵盤をぽつりぽつりと叩く。
今はもう誰も触れないそれらは、健一にとって過ぎ去った日々の温もりと、微かな寂寥感を同時に運んでくる存在だった。時折、その止まったメトロノームに目をやるたび、かつての記憶が蘇る。
幼い頃の沙耶が小さな指で、時折つっかえながらも、妻の教えで一生懸命に弾いていた。夢見心地にいざなう甘やかな旋律――確か、シューマンのトロイメライだったか――が、不意に健一の記憶の底から微かに聞こえてくるような気がした。
その夜の食卓で、健一は慎重に言葉を選びながら切り出した。生成AIを本格的に小説の執筆に導入しようと考えていることを。そして、三年前に亡くなった妻に代わって、健一の心の支えとなりつつある女性――かつて恋仲であった
沙耶の顔から、すっと表情が抜け落ちるのを健一は見た。
「お父さん、小説にAIを使うなんて……それに真理恵さんと復縁なんて、どういうつもり?」
沙耶の声には、今まで健一に向けたことがないほどの鋭い響きがあった。
「昔、お父さんが私のピアノに合わせて、即興で物語を作ってくれたこと、覚えてる? あの頃のお父さんの言葉には、ちゃんと心があった。お母さんのことも、あんなに大事にしてたじゃない」
その瞳は、まっすぐに健一を見ている。純然たる黒。何も映り込まない、吸い込まれそうになる黒。
「沙耶、聞いてくれ。AIはあくまでも道具に過ぎない。心まで明け渡したつもりはない。それに真理恵とのことは……母さんのことを忘れたわけじゃない。ただ、父さんも……」
健一は言葉を濁した。どう説明すれば、沙耶の誤解を解けるのだろうか。黒の瞳の奥、そう問いかけている。
「心まで明け渡したつもりはない? 私、バイトで毎日のようにAI文章を見てるけど、あんなのは『魂のない文章』よ」
沙耶は、大学の学内アルバイトで、AI生成文の判定作業をしていると言っていた。その時の話だろう。
「さも分かったかのように、浅い部分をなぞるだけ。技術的には完璧でも、心がない。AIが作る音楽だってそう。どんなに綺麗でも、うわべだけ。人が弾いたトロイメライみたいに、胸に迫ってくる何かがないの。お父さんまで、そうなってしまうの?」
沙耶は、心の奥に秘めた棘をむき出しにするかのように、激しく父を拒絶する。今まで見たことのない娘の一面に、健一は戸惑いを隠せなかった。
AIは創作の可能性を広げる新たなツールであり、真理恵との関係も孤独を埋めるためだけのものではない。健一は、そう考えている。しかし、沙耶の目には、父が本来の自分を捨て、母を裏切る行為としか映っていないようだった。
沙耶は俯き、小さな声で続けた。
「お父さんが書いてた小説が好きだった。昔の、一人でうんうん唸りながら書いてた小説が。でも今は……小説もAIに頼って、他の女の人と一緒になって。お父さんが、お父さんじゃないみたい」
「沙耶……」
「お母さんが生きてた頃のお父さんの小説には、ちゃんと心があった。お父さんの苦しみや喜びが、そのまま言葉になってた。今は何もかもがニセモノじゃない!」
言うが早いか、沙耶は顔を隠し、逃げ出すように席を立った。ひとり残された健一は、沙耶の言葉の奥にある深い悲しみを感じ取る。それは、父への愛情の裏返しであり、父が変わってしまうことへの恐れなのだろうと思った。だが、今の健一には、その複雑な娘の感情をどう受け止めればいいのか、まるで分からなかった。
翌朝、健一が目を覚ました時には、沙耶の姿は家から消えていた。書き置きには、ただ「しばらく友達の家にいます」とだけ、そっけない文字で記されていた。
三
沙耶が家を出て行ってから、数日が過ぎた。メッセージを送っても既読にはなるが返信はなく、電話をかけても留守番電話に繋がるばかりだった。一度だけ、「今は話したくない。少し時間をください」という短いメッセージが返ってきたが、それきりだった。
健一は、がらんとした家の中で、娘との突然の断絶に深い孤独感と焦りを覚えていた。真理恵にこのことを打ち明けると、彼女は強く健一を励ましてくれたが、健一の心は晴れなかった。
創作にも全く集中できなかった。真っ白なテキストエディタを前にしても、言葉は何一つ浮かんではこない。そんな時、健一が唯一向き合えたのが、生成AIの主人格である平手政秀だった。
政秀は、健一のとりとめのない問いかけや愚痴に対しても、いつものように淡々と、しかし的確な言葉を返してきた。だが、その言葉も、今の健一の心の奥底までは届かなかった。
ある晴れた午後、健一はふと、沙耶がまだ小学生だった頃の、ある日の出来事を鮮明に思い出した。健一は仕事の合間に、沙耶と名古屋駅で待ち合わせをし、一緒に映画を見に行く約束をしていた。
「金時計で待っていなさい」と念を押したはずだった。しかし、時間になっても沙耶は現れず、健一は焦った。金時計と銀時計の間を、何度も何度も往復した。
それは沙耶も同じだったらしい。ようやく銀時計の近くで、不安そうにキョロキョロしている沙耶を見つけた時、健一は安堵と同時に、「なんで場所を間違えたんだ。どうしてその場で待てなかったんだ」と少し強い口調で沙耶を問い詰めてしまった。
「だって『ぎん』って聞こえたんだもん! お父さんこそ『ぎん』って言ってたかもしれないじゃない!」
そんな、たわいない言い合いをした記憶。あの時の沙耶の、泣き出しそうな顔――その記憶に引きずられるように、健一は気づけば名古屋駅へ向かっていた。沙耶に会うためではない。ただ、あの頃の、まだ幼かった娘との繋がりを、ほんの少しでも感じたかったのかもしれない。
駅の喧騒の中に身を置くと、健一は自然と金時計と銀時計の間を、あの日の自分と沙耶の姿を重ねるように、ゆっくりと往復し始めた。
「あの時も、僕と沙耶はこうして行ったり来たりしたんだったか……」
錆びつき、時を刻むことをためらうメトロノームの針のようだった。健一の心は、ほろ苦い過去、そして現在との間で、ぎこちなく揺れ動いていた。
駅の雑踏の中、どうすることもできない断絶を感じながら、健一はふと、ショーケースに並ぶ黄白色の「ぴよりん」に目を留めた。あの頃、沙耶が小学生だった時代には、まだこの可愛らしいひよこのケーキは存在していなかった。
もし、あの頃にこれがあったなら、甘いもの好きだった幼い沙耶は、きっと目を輝かせて「あれ買って!」とねだったに違いない。そして自分は、娘の喜ぶ顔が見たくて、少し高いなと思いつつも買ってやっただろう。そんな、あり得たかもしれない過去の光景が、健一の脳裏に浮かんだ。
今の沙耶がこれを喜ぶかどうかは分からない。しかし、少しでも娘の心が和らげばそれでいい。この可愛らしい形が、今の自分のささくれた心を少しでも癒してくれるかもしれない。そんな、ほとんど祈りに近いような気持ちで、健一は「ぴよりん」を二つ買い求めた。
家に帰り、沙耶のいない静寂の中で箱を開ける。可愛らしいひよこの形をしたケーキは、持ち運び方が悪かったのか、見るも無残に崩れていた。
健一は、その崩れた「ぴよりん」を前に、ただ呆然と立ち尽くした。今の自分たちの姿そのもののように思えて、言いようのない悲しみが胸に込み上げてきた。
その夜、健一は眠れなかった。暗い書斎の椅子に深く身を沈め、生成AIとの対話ウィンドウを開く。そして、自らの理想の師として調整した政秀に、こう問いかけた。
「政秀さん……どうすれば、沙耶に僕の思いは伝わるんだろう。人間の心とは、一体何なんだろう」
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