砂漠の香医と蒼晶の審問官

mynameis愛

第1章:薬師の朝(01

 陽の光がまだ街路に届かぬ、夜明け前のサマル旧市街。

 その中心部に、古びたレンガ造りの工房がぽつりと建っている。まわりを囲む市場の露店たちがまだ静まり返っている中、ひときわ早く明かりが灯る場所がそこだった。


 璃子は、石造りの壁に囲まれた工房の奥――調香室の棚から小瓶を取り出し、慎重に滴下していた。

 淡い青のオイルが、銀の皿にぽとりと落ちると、ふわりと微かな甘い香りが空気に広がった。


「……やっぱり、まだ苦いな」


 自分の鼻先に皿を近づけ、璃子は唇を引き結ぶ。配合比率は昨夜の記録どおり、少量の甘香と苦香を重ねたものだった。目的は、〈乾熱熱〉に効果のある新しい緩和薬の調香。市場で流行りつつある軽い発熱症状に対応するものだったが、まだ決め手となる香りの輪郭が見えなかった。


 試行錯誤する璃子の背後で、木の扉が軽く軋む音がした。


「おはよう、璃子さん」


 調香室の入り口から、柔らかな声が届く。振り返ると、真菜が作業着の袖をたくし上げながら入ってきた。朝の挨拶と同時に、湯気の立つマグカップを差し出してくれる。


「ありがとう。今朝は少し早かったね」


「ええ、ちょっと気になって。昨日の患者さん、熱が下がらなかったんでしょう?」


 璃子は頷き、カップの縁に唇を寄せる。ハーブの苦味と、香ばしい焙煎豆の香りが、頭の芯をゆっくりと刺激する。


「……二番通りの衛兵、まだ寝汗がひどくてね。市井病だけならいいけど、香煙熱だったら面倒だわ」


「香煙熱って、あの……煙の匂いが症状の引き金になる病?」


「そう。香料の種類によっては逆に症状を悪化させることもある」


 棚に並ぶ瓶を指でなぞりながら、璃子は続けた。


「……でも、まだ症例が少なくて、決定打がないの。ここ最近、患者が急に増えてる気がして」


「もし広がるようなら、診療所に連絡しておきます。私の方でも様子を見てきますね」


「お願い」


 真菜がうなずいて部屋を出ていったあと、璃子は数本の香油瓶を手に取り、再び小皿に垂らす。今度は青に、淡く赤いオイルを加えてみる。深い香りが混ざり合い、どこか懐かしい匂いが漂った。……幼いころ、祖母の衣に染み込んでいた香りに似ている。


 そんなときだった。


 外で慌ただしい足音が鳴り、ついで工房の扉が激しく叩かれる音が響いた。


「……薬師か? 衛兵だ! 急患だ!」


 璃子はすぐに白衣の裾をつかみ、扉へと走った。開けると、兵士が一人、背に仲間を背負って立っていた。ぐったりとした体からは、尋常ではない熱気が立ち上っていた。


「香熱……っ、ですか?」


「わからんが……急に倒れて。息はあるが、熱が下がらん」


 璃子は一瞬だけ躊躇ったが、すぐに兵士の腕を取り、手首に指を当てる。脈は早く、浅い。呼吸も粗く、皮膚はうっすら赤みを帯びている。


「真菜、診療台を準備して。あなたはこの人の名前と出発場所を!」


「は、はいっ! グレイル・ロス軍曹、北門の検問所に詰めていました!」


 璃子は兵士の体から香気の残滓を探る。――ほのかに甘く、薬草とは違う独特な香り。


(これは……市販されてない香油……?)


 彼女の中で、疑念と危機感が交差した。


 この病は、偶然じゃないかもしれない。香料が、何かおかしい。

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