人魚の秘密
むっとするような潮の匂いと、魚の脂が染み込んだ木の匂いが混ざり合う。夜も更けたというのに、錆びた蝶番のドアの向こうからは、酔っ払いたちのダミ声と、ジョッキがぶつかるけたたましい音が漏れてくる。ここは、海と共に生きる男たちが、一日の疲れと網にかかった不満を洗い流す、古びた木造の酒場だ。漁師のおじさんが毎晩酒を酌み交わす場所で、今日も仲良しな漁師のおじさん5人組は、木を切り出して作った無骨なテーブルをまるく囲んで、ジョッキにビールをなみなみと注ぎ、大声で歓談している。
「なあ、聞いたか?さっき人魚らしき影が岩場で3人ほど座ってたらしいぞ」
そのうちの1人が泡でヒゲを作り、笑いながら話すと、周りの友達は、
「馬鹿言え、見間違いだろ。それか、酔ってクラゲでも見たんじゃねえか?」と笑い返した。
「そりゃお伽噺の人魚だろ?腰がキュッと締まっ
ててよ、髪は濡れてキラキラしてて…ああ、一度でいいから拝んでみてえもんだ。まあ、どうせ作り話だがな!」
もう1人が言うと、全員が完全同意の顔で頷いた。
それを見て、他の奴らが笑い飛ばす中、一人だけ輪に入らず、カウンターでちびちびやっていた男が、ふいに口を開いた。年の頃は他の漁師より若そうだが、目つきには妙な落ち着きがある。男は指先で、胸元で奇妙な光沢を放つ、真珠のような貝殻のようなブローチを弄びながら、にやりと笑う。がっとジョッキを置いて語り始めた。
「いや、案外それ、本当に人魚の影かもしれないぜ。人魚がなんでみんな細いイメージがあるのか、その理由を教えてやるよ」
友達たちが顔を見合わせているのをよそに、おじさんは語り始めた。
……あれは、俺がお前たちにもまだ出会っていない、もっともっと若い漁師だった頃の話だ。
ある日、船で沖まで行って、仕掛けてあった網を引き上げてみると、妙に重いものが引っかかっていた。
「なんだ?」と思って覗いてみると、それがなんと人魚だったんだ。
ただ、噂に聞くような細くて美しい人魚じゃなかった。網にかかっていたのは、噂に聞くような、しなやかな曲線美とは程遠い代物だった。福々しい…いや、はっきり言って腹が出てるんだ。髪も潮と油でごわごわで、どこか『あーあ』とでも言いたげな…………つまりどことなく気の抜けたような雰囲気の人魚だったな。
その人魚は俺が投げた網に絡まって逃げられなくなってしまったそうだ。さらにおしりからお腹をぐるりと囲むように巻かれた透明な「ベール」のようななにかが食い込んで、苦しそうにもがいていたんだ。
「クソ、人間かよ…。しょうがない、頼む、助けてくれ」
と言われ、腰を抜かしそうになりながらも、俺は網を切って助けたんだ。ヒレに触るとすごい剣幕で怒ってきたよ。どうやら人間は人魚を殺して回るという伝説があるみたいだ。
人魚にとって人間は忌むべき存在らしい。
助けた後すぐに海に帰ろうとしたが、引き留めたんだ。流石に腹が苦しそうだったからな。
その後、船の上で俺は彼女の話を聞いた。
『くそっ、この神様の呪いが!見りゃわかるだろ、太るとこうやって腹に食い込むんだよ!』
「なるほど…………な?」
ベールは、神様が人魚に付けた特別なモンらしい。昔の人魚は相当腹が出ていたそうだ。まぁ、ヒレばっかり使って泳いでいるしな。そしたら神様がそれを嫌って、『美しくあるべきだ!』ってこれを付けたんだって話だ。細い分には問題ねえが、太ると腹に食い込んで地獄を見る仕組みなんだと。おまけに絶対に切れねえ呪い付きでな。まぁ痩せてる奴には透明になれたり、速く泳げるご褒美もあるようだが……。
とりあえず、俺は人魚をいけすの中にいれて、どうすればいいか考えていた。その途中にも恐ろしい文句がずっと聞こえてきてたよ。
そして、ふと閃いたんだ。
「船の上でも普通に呼吸ができていたよな?腹筋を鍛えれば、このベールが体に食い込むのを防げるんじゃないか?」
安定している岩場に彼女を連れて行き、俺は腹筋のやり方を見本を見せながら教えた。
「こうして上半身を起こして戻すんだ。簡単だろ?」
最初は「なんで人魚が人間の真似をしないといけないんだ!それに人魚がそんなことできるわけがない!」と言われたが、何度か試してみるうちにコツを掴んでいったようだ。
やがて数週間後に彼女は、少しずつお腹周りがスッキリしてきたことを実感し、「これはすごい!」と喜んだ。その頃から笑っている日が増えた気がするな。
ついでに、最近流行りのトリートメントを教えたら、髪がサラサラになって美しい人魚の姿になり、海に戻ったんだ。
その後、彼女は仲間たちに腹筋を伝えに行ったらしい。
しかも、海中で使えるトリートメントまで開発したそうだ。
「人魚たちがみんなで腹筋をしていたら面白いな」と冗談半分で思っていたが、どうやら本当にそうなったらしい。
おじさんが話を終えると、友達たちは笑い声を上げた。
「そんな話、誰が信じるかよ!」
「酔っ払ってるのはお前だろ!」
窓の外、月明かりに照らされた岩場に、サラサラに長い髪を風になびかせた人影が三つ、確かに見えた。…いや、気のせいか?そのうちの一つの影が、軽く腹筋でもするように上下しているような…?
しかし、男は窓の外を一瞥すると、誰にも気づかれぬよう口の端を上げ、胸元のブローチをそっと撫でた。そして、残りのビールを満足げに飲み干した。
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