第2話:見えない歪み

 この街に朝は来ない。空はいつも鉛色で、境界のない雲が空全体を包み込んでいる。 


 午前、五時前。僕は簡易シェルターの薄汚れたマットレスから這い出る。壁に打ち込まれた鉄杭には、作業服が一着だけ吊られている。昨日の埃と油の臭いがこびりついていたけど、洗濯なんて贅沢は何ヶ月もしていない。誰もしないし、誰も言わない。


 学校には随分昔から行っていない。

 いや、たぶん僕には「行ける」選択肢が最初からなかったんだと思う。といっても証明書や履歴書が必要な世界じゃないから、行かなくても問題はない。この世界の子供たちはその地区で決められた学校に行き、6歳から18歳までの間ずっと同じ学校、同じ人間関係の中で過ごす。学歴というものが存在しないこの世界において、これらの学びがどれほどの役に立つのかは分からない。


 それでも、やはり働かなければ生きられない。

 僕は街の外れにある「廃材再生処理場」で働いている。

 時給ではなく“生存単位”──食料、電力、そしてシェルターの利用権を得るための作業。

 この街で暮らす大半の人間は、似たような状況にある。

 違うのは、僕には“帰る家”がないこと。

 文字通り、ここが全てだ。


 廃材再生処理場はかつてのショッピングモールを改装して造られた。柱にはまだ剥がれかけた広告が貼られていて、「クリスマスセール」や「新生活応援!」という文字が、虚しく色褪せている。


 入り口のゲートに出勤カードを通すと、機械音がひとつ鳴った。

 「確認完了、労働記録を開始します」

 無機質な音声と共に、ドアが滑るように開く。

 その先にあるのは、赤錆と鉄粉に満ちた空間だった。


 僕の担当は「一次分解ライン」。

 運び込まれる廃材をベルトに乗せ、金属・樹脂・電子部品に手作業で分類していく。

 昨日はオフィス機器の山、今日はどうやら家電が中心らしい。


 「……あれ?」

 自然に口から漏れた声が、自分でも意外だった。

 誰もいない。

 本来なら、隣に立つはずの“先輩”がいない。


 そうだ。確か、先輩は昨日も同じ時間にここにいたはずだ。

 ドローンの解体が上手くて、配線を一瞬で外していた。

 喋り方は淡々としていたけれど、時折ぼそっと冗談を言ったりして。

 僕が扱いに困った機材を代わりに解体してくれたこともある。


 ──それなのに。


 僕の隣には、誰もいなかった。

 まるで最初から、ここに“誰も立っていなかった”ように。

 作業ベルトの位置も微妙に変わっていて、二人用ではなく一人用の幅になっていた。

 端末に表示されたログも、なぜか僕一人分しか残っていなかった。


 ……おかしい。

 僕の記憶がおかしいのか?

 いや、そんなはずはない。


 僕は作業を止め、隣のロッカーへ足を運んだ。

 そこには以前、先輩の名前が書かれた札がぶら下がっていた。

 だけど今は──そのロッカーごと、存在しない。

 いや、正確に言えば、そこに“ロッカーがあった”という跡が一切ない。


 ただ、隣との間がほんのわずかに広い。

 それだけだ。

 だけど、その違和感が鋭利な刃物のように僕の中に残る。


 昼休憩。共有端末で出勤履歴を確認してみた。しかし過去の勤務データにも彼の名前はなかった。

「あの、今日先輩見かけなかった?」

僕は休憩室の薄暗い隅で、同僚の男に声をかけた。

 背が高く、痩せていて、色あせたグレーのジャケットを羽織っている。髪は短く刈り込まれ、切れ長の目はいつも半開きで、どこか疲れているように見えた。仕事には慣れているけど、いつも無口で、誰とも深く話さないタイプだ。

 彼は手元の電子端末の操作に忙しいらしく、眉をわずかに寄せてから顔を上げた。

「は?誰の話?」

面倒くさそうな口調だった。

「お前、ずっと一人でやってただろ」


「いや、そうじゃなくてさ…昨日まで隣で一緒に作業してた人がいたんだけど…」


「いたら俺が知ってる」

彼はあっさりと言った。

「そんな奴、いねぇよ。お前の気のせいだろ」


彼の声には冷たさはない。

けれど、彼の表情もまた、僕の話を信じていないのがはっきり分かる。


「本当に知らない?

 昨日まで一緒に話してたの覚えてない?」


「お前、大丈夫か?」

彼はため息をついて、また電子端末の画面に視線を戻した。

「そんな妄想に浸ってる暇あったら、仕事ちゃんとやれよ」


 言葉はキツいけど、決して意地悪ではない。

ただ、この世界で生きるには、余計なことを考えている暇なんてないという現実の重さを感じさせた。


 僕は視線を落とし、唇を噛んだ。

彼の無関心な態度の裏に、僕とは違う種類の強さがある気がした。


 周囲の人間は、消えてしまったらしい存在を最初から存在しなかったかのように扱う。

 僕だけが先輩のことを知っていて、それが何よりも孤独だった。


 先輩の記憶は、他の誰の中にも存在していない。

 僕だけが、先輩のことを覚えている。

 それは、記憶違いとか、思い込みなんてレベルじゃない。

 だって僕は現実に、先輩と会話をしていた。

 声も、仕草も、指先に巻いていた黒いテーピングも。

 記憶が、あまりにも鮮明すぎる。


 ──じゃあ、これは夢だったのか?

 でもそれなら、なんでこんなに胸がざわついている?

 何が、“消えて”しまったんだ?


 作業に戻っても、意識が上滑りしていた。

 次々と運ばれてくる廃材の中に、先輩が扱っていた道具が混じっていないか探してしまう。

 ──でも、なにも見つからない。


 代わりに、心の奥で静かに膨らんでいく“確信”だけが、僕を締め付ける。

 これは、何かがおかしい。

 世界のどこかに、歪みがある。

 その歪みに触れられるのは、きっと僕だけだ。根拠はなかったが、確信だけはあった。


 僕はもう一度、無人のラインを見渡す。

 赤く錆びた鉄屑の山。沈黙する再生炉。何事もなかったかのように回るベルト。


 そこには、誰の痕跡も残っていなかった。

 まるで、最初から先輩が“存在していなかった”ように。

 でも、僕は知っている。

 確かに彼はいた。

 いたのに、消えた。


 そしてこの世界は──

 それを、なかったことにしている。

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