夏のかけら
小谷野 天
第1話 春の模様
中学3年生の春の事だった。
こんな時期に都会の学校から転校してきたという茶髪の男の子は、自分の名前と一文字違いの物静かな同級生だった。
私の前の席に座ったその子の髪の毛を、窓から入ってくる春の風が悪戯に揺らす度に、私の鼓動が速くなっていった事を、今でもずっと覚えている。
彼の肩を通り抜けていったあの頃の風は、今は誰の背中を、優しく押しているのだろう。
「あっ、ちょっと、え~っ、」
「お前がイライラしてっから、すぐにガットが切れるんだよ。」
一緒にペアを組んでいた
平岡は凪と同じ会社で働く3つ年上の先輩。
入社3年目の凪とは、去年まで同じ部所で仕事をしていたが、平岡は今年の4月に出世し、別の部所へと異動となった。
会社の近くの中学校で、毎週木曜日にやっているバトミントンの練習に、平岡から半ば強引に誘われて通うようになってから、今年でもう2年になる。
新人の頃は、定時で帰宅する事の方が多かったが、最近は突然の退職者や、産休に入る女性職員もいて、慢性的な人手不足が続いている。
ここ1年、夜9時を回ってもほとんど家に帰れる日はなかった。気がつくと、日付が変わっていても残業している事が多く、上司も残っているせいか、帰りづらい雰囲気が、余計にダラダラと仕事を長引かせているように感じる。
今日の仕事がまだ終わっていないというのに、平岡から急かすように呼び出されるバトミントンの練習が、凪には少し苦痛になっていた。
「もう、これで終わりにしようかな。」
凪はため息をつきながら呟くと、予備のラケットをバッグから出した。
「やめてるって、このままじゃお前、マジで社畜になっちまうぞ。」
平岡はそう言って先にコートに戻った。
凪は真っ赤になっているであろう火照った顔に流れる汗を、タオルで押さえるように拭きとると、すっかり温くなったペットボトルのお茶を飲んだ。そして、何事もなかったように練習を再開しようとしている平岡に名前を呼ばれ、凪は仕方なくコートへ戻っていった。
「渡会、ガット張り替えてきてやるよ。」
練習が終わり、凪が荷物を閉まっている横に、平岡がしゃがみ込んで手を出した。
「大丈夫です。週末は実家に帰るから、昔よく行ってたラケットショップで、張り替えてもらいますから。」
「渡会の実家って、確かここから遠かっただろう?」
「ここからだと、4時間くらいかかります。」
「そっか。お前は実家の町にある市役所かなんかの試験を受けて、2次試験に落ちたって言ってたっけ。それで就職難民になりかけて、うちの会社がギリギリのところで拾ってやったって、確かそう聞いてたな。」
「そういうの、忘れてください。」
凪は少し苛ついて立ち上がった。
「平岡さん、今月で練習は最後にします。みんながまだ仕事している中、一人だけ帰る雰囲気じゃなくて。」
「渡会がそう言うなら、仕方ないな。あ~あ、誰か俺と組んでくれる女子はいるかな。」
平岡は玄関にむかって歩いている大学生の女の方へ走り出した。
渡会が声を掛けている彼女達と私の1日は、同じ24時間のはずなのに、自分はどうしてこんなにも、気持ちが焦っているのか。
神様は本当に平等に時間を配分してくれているのかな。
全てが楽しくない。
浮かれる気持ちなんかになれない。
あんなふうに他愛もない話しで笑っていた頃の自分は、今思うとどれだけ時間を無駄にしていたのだろうかと後悔ばかりする。
女子大生に調子良く話し掛けている平岡を横目に見ながら、凪は靴を履き替えて玄関を出ていった。
駐車場に停めてある車に乗り込むと、
「おい、送っていけよ。」
平岡が助手席のドアを開けて乗ってきた。
「振られたんですか?」
凪は平岡に冷めた口調でそう言った。
「そんなわけないだろう、馬鹿言うなって。だいたい今日はお前が俺を乗せてここに来ただろう。」
そう言えば、夕方仕事をしている最中に、平岡は早く練習に行こうとしつこかったのを思い出す。
「そうでしたね。車検が長引いたんでしたっけ。代車でも借りたら良かったのに。明日はどうやって会社にくるんですか?」
「あ~あ、それ考えてなかったわ。今日は渡会の家に泊めてくれよ。」
「何言ってるんですか!自分の事は自分で始末してください。ところで、平岡さんの家、どこですか?」
「北町東。」
平岡の住所を聞いて、凪は車を走らせた。
「なぁ、お前が俺の家に泊まるっていうのはどうだ?」
「駄目です。そうだ、それなら
彼女は平岡に想いを寄せている様で、平岡の前では、何度もそれらしい態度を見せていた。
「腹減ったなぁ。奢ってやるから、どっか寄って行かないか?」
「相変わらず、人の話しを聞かない人ですね。このまま家まで送りますから。私はこれから洗濯して、明日の準備しないと駄目ですから、平岡さんの空腹に付き合ってる暇はありません。」
凪はそう言ってアクセルをふかした。
「帰ったって、どうせカップラーメンかなんかで済ますんだろう?」
「悪いですか!」
「悪くはないけど、お前、最近肌ボロボロだぞ。入社してきた時は、水を弾くかってくらいツヤツヤだったのに、今は可愛げもないし、すっかり女を諦めてちゃったのかよ。」
「そんな事を考える余裕がないんです。平岡さん、家はここらへんですよね?」
「俺の家、ここから左に入る。」
平岡は交差点を指さした。
平岡のアパートの前についた。凪は玄関の前に車を停めると、平岡に早く車から出ていくよう、皮肉を込めてニッコリ笑った。
「悪かったな、送ってもらって。どうもありがとう。」
ひどい態度をしているはずなのに、平岡が急に優しい声でお礼を言ったので、凪は少し驚いた。
「お疲れ様でした。おやすみなさい。」
変わらない声のトーンを保ちながら、凪は平岡にそう言った。ドアを開けて、凪を見送る穏やかな笑顔から、凪はなるべく早めに目をそらす。
車を運転しながら、カーラジオのボリュームを上げた。
懐かしい曲が車内に流れる。
確か、高校生の頃に流行っていた曲。
恋の終わりを告げる歌詞を思い出しながら、凪はひとつため息をついた。
平岡は自分にとって先輩なのに、ずいぶん生意気をとってしまった。今年からは部所が変わったと言っても、立場的には自分は部下で平岡は上司。
新人の頃から、自分の事を気にかけてくれているせいもあって、いつの間にか親しげな態度をとってしまった。はたから見ると、私はとても嫌な女だろうな。
平岡の事が好きだと、仕事中に延々と話し掛けてくる真姫にも、相談に乗っているようで、実はいい加減にしろと、話しのほとんどを流している。
そうでもしなければ、返信しても次から次にくるメールの対応や、上司から頼まれる資料作り、数日後に迫る提出期限付きの報告書が、自分の時間を食い尽くしてしまうから。この状況で誰かに優しくするなんて、到底できないやしないよ。
家に着くと、凪はガットのキレたラケットをバッグから取り出した。
先月張り替えたばかりなのに、今回は1ヶ月は持たなかった。平岡が知り合いに頼んで、ガットを張り替えてくれているから、時間もお金も節約できるはずなのに、こんなにすぐにキレてしまうのは、自分の打ち方が、下手くそだからなんだろう。
これで最後にする。
ストレス発散とかリフレッシュなんて、元々は余裕のある人が口にする言葉だよ。
仕事は疲れる。だけど、仕事をしてる方が落ち着く時だってあるんだ。
だいたい自分は、バトミントンなんてそんなに好きじゃなかったし。
中学校の頃。
転校してきた
彼は当時、管内No.1と言われていたエースの男子をあっさり破ると、出来上がっていた団体戦のメンバーに亀裂を入れ、なんとなくバトミントン部の雰囲気が悪くなった。
少ない男子の中で、ずば抜けてうまかった1人を除いては、残りのメンバーは皆横一線。男子部員は、部活を休まないで練習さえいれば、団体戦のメンバーから外れる事はなかったのに、渡会が入ってくると、しばらく遠ざかっていた初勝利にむけて、顧問の期待が高まった。
団体戦メンバーの入れ替え戦が始まり、それに下の学年でも力のあるメンバーが混じって、3年生の男子達は焦り始めた。
感情論に左右されず、ガチの実力勝負が繰り返される中体連までの日々は、ピリピリした空気が漂う。
女子部員はコートに入りきれないくらいたくさんいたけれど、だいたい固定されたメンバーが団体戦に出場する事が多く、凪とペアを組む相手のおかげで、自分はメンバーから外れる事なんかないと思っていた矢先、監督はあっさり自分達ではなく、下級生を代表に選んだ。
最後の中体連なんか、もうどうでもいいとすっかり気持ちが冷め、練習さえもサボろうと思っていたのに、渡会の姿を見ると、永遠にこの時間が続けばいいのにと、凪は毎日部活に参加した。
彼と目が合うと、速くなる鼓動とは裏腹に、体が硬くなって動けなくなってしまう。
手足が長く、端正な顔立ちをしている渡会は、女の間では人気だったが、男子同士では、楽しげに話している姿を見たことがない。
渡会は頭も良かったから、お節介な学級委員長の男の子が、自分達のグループに誘っていて、必要最低限の人付き合いはしていた。彼が誰かと馬鹿を言って大笑いしているなんて事は、ほとんどない。
なのに、バトミントンをしている時の彼は、鋭い目をしたり、わざと視線を外したり、いろんな表情を見せる。派手なパフォーマンスこそないが、教室では見せない彼の一面に、凪は目をそらす事ができなかった。
知らないうちに、彼の姿を見ている事をバドミントンのペアだった子に知られ、凪がその子からかわれた。
「凪、渡会の事ばっかり見てるよね。もしかして、渡会が好きだったりして。」
「違うよ。やっぱり、上手いなぁってそう思ってるだけ。」
「えーっ、本当に?私達、練習なんてもうどうでもいいのに、凪が休まず練習にきてるのって、渡会を見たいからなんでしょう?」
「違う違う。」
凪の顔が赤らんでいったせいか、近くにいた女の子達も、その話しに加わってきた。
騒いでる声が聞こえたのか、渡会はこっちにむかって歩いてきた。
「そんなに俺の髪が気になるのか?これは正真正銘の地毛なんだって。」
渡会は苛ついた様に凪に言うと、むけられた誤解をあっさり解いた。
「なんだ。凪、渡会くんが髪を染めてると思ってたの?」
女の子達の一人が凪に言った。
「渡会くんは、こっちの人とは違うからね。髪の毛もあれが普通なんだろうね。」
ペアの子はそう言って、他の男子達を見比べた。
「本人は地毛だって言ってるし。」
凪は渡会を見ていった。
「そうかなぁ。あんなにキレイな髪色で生まれるなんておかしいよ。」
渡会がこっちを見たので、凪は窓の外を眺めた。
「渡会くんってさ、ここにきてから何人もに告られてるらしいね。きっと前の学校でも、相当モテてたんだろうし、そのせいか、ちょっと気取った感じがあるんだよね。ねえ、前の学校には彼女っていたのかなぁ。こんな田舎の女なんか、きっと相手にしてもくれないよね。」
窓辺に顔をむけて、他の人には聞こえないよう、2人は話していた。
渡会はその後、私立の進学校へ進んだ。
凪が彼を見ていたのはたった1年間。しかも、新学期から数週間で席替えになり、それ以来、渡会の近くの席になる事はなかった。
片思いの初恋は、思い出ずたびに恥ずかしい時間となり、未だに誰かに話す事はない
あれから好きな人なんて、できなかった。
鼓動が急に速くなる時なんて、急に上司か呼び出されてしまった時くらいだ。
このまま、イライラした毎日を過ごしているうちに、自分の時間を大切にしたいと言いながら、本当は人を気遣う気持ちが途切れて、誰かと一緒にいる事が面倒くさくなってしまうんだろう。
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