君の涙は、わたしの心臓(こころ)に咲いた花
小乃 夜
第一章∶春霞と、ふたつの世界
春霞(はるがすみ)がかった淡く柔らかな光が、まだ誰もいない真新しい教室の隅々までを、期待に満ちた空気と共に満たしていた。窓の外では、まるで別れを惜しむかのように、桜の花びらが風に乗り、はらはらと最後の輝きを放つように舞い散っては、朝露に濡れた校庭を儚い薄紅色に優しく染め上げていく。それはあまりにも美しく、そして残酷なほどに生命力に満ちた光景で、過ぎゆく季節が贈る、切ない餞(はなむけ)のようだった。
高校二年の春。水瀬葵(みなせ あおい)は、教室の後ろから二番目、窓際のその特等席で、そっと自身の薄い胸に華奢な手を当てた。
トクン、トクン……。
やがてクラスメイトたちが集まり始め、弾むような会話や、これから始まる新しい日々への期待に満ちた足音が喧騒に変わっていく。そのすべてにかき消されてしまうほど小さな、けれど葵にとっては、その存在を嫌というほど主張し続ける自身の心臓の不規則なリズム。それはまるで、熟練の硝子職人が丹精込めて作り上げたものの、ほんの僅かな衝撃でひび割れてしまった繊細な細工物のように脆い。いつその美しい形を失い、砕け散ってしまってもおかしくない、葵自身の、か細い命の音だった。
(また、この音が……私だけを置いていくみたいに、鳴り始めた……。あと何回、こうして窓の外の桜を、この教室の新しい木の匂いを、感じることができるんだろう……)
新しいクラス。まだ名前も知らない、新しい顔ぶれ。周囲の浮き立つような、どこか甘酸っぱい喧騒が、まるで薄い透明な膜一枚を隔てた向こう側の出来事のように、ぼんやりと遠くに感じられる。希望よりも先に、拭いきれない不安が鉛のように胸を締め付け、未来への期待よりも、どうしようもない諦観が、じわりと冷たい墨汁が純白の和紙に広がるように、葵の心を静かに、そして確実に支配していた。
普通の高校生のように、放課後、友達と他愛ないお喋りに花を咲かせたり、部活の練習で汗を流したり、胸を高鳴らせるような淡い恋に心をときめかせたり……。そんな、誰にでも当たり前にあるはずの、きらきらとした未来を夢見ることすら、今の葵にとってはあまりにも贅沢で、決して手の届かない遠い願いだった。常に服用している数種類の薬で辛うじて抑え込んでいるこの胸の鈍く重たい痛みも、予期せず、ふとした瞬間に襲ってくる息苦しさも、いつまでこうして周囲に悟られずに隠し通せるのか。この身体が、いつまで自分の言うことを聞いてくれるのか、そればかりを考えてしまう。
絵を描くことだけが、そんな出口の見えない迷路に迷い込んだような日々を送る葵にとって唯一、心の底から深く、安らかな息ができる場所だった。真っ白なスケッチブックの上に、震える指先で鉛筆を滑らせ、淡い色彩を重ねていく。その瞬間だけは、自分の身体を静かに蝕んでいく病のことも、刻一刻と容赦なく迫りくる運命のことも、ほんの一瞬だけ、忘れられた。パレットの上で躊躇いがちに混ざり合う水彩絵の具のように、心の中に渦巻く様々などうしようもない感情も、絵筆を握っている間は不思議と静かに調和が取れるような気がした。描かれる世界の中にだけ、本当の自分がいるような、そんな気がした。
ふいに、教室の入り口が、まるでそこだけ時が止まったかのようにパッと明るくなった。ざわついていた教室の空気が、一瞬にして凪ぐ。まるで、長い間待ち望んでいた舞台の幕が上がり、眩いスポットライトを一身に浴びた主役が登場したかのように、一人の男子生徒がそこに立っていた。
陽向蓮(ひなた れん)。
春の柔らかな日差しをキラキラと弾き返す、色素の薄い髪。彼が「わりぃ、遅れた!」と悪びれもなく笑いながら軽く首を傾げるたびに、その髪はさらさらと揺れ、まるで天使の輪のように輝いて見えた。そして、その快活な笑顔は、まるで魔法のように、教室の空気を一瞬にして陽性のものへと塗り替えてしまう不思議な力を持っていた。彼はサッカー部の不動のエースであり、誰からも好かれる、クラスの中心にいるべき存在。その全身から溢れ出る、一点の曇りもない生命力は、まるで陽の当たらない場所でそっと息を潜めるように生きる葵にとって、あまりにも眩しく、そして――どうしようもなく、羨ましかった。
(太陽……ううん、それよりももっと、ずっとずっと眩しくて、暖かい……私とは、住む世界が違う人……)
自分とはあまりにも違う種類の人間。彼がそこに存在し、ただ楽しそうに呼吸をしているだけで、周囲に生きる喜びや希望を、惜しげもなく振りまいているように見える。葵は思わず目を伏せた。彼のその圧倒的な輝きは、自分が抱えるどうしようもない影を、より一層色濃く、深く抉り出すだけだったから。こんな気持ちになること自体、彼に対して失礼な気がした。
やがて、少し緊張した面持ちの担任教師がやや早足で入ってきて、ホームルームが始まった。新しいクラスの始まりを告げる、少しだけ改まった声が教室に響く。恒例の自己紹介が始まり、生徒たちは順番に席を立ち、期待と少しの照れを滲ませながら、思い思いの言葉で自分自身を表現していく。
蓮の番が来た。彼は臆することなくクラス全員の顔をゆっくりと見渡し、悪戯っぽく笑った。
「陽向蓮です。部活はサッカー部。去年はあと一歩で全国逃してめちゃくちゃ悔しい思いしたんで、今年こそ、ここにいるみんなと応援席で一緒に笑いたいです。サッカー以外は、まあ、寝ることと食うことくらいしか取り柄ないけど、一年間よろしく!」
その言葉の一つ一つが、嘘のない自信に満ち溢れ、聞いている者を自然と笑顔にし、惹きつける不思議な魅力があった。彼の話が終わると、教室は温かい拍手と、共感に満ちた明るい笑いに包まれた。まるで、彼の一言一言が、みんなの心に小さな灯りをともしたかのようだった。
そして、葵の番が来た。逃げ出したい。心臓が早鐘を打ち、嫌な汗が手のひらに滲むのがわかる。制服のスカートでそっと汗を拭い、震える足でかろうじて席を立つ。クラス中の視線が突き刺さるような錯覚に陥る。
「……み、水瀬……葵、です。……び、美術部に……入っています。……絵を、描くのが……好き、です。……よ、よろしくお願いします……」
声が、自分のものではないみたいに上ずり、情けないほどに震えていた。顔がこわばり、きっと酷い顔色をしているだろう。一瞬、ほんの一瞬だけ、蓮と目が合ったような気がして、葵はパニックに近い状態で慌てて視線を床の古びた木目へと逸らした。
彼の、どこまでも真っ直ぐで、一点の曇りもない澄んだ瞳は、まるで自分の心の奥底にある、誰にも見せたくない弱さや不安、抱えきれないほどの諦めまでを、全て見透かしてしまうようで、ただただ、怖かったのだ。
最初の授業が終わりを告げるチャイムの音が、まるで祝福のように教室に鳴り響くと、張り詰めていた空気は一気に解放感に包まれた。クラスメイトたちは早速、フィーリングの合いそうな者同士で小さなグループを作り、弾むような声で賑やかに談笑している。その喧騒の中心には、やはり陽向蓮がいた。彼の周りには、まるで引力に引き寄せられるように自然と人が集まり、楽しそうな笑い声が絶えることはない。
葵は、その光景を教室の隅からぼんやりと眺めながらも、その明るく温かい輪の中に入っていく勇気も、そもそもそんな資格もないように感じていた。誰にも気づかれないように、そっと席を立ち、古びた油絵の具の独特の匂いと、埃っぽい画材の気配が微かに漂う、美術準備室へと逃げるように向かった。その薄暗く、ひっそりとした部屋だけが、今の葵にとって唯一、心の鎧をほんの少しだけ緩め、息を潜めることを許される聖域だった。
いつものようにカバンの中から、小さなプラスチック製の薬ケースを取り出す。色とりどりの、けれど葵にとっては見慣れた錠剤が数種類、頼りなく震える手のひらの上で無機質に転がった。それを、もはや日課となった諦めと共に口に放り込み、ぬるくなったペットボトルのミネラルウォーターで流し込む。喉を通り過ぎる錠剤の無機質な感触と、胸のあたりにじんわりと広がる薬の微かな苦味が、ほんの少しだけ、張り詰めていた神経を和らげるような気がした。でもそれは、一瞬の、本当に儚い気休めに過ぎない。この薬は、根本的な解決には決してならない。ただ、避けられない終わりを、ほんの少しだけ先延ばしにしているに過ぎないのだ。
(普通の女の子みたいに、誰かを特別に想ったり、部活の練習に夢中になって汗を流したり……そんな、当たり前にあるはずの青春なんて、私にとっては、あまりにも遠くて、眩しすぎる夢のまた夢……。私には、そんな資格なんてないんだ……)
いつか、この不規則な鼓動を刻む心臓が、何の前触れもなく、ふっと止まってしまう日が来る。そのどうしようもない、抗えない恐怖は、まるで自分の影のように、いつもすぐそばにぴったりと寄り添い、決して離れようとはしなかった。だからこそ、誰かと深く関わることが怖い。優しくされればされるほど、その温かさに甘えて、淡い期待を抱いてしまいそうで、そして、いつか必ず訪れるであろう別れの時に、相手を深く、取り返しのつかないほど傷つけてしまうことになるから。それは、自分自身が傷つくことよりも、葵にとっては遥かに耐え難いことだった。
不意に、準備室の古びた木のドアが、コンコン、と控えめに、しかしはっきりとノックされた。
「すみませーん、美術部の顧問の松本先生、いらっしゃいますかー?」
その屈託のない、どこまでも明るく澄んだ声に、葵の心臓が、まるで鳩尾(みぞおち)を強く打たれたかのように、大きく、痛いほどに跳ねた。間違いない、陽向蓮の声だった。どうしよう、と頭が真っ白になる。
慌てて薬ケースをスカートのポケットに乱暴に押し込み、何事もなかったかのように平静を装って、深呼吸を一つしてから、ゆっくりとドアを開ける。そこには、やはり、教室で見た時と同じように、太陽のような輝きを放つ彼が立っていた。
「あ……水瀬。ごめん、もしかして、ここ、入っちゃダメだったかな? なんか、邪魔しちゃった?」
蓮は一瞬、驚いたような、少し申し訳なさそうな顔をしたが、すぐにいつもの人懐っこい、親しみやすい笑顔を見せた。その笑顔は、準備室の薄暗ささえも、一瞬で吹き飛ばしてしまうかのようだった。
(この人、初めて会ったばかりなのに、水瀬、なんて…馴れ馴れしいな……)
葵は内心で警戒しながら、俯き、まるで消え入りそうなほど小さな声で答えた。
「……松本先生は、今日、ご出張だって……朝、教室の連絡ノートに、そう書いてあった、から……」
彼の顔を、まともに見ることができない。視線を合わせれば、自分のこのどうしようもない動揺や、彼に対する、憧れと劣等感が入り混じった複雑な感情を、全て見抜かれてしまいそうで怖かった。
「そっか、ありがとう。助かったよ。部活のことでちょっと聞きたいことがあってさ。俺たちサッカー部の、新しい部員募集のポスター、もしよかったら美術部に描いてもらえないかなって思って、相談に来たんだ」
蓮はそう言うと、葵の顔をじっと見た。何かを探るような、それでいて、どこか包み込むような、不思議と優しい眼差し。葵はその強く、けれど温かい視線に耐えられず、さらに深く顔を伏せる。彼の視線が、まるで春の柔らかな陽だまりのように感じられて心地よいのに、同時に鋭い針のようにチクチクと胸に突き刺さるようにも感じられた。
「水瀬……」蓮の声のトーンが、少しだけ真剣なものに変わる。「顔色、あんまり良くないみたいだけど、本当に大丈夫? なんか、さっきよりも青白いよ。無理してない?」
彼の声には、上辺だけの社交辞令ではない、心からの純粋な心配が滲んでいた。そのストレートで、何の裏表もない優しさが、葵が必死に、何年もかけて築き上げてきた心の壁を、容赦なく、しかし驚くほど優しく叩いた。
「……だ、大丈夫。ほんのちょっと、朝から貧血気味なだけ、だから……し、心配……しないで」
嘘だ。白い、けれど心が痛む嘘。でも、本当のことなんて、彼にだけは、絶対に言えるはずもなかった。自分の抱える、この深く暗い闇を、この太陽のように輝く人に知られてはいけない。彼を、曇らせてはいけない。
「そっか。でも、絶対に無理だけはすんなよ。何か俺にできることがあったら、いつでも遠慮なく言ってくれていいからさ。クラスメイトなんだし」
蓮はそう言って、小さく、しかし力強く手を振ると、名残惜しそうにしながらも、あっさりと去っていった。その広い背中は、やはり自信に満ち溢れ、希望に輝いて見えた。
彼の姿が廊下の角に消えて見えなくなっても、葵はその場から一歩も動けなかった。胸の中に、彼の優しい声の温かい余韻が、いつまでも消えずに残っている。そして、またあの不規則なリズムで、トクン、トクンと鳴り始める心臓。それは先程よりも少しだけ、その音量を、そしてその鼓動の速さを増しているような気がした。
(陽向くんが、私を水瀬と呼んだ……。あの心配そうな顔を見ると、ただのクラスメイトとしてじゃなくて、ちゃんと私を見てくれようとしたのかな……馴れ馴れしいって思ったけど、もしかして、私を気遣ってくれてるの……?)
(優しい人……本当に、太陽みたいな、温かい人……)
でも、だからこそ、これ以上近づいてはいけないのだ。彼のあの太陽のような、一点の曇りもない屈託のない笑顔を、自分の抱える影で、ほんの少しでも曇らせてしまうわけにはいかないのだから。それは、葵が自分自身に固く課した、悲しいけれど、絶対に守らなければならないルールだった。
葵はゆっくりと窓辺に歩み寄り、自分の使い古されたカバンの中から、表紙が少しだけ擦り切れたスケッチブックを取り出した。震える手で、いつもより少しだけ強く、けれど大切に鉛筆を握りしめ、窓の外の、今を盛りと、まるで最後の命を燃やすように必死に咲き誇る桜の木を描き始める。風にそよぐ繊細な枝、幾重にも重なり合う薄紅色の花びら、その一つ一つの儚い輝きを、祈るように丁寧に写し取っていく。
一枚一枚の、淡く美しい薄紅色の花びらが、まるで今の自分自身のようだと思った。懸命に、精一杯美しく咲いているように見えても、いつかは必ず容赦ない風に吹かれ、音もなく散りゆく運命。その抗えない儚さが、痛いほど鮮やかに胸に迫る。
それでも、ほんの一瞬でもいい。もし許されるのなら、あの太陽のような彼のそばで、自分もほんの少しだけでもいいから、輝いてみたいと願ってしまう。そんなささやかで、叶うはずもない願いすら、許されないことなのだろうか。
胸の奥が、チクリと小さく、でも確かに痛んだ。それは、いつもの身体の不調からくる鈍い痛みとは違う、初めて感じる種類の、甘酸っぱくて、どうしようもなく切ない、名前のつけられない痛みだった。その痛みが、なぜか葵の瞳から、一筋の涙を溢れさせた。ぽろり、と零れ落ちた雫は、スケッチブックの上の未完成の桜の花びらに落ち、淡いインクのようにじんわりと滲んでいった。
それはまるで、葵の心臓に、初めて咲いた小さな花のようだった。
第二章へ続く
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます