第5話:最後のステージ

ライブハウスの控室は、驚くほど狭かった。

 四人で座ると、それだけで空気が飽和してしまうような、そんな場所だった。


 誰もしゃべらなかった。

 必要な言葉は、もうどこかに置いてきてしまった気がした。


 私はそっと、ギターの弦をひと撫でする。

 音を出すつもりはなかった。

 ただ、確かめたかった。ここにあるということを。


 綾菜が、リズムもなく足で床を踏んでいた。

 それが落ち着かないのか、ただの癖なのかはわからない。

 でも、その音が妙に心地よかった。


 凌太は、鏡の前でベースのストラップを調整していた。

 いつも通りの手つき。迷いもなく、でも、慎重だった。

 その背中が、「今日だけは、ちゃんと弾くよ」と言っていた。


 裕翔はというと、隅のベンチに座ったまま、ギターを抱えて目を閉じていた。

 その顔が、珍しく静かだった。


 そして、開演を告げるスタッフのノックが、控室の空気を少しだけ動かした。



 ステージに上がった瞬間、照明がまぶしかった。

 だけど、それは嫌なまぶしさじゃなかった。


 客席の顔はよく見えなかった。

 でも、熱気だけは伝わってくる。

 息をのむ音、どこかで笑う声、誰かの期待。


 私たちは、MCもなしに、黙って最初の曲を始めた。


 ギターが鳴り、ドラムが追いかけ、ベースがそれを支えた。

 体が覚えているリズム、指が勝手に動くフレーズ。

 そういう“当たり前”が、なんだか、少しだけ泣きたくなるくらい愛しかった。


 何曲か演奏を終えたあと、私はマイクの前に立った。

 胸の中には、言葉が詰まっていた。

 それなのに、不思議と、声はちゃんと出た。


 「……あのね、今日は、ちょっとだけ、わがまま言わせて」



 誰かが息を呑んだ音が、マイクに拾われたような気がした。


 「この曲、ほんとはまだ完成してない。みんなにも内緒で、昨日までずっと書いてた。…でも、今、どうしても歌いたくて」


 喉が震えた。

 だけど、恐くはなかった。

 これは“歌”じゃなくて、“手紙”だった。

 音楽という封筒に入れて、ようやく渡せる気がした。


 私は、歌った。


 《あなたの音が わたしの世界をつくった》

 《黙ったままの心が ほんとは一番うるさかった》

 《バラバラになっても あの光を覚えてる》

 《ねえ、まだ間に合うかな……》


 その瞬間、スネアが鳴った。

 優しい呼吸みたいな、綾菜のドラム。

 続いて、凌太のベースが低く包むように響いた。

 そして、裕翔のギターが、私の旋律にそっと寄り添った。


 それは、構成のない曲だった。

 コード進行も、決められたリズムも、何ひとつなかった。


 でも、不思議と怖くはなかった。

 四人の音が、まるで一つの心みたいに溶け合っていく。

 悲しみも、戸惑いも、未完成のままの想いも。

 すべてが、その“即興のセッション”の中に融けていった。


 ステージに立っていたけど、私は観客だった。

 自分の胸の奥から音が生まれ、それが他の誰かの音と繋がり、景色になっていく――そんな奇跡の目撃者。


 ラストのコードは、C。


 とてもシンプルで、でも、まるで“ただいま”のような音だった。


 そして、裕翔が、少し照れくさそうに笑った。

 あのときの笑顔は、十年前と同じだった。


 私は、もう涙をこらえなかった。

 声も出せなかったけど、確かに笑っていたと思う。


 “終わり”は、たしかにそこにあった。

 でも、それは“再生”の始まりでもあった。


 誰も「解散」なんて言葉を使わなかった。

 でも、誰も昔のようには戻らないこともわかっていた。


 それでも、私は信じていた。

 この夜が、「最後の夜」じゃなく、「次の朝」になると。


 音楽が終わって、照明が落ちても、

 心の中では、まだ音が響いていた。


 それが、私たちの「ラスト・コード」。


 そして、「また、どこかで」と約束しなくても、

 私たちはもう、どこかで繋がっていた。

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ラスト・コード 綴野よしいち @TsuzurinoYoshiichi

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