洋菓子店が町を去る日

広川朔二

洋菓子店が町を去る日

店舗のシャッターは、軋む音を立てながらゆっくりと開いた。乾いた鉄の音が、まだ眠っているはずの町並みに遠く響く。朝の光は薄く、通りには人気がなかった。


十年ぶりに見るこの店“パティスリー・ミヤシタ”の厨房は、記憶よりもさらに狭く、古びて見えた。ステンレスの作業台には細かい傷が走り、壁際のオーブンはところどころ焼け焦げた跡が残る。手入れはされていたが、さすがに年季が否めない。


蒼太は、黙って厨房に立ち尽くした。かつて父が立っていた場所。バターと砂糖とクリームの香りの中、黙々と生地を練り、湯気の立つオーブンを見つめていたあの背中。子どもの頃には分からなかったが、今なら分かる。職人としての執念と、誇りと、そしてたぶん、孤独。


「ごめんなさい、待たせたね」


奥から母が現れた。白髪が増えたが、相変わらず小柄で、静かに笑う目元には優しさがあった。しかしその笑みの奥に、深い疲れが滲んでいるのに、蒼太は気づいた。


「……ううん。始めようか」


父が倒れたのは突然だった。心筋梗塞。知らせを聞いたとき、蒼太は都内のパティスリーでクリスマスケーキの予約対応に追われていた。病院に駆けつけた時には、すでに冷たくなっていた。


自身が東京に住まいを移してから、この店に来ることはなかった。テレビ電話でそれなりに頻繁に連絡は取っていたが、気軽に帰れる距離でもない上、自身も、そしてほぼ年中無休で店を開けている両親も忙しかった。父からの『無理に帰ってくることはない』その言葉に甘えていた。


父の葬儀の後、母はただ「店のことは気にしないで」と繰り返していた。けれど、それを鵜呑みにできるほど、蒼太はもう若くなかった。父と同じ菓子職人として十年を積んだ彼は既に決意が固まっていた。


「お父さんの店を、継ごうと思う」そう言ったときの母の表情は、今も忘れられない。驚き、そしてほんの一瞬、安堵が混じったような……あれは、喜びだったのだろうか。それとも、諦めだったのか。


開店準備をしながら、蒼太は一つ一つの器具に手を当てた。計量スプーン、泡立て器、絞り袋。手に馴染むようで、少しだけ感覚が違う。父の温もりが宿っているように感じた。


作業台には一冊の年季の入ったノートが開いてある。父が生涯をかけて生み出したレシピの数々が几帳面な父の字で細かく書かれている数冊のうちの一冊。父が遺してくれたものの一つだ。


父の味を本人から受け継いではいない。それでも、やるしかない。ここで父は、生涯を終えたのだ。ならば、自分はその続きを引き受ける。


開店時間の午前十時。最初の客は、顔馴染みの老婦人だった。父の葬儀の後、しばらくは休みにしていたが、この田舎町に洋菓子店はここだけだ。いつまでも休み続けるわけにはいかない。


「あらまあ、蒼太くん? 立派になって……お父さんにそっくりねえ」


蒼太は笑顔を作った。


「いらっしゃいませ。久しぶりの営業で、不慣れなこともあるかもしれませんが……よろしくお願いします」


「そう。じゃあ、これをいただこうかしら?」


老婦人が指さしたのは父の自慢の一品のモンブランだ。小さい頃から蒼太も大好きだったあの味にはどこかまだ足りない。


「もちろんです」


箱詰めしたモンブランを差し出すと、老婦人は目を細めた。


「なんだか、昔に戻ったみたいだわ。あなたのお父さんが若かった頃にね」


少しだけ、希望の光が差したような気がした。


けれど、光は短く、そして儚いものだった。


値上げを知らせる小さな張り紙を貼ったのは、蒼太が店を継いですぐのことだった。それは苦渋の決断だった。


バター、小麦粉、生クリーム、チョコレート。どれもこれも、数年前では考えられない価格になっていた。原材料費の高騰に加え、電機代やガス代の上昇も無視はできない。さらには使い古された設備もそう長くは持たない。それを価格に転嫁しなければ商売としてやっていけないのは明白だった。


それでも蒼太が働いていたパティスリーに比べれば安いものだ。


何度も母と話し合って決めた。だが、張り紙を見た常連客の一人は、眉をひそめた。


「ふうん、東京の味っていうのは、高級なのねえ」


その言葉には皮肉が含まれていた。店頭に並べたケーキの値札を、ちらと見ただけで帰っていく人もいた。「足元を見てる」「都会育ちの商売っ気」といった言葉が噂として流れ始めた。


「この町には他にケーキ屋がないのをいいことに、殿様商売ね」

「お父さんの頃は、こんな高いケーキ、売ってなかった」

「東京帰りの坊ちゃんには、田舎の財布が見えてないのよ」


小さな町だ。店の外でも蒼太はケーキ屋の息子としてそんな心無い言葉が投げかけられた。だが蒼太は言い返さなかった。


毎日厨房で無言のまま、混ぜる、焼く、冷やす、包む。手を止めたら、心が崩れそうだった。


母はいつしか、店に立つ時間が短くなった。疲れが取れない、朝がつらい、持病の薬の量が増えた。医者に連れて行くと、軽度の自律神経失調症と診断された。


「少し、休ませて……ごめんなさい」


蒼太は首を振った。「謝ることなんて、何もないよ」と笑ったが、その笑顔は、自分でもわざとらしいとわかっていた。


そんなある日、仕入れ先の業者からぽつりと聞いた。


「そういえば、 “なかむら”の息子さん、帰ってきたみたいですよ」


“なかむら”は、昔からある和菓子屋だ。職人気質の父親が暖簾を守る老舗で、町では知らぬ者はいない。その息子、圭太は、蒼太が町を出た時にはまだ小学生だった。話によれば、圭太は東京の製菓専門学校を卒業してきたらしい。しかも、和菓子だけでなく洋菓子のコースも修了したと聞く。


噂はすぐに広がった。


「“なかむら”さん、今度からケーキも出すんですって」


「だったら、あっちでいいじゃない? こっちは高いし、愛想もないし」

「洋菓子は一軒で十分よ。むしろ、二つも要らないわね」


誰が言ったか、そんな噂が蒼太の耳にも聞こえてきた。母がぽつりとつぶやいた。


「……この店の役目も、もう終わったのかしらね」


その言葉は、蒼太の胸に鋭く突き刺さった。


夜、厨房で一人、翌日の仕込みをしながら蒼太は自問する。


——守ろうとしたものは、果たして今も守る価値があるのか。


そんな折だった。東京の先輩から、連絡があった。


『どうだ実家は?』


東京にいた時、洋菓子職人としてただただ研鑽を積んでいたあの時と変わらないその声に思わず弱音を吐いた蒼太。


『店を守るってお前の気概もわかる。でもな、それでお前のお袋さんやお前が潰れちまうくらいなら店を潰しちまえよ。お前の腕はこっちでいくらでも必要とされてるぞ』


思いもよらぬ誘い。かつての職場の先輩で、今や自らパティスリーを経営する敏腕オーナーだった。蒼太の腕を誰よりも高く評価し、「いつでも戻ってこい」と言ってくれていた。


電話を切ったあと、蒼太は厨房に腰を下ろした。


この町で、父が遺した店を守ろうと思った。でも、それは……独り相撲だったのかもしれない。





桜がほころび始めた三月の終わり、蒼太は一つの決断を下した。


母を都内近郊にあるグループホームへと案内したのは、まだ肌寒い朝だった。そこは清潔で静かで、何より、母が心から「落ち着くわね」と言える場所だった。優しいスタッフが笑顔で迎えてくれ、同じ年代の入居者たちも穏やかに声をかけてくれる。


「ここなら……いいかもしれないわね」


母は、そう言って微笑んだ。その顔は、どこかほっとしたようにも見えた。


「ありがとう、母さん」


そうつぶやきながら、蒼太はゆっくりと頭を下げた。


その数日後、「パティスリー・ミヤシタ」は静かに、だが確かな意思をもって“閉店”を告げた。貼り出された手書きの告知文は、簡潔だった。



【長年のご愛顧、誠にありがとうございました。

諸事情により、このたび店を閉じることとなりました。

皆さまの思い出の中に、ひとつでも当店の味が残っていたなら幸いです。】



最後の営業日、来店客は数えるほどだった。値段を上げても変わらずに通ってくれた常連客や地元の友人達。閉店を惜しむ声も多かったが、なかには「あら、閉めちゃうのね」と言いながら、何も買わずに帰っていった者もいた。


だが、蒼太は何も言わなかった。静かに、丁寧に厨房を磨き上げ、全ての器具を洗い、古いオーブンの電源を落とした。


夜、シャッターを閉めながら、胸の中にふと静かな風が吹いた。


東京に戻ってからの蒼太は、驚くほどのスピードで評価を上げていった。元々腕は認められていたのだ。新しくオープンする店を任せてもらえることになった。


ひとつの春が過ぎ、蒼太の人生は確かに前へ進んでいた。


一方その頃、田舎町ではちょっとした“ざわつき”が起きていた。


“なかむら”の和菓子屋が始めた洋菓子販売は、当初こそ話題を呼んだ。しかし蓋を開けてみれば、出てきたのは「見た目は豪華だが、味はどこか雑」「甘さが強すぎてくどい」といった声ばかり。


しかも価格は驚くほど強気だった。都内の人気パティスリー顔負けの設定に、町の人々は目を剥いた。


「これじゃ、ミヤシタさんの方がよっぽど良心的だったじゃない……」


冷蔵ケースに並ぶ派手なケーキが、夕方になってもほとんど減っていない光景が、徐々に日常となっていった。


圭太の作る菓子に「技術」はあるのかもしれない。だが、蒼太のケーキにあった“真心”はなかった。食べたあとにふわりと残る、あの優しい余韻は、どこにもなかった。


そしていつしか、人々は言い始めた。


「蒼太くん、戻ってこないかな」


「いくら払ってもいいから、あのモンブランをもう一度……」


だが、町にあの味が戻ることはなかった。





夏の陽射しが照りつける昼下がり、都内の商業ビルに新しくオープンした洋菓子店「アトリエ・ルフレ」は、早くも行列ができていた。白を基調としたガラス張りの店舗。並ぶケーキは、派手さこそ控えめだが、どれも丁寧な仕事が光る。見た目ではなく、味と記憶で勝負する菓子。店頭に並ぶ大半は蒼太が父から受け継いだあのノートのレシピを改良したものだ。父の自慢のモンブランを除いて。


「あの味は唯一無二なんだよな」


ようやく記憶の中の味が再現できたモンブランだけは父のレシピのまま店に並べていた。


「ここのショートケーキ、久々に“本物”を食べたって感じ」

「名前も知らない町のケーキ屋だったらしいけど、すごい人がいたのね」

「宮下さん? ああ、この人が全部作ってるんだって」


蒼太は、厨房の奥で静かに作業をしていた。忙しさはある。だが、あの町で感じていたような押しつぶされそうな重さは、もうなかった。


毎日、自分の仕事に誇りを持ち、スタッフと笑い合い、母にも休みの日には会いに行ける。そんな日々が、蒼太の中に小さな光を灯していた。


ある日、店舗に一人の中年女性が来店した。どこか見覚えのある顔だった。名前を告げられて、蒼太は思い出す。あの町で、閉店の張り紙を前に「閉めちゃうのね」とだけ言って帰っていった女性だった。


「……あの、久しぶりね。噂を聞いて、来てみたの」


イートインコーナーで女性が食べていたのはモンブランだった。


「昔、よく買ってたのよ。お宅の。……どうしてもこの味が食べたくなっちゃって……昔は食べたくなったらいつでも買いに行けたのにね。今じゃ、往復の交通費に何時間もの移動時間……。ねぇ、蒼太くん、こっちに戻る気はないの?」


蒼太の耳にも“なかむら”が作るケーキの評判が悪いことは地元の友人から聞いていた。


だが、蒼太はあの町にもう戻るつもりはなかった。蒼太は、微笑んで「今日はご来店ありがとうございます」とだけ答えた。それ以上は何も言わなかった。


女性はしばらく黙っていたが、小さく頭を下げて店を出て行った。その背中は、どこか寂しげで、少しだけ、過去に許しを乞うような雰囲気さえあった。


和菓子屋の洋菓子は相変わらず売れ残り、しかも高価なまま。記念日を彩る菓子も、なんとなく味気ない。だが、それはもう、蒼太の問題ではなかった。


彼は自分の場所を見つけたのだ。理解者と仲間がいて、努力が評価される世界で、着実に歩みを進めている。


店が閉まった夜、冷蔵ケースを拭きながら、スタッフのひとりが言った。


「店長、今日来たお客様、えらく褒めてくれましたよ。“こんな味、もう一度食べられるなんて”って」


蒼太は、そっと笑った。誰かの心に残る味を、今も作れている。それだけで、もう十分だった。


あの田舎町に背を向けたことに、後悔はない。

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