煙の向こう
ポチョムキン卿
煙の向こう
やよい軒。
昼時の雑踏も一段落して、静かな時間が流れていた。
定食を注文して席に着いたそのとき、隣の席の女がタバコに火を点けた。
年の頃は五十代半ばか、派手なメイクに紫のシャツ、革のショルダーバッグ。
周囲がどよめく中、連れの男が「やめとき!」と、あきれ顔で止めても女は無視してふかした。
店員がすぐに飛び出してきた。
若い、たぶん大学生のバイトだ。
「お客様、店内は禁煙です。申し訳ありませんが——」
すかさずその女が少し大きな声を出した。
「何があかんのよ!いかんって、どこにも書いてあらへんやないの!!」
すこし金切り声でいら立ちの入った声は低くてよく通った。
他の客の視線が一斉にその女に集まった。
子供がぽかんとその女を見つめている。
慌てて母親が「よそ見をしないの!」と子供にきつく言った。
母親の言葉の中に、関わり合うと厄介そうだとの思いがにじみ出ていた。
店員の声にも女はひるまずに椅子から立ち上がると、おなじタバコに改めてもう一度火を点けて吸い込むと、店員の顔すれすれに煙を絞って吐き出した。
連れの男が女の余りにもなみっともなさに「ええ加減にせえよ!」と叫んで女の腕を掴み、店の外に引きずり出す。
その時寸前に、ドアの外から、女が振り返りざまに吸いかけのタバコを店の中へ投げ入れた。
「ほな書いとけや、ボケぇ!!」
吸いかけのタバコはすっと飛んできて、俺のテーブルの近くの床に転がった。床に転がったタバコからゆらゆらと煙が上がって来た。
店員が焦ってナプキンでくるんで拾っていた。
ドアが閉まっても女が何か言っている感じだった。。
もはや何かの動物の鳴き声のように濁って聞こえた。
店内の空気はホッとした感じではあったが、それでもやや重たく沈んでいた。
バイトの若者が、周囲のファミリー客に順番に頭を下げていた。
「申し訳ありませんでした」
「ご不快な思いをさせてしまって——」
だが、俺のところには来なかった。
……まあ、そんなこともあるか、と俺は味噌汁を啜った。
ぬるい。いや、ぬるいというより温度が、感じられない。
それに、あの匂いがしない。
味噌とだしの香り。湯気。
温かいものを口に入れたときの安堵。
いつものやよい軒なのに何も感じられなかった。
店内を見渡す。
客たちは普通に食事に戻っている。
だが、誰一人として俺に目をやらない。
さっき、タバコを投げ込まれたとき俺の方に視線が集まったが、それでも誰も俺を見ようとしなかった。
まるで、俺が、いないみたいだった。
いいさ、どうせ俺は昔から、影の薄い男だ。
ふと、手を見る。
指が、妙に冷たい。
血の気がない。皮膚の色が浅黒く、土気色に見えた。
俺はそっと立ち上がった。
椅子がきしむ音も、聞こえない。
そのときだった。
耳の奥で、ざらざらと砂を噛むような音がした。
ガラスのドア越しに女の姿が見えた。
さっきの、あの女・・・
まだ外にいた。
笑っていた。
いや、笑っているように見えたけど笑ってなどいなかった。
剥げかかった紅の裂けたような口の奥で何かを蠢かせていた。
タバコを注意されたことで、連れ男に対する不満のはけ口が店になったのだろうか。
その女と、視線が、合った。
ぞくりとした。
目が合ったはずなのに、女の目は俺を通り越して、何かもっと奥を見ているようだった。
そうか、そうだよな・・・
あれは、つい、さっきのことだった。
コンビニに向かう途中、車を運転していた。
いつものようにタバコを口に咥えて火を点けようとした。
そのとき口からぽろりと落ちたタバコ。
ハンドルを片手で持ちながら拾おうと身をかがめた、ほんの一瞬。
対向車線に入り込んだ俺の軽が、猛スピードで走ってきたダンプと正面からぶつかった。
衝撃も、痛みも、なにもなかった。
目を開けたときには、なぜかここにいた。
やよい軒で、定食を待っていた。
仕事の合間の飯は一週間に一二度はやよい軒だった。
だが、それは、どうでもいいことのような気がした。
店を出る。
通りに出ると、風の音も、車の音もしない。
女の姿はもうなかった。
あの女、よほどのニコチン中毒なんだろうか、ちょっとの間なのに吸い口に赤い色のついた新しいタバコの吸い殻が落ちていた。
今どきは道端にタバコの吸い殻も落ちていることは少ない。
火は消えかける寸前の煙を狼煙のように立ち昇らせていた。
俺はその煙を見下ろしながら、ゆっくりと、その向こうへ歩き出した。
誰にも気づかれないことのないこの世界で・・・
煙の向こう ポチョムキン卿 @shizukichi
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