さすれば久遠の友として

山の下馳夫

第1話 予感

 講義を終え校舎を出ると、今朝方から降り続いていた雨はすっかり止んでいた。

 傘をささずに済んだことに喜び、駅に向かい歩み始める。その途中、キャンパス内にある著名な作家の抽象彫刻が雨に濡れ、静かに光っているのが目に写った。

 その穏やかな輝きを見た瞬間、私はふと親友のことを思い出した。後から思い返してみれば、それは、虫の知らせというものだったのかもしれない。

 道の端に寄り、スマホの画面を確認する。マナーモードで気づかなかったが、数分前に先ほど思い浮かべた『彼』からの着信があった。

「――ごめん、さっきまで講義でさ」

 すぐさま電話をかけ直し、電話に出られなかった弁明から始める。かつて恋人や恩師の教授と話す時でさえ、これほど繊細に応対することは稀だった。

「隼人もすっかり先生だな……、こっちこそ忙しい時に悪いな。いや、まあ大した用事があるわけでもないんだが」

 電話口の相手は、どこか気だるげな声だったが、今日はまだ酔っていないようだ。彼が珍しく言いよどんだその様子に、不安が膨らんだ。

「何かあったのか……」

 横を通り過ぎていく学生相手に、愛想良く振舞うことを忘れ、私は電話に集中した。

「いや、大したことはないさ。小雪がしばらくいないから、アトリエは静かで、むしろ制作には集中できるくらいさ」

 電話の相手、高岸巧〈たかぎしたくみ〉はつまらなそうに言ったが、こちらとして、その異変は見過ごせなかった。

「巧、今から行って良いか。明日から講義は休みなんだよ」

「ん、ああいいよ。空いている部屋はいくらでもある」

 私はその返答を聞くや否や、江古田駅に向かって走り始めた。途中、飲み屋から出てきた同僚に呼び止められそうになったが、今は気にしていられない。

「そんなに慌てるなよ、隼人」

 電話の向こうで、親友が微かに笑った。巧と出会ってから十五年以上の時間が経ったが、彼の感情表現がここまでおぼろげだったのは、あまり記憶になかった。

 私はそのまま自分のアパートにも寄らず、江古田駅から池袋行きの電車に乗った。西武池袋駅ですぐさま秩父行きのチケットを手配し、勢いのままに出発時間の早い特急へと乗り込んだ。特徴的な美しい車体を見る余裕はなかった。

「あ……」

 指定座席に座り車内を見渡すと、自然と、うめきにも似た声が漏れた。二〇一九年のこの特急の運行開始の際に、巧たちと秩父に行った記憶が私の中に溢れた。あれは、大学一年次のことだ。制作の参考になるといって、巧が秩父へのスケッチ旅行を発案したのである。

 懐かしい学生時代の記憶とともに、いよいよ私の中の不安が大きくなった。

 巧との様々な思い出が胸中を駆け巡った。洗練されたデザインの車内も、斜陽に彩られた車窓からの風景も、今は私の目を奪わなかった。私の意識は、ただ親友の過去と現在にだけ向けられていた――


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