エリシオン·アル·レーヴ
蜜柑 宵薫
ep総集編
序章 魔法の世界
その日は、開いた窓から鳥の
そういえば、前にもこんなことがあったっけ。
彼は、今日と同じように酒を勢いよく飲み、酔いつぶれた時のことを思い出していた。
肩を強く揺すられ、意識の遠くからぼんやりと女性の声がした。それは透き通るような優しい声で、波紋が広がるように耳の奥で静かに響く。
「アランさん、起きて下さい。もう閉店の時間ですよ」
今から九年前、彼は仕事終わりに先輩と酒場に立ち寄り、そこで働く彼女に一目惚れをした。
翌日、思い切って一人で訪れ、格好つけて度数の高い酒を勢いよく飲むところを見せつけ、挙げ句、酔いつぶれて眠ってしまった。
先ほどまで賑やかだった店内は静まり、小さなろうそくの火が灯るだけの薄暗い店内に、彼女と二人っきりとなっていた。アランはその声に反応し、目を細めながら声をかけてきた彼女の顔を見る。
「ソナ…さん?あ、ごめんなさい。すぐに帰ります」
彼は立ち上がろうとしたが、体のバランスを崩し、床に尻から倒れ込む。すると、彼女は笑った。
「急がなくてもいいですよ。私は大丈夫ですから。はい、これお水です」
その笑顔は優しさも相まって天使のように眩しく、美しかった。
そのとき、彼の耳に、大地を揺るがすような力強く太い声が、岩を砕く荒波のように押し寄せ、響く。
「おい、アラン。いつまで寝てるんだ?」
男はそう言いながら、アランの頭を叩いた。
その衝撃と共に、ソナの笑顔は霧のように消えていき、アランは目を覚ました。
「あ…夢か」
痛む頭を押さえながら見上げると、上司のザルドが呆れた顔でこちらを見下ろしていた。彼はため息をつきながら、水が一杯に入ったガラスコップをテーブルに置く。アランは握りしめていたガラスジョッキをテーブルの隅に置くと、コップを手に取り、一気に飲み干した。
すると、ザルドはアランの肩に手をポンッと優しく乗せた。
「お前、まだソナちゃんとの離婚引きずってるのか?早く行くぞ。仕事の時間だ」
アランは頬に静かに滴る涙をそっと拭った。
「…もう大丈夫です。行きましょう」
少し
古びた木製の
歩みを進めるに連れ、まるで黒い霧に包まれていくように、だんだんと辺りが暗くなっていく。やがて、背後にあった聖壁さえも、覆い隠されるように見えなくなっていった。
この世界の名は魔界。
カツンカツンと鎧の鉄脚が地面を踏みしめる足音が響き、遠くから魔獣の咆哮が微かに聞こえてくる。
「三級炎魔法、ファイアブライト」
アランの手のひらから、赤い炎がメラメラと燃え上がる。それは渦巻きながら空中の一点に集約され、球体を形成した。それはまるで小さな太陽のように、眩しい光を放ち、辺りを照らす。
そのまま歩みを進めていると、木々の
そのとき、「グルルル…。」と、木々に
アランは火の玉をゆっくりと暗闇の奥に運ぶ。その明かりの先に鋭い爪が銀色に
──狼種の二級魔獣、ケルベロス。早速、任務開始か。
「二級炎魔法、ファイアフラッシュ」
アランは火の玉を放ち、ケルベロスの目の前で琥珀色の火花を炸裂させ、目を眩ました。
「二級土魔法、グラウンドブレイク」
ザルドは、ケルベロスの動きが止まっている隙を狙い、地面を叩きつけた。地鳴りによる轟音とともに、大地は裂け崩れ、
「二級炎魔法、トリプル·フレイムアロー」
アランは三本の炎の矢を形成し、爪で断崖を掻き崩しながら藻掻くケルベロスの三つの頭を射て貫く。
ザルドは周囲を見渡し、眉をひそめた。
「まずは一匹。しかし妙だ。いつもなら、血の匂いを嗅ぎつけて次々に出てくるのにな」
アランも耳を澄まし、息を潜めながら、周囲の気配を探る。
確かに…。こいつだけ群れから逸れたのか?いや、そんなこと、今まで一度も…。
ゔぁぁぁ。
不意に血を
ザルドとアランは顔を見合わせ、互いの瞳に映る動揺を察知する。そして二人は、すぐに悲鳴のあった方へ走り出す。
なんだ?何が起こった?
アランはだんだんと呼吸が荒くなり、心臓の鼓動を早める。
全身に走る冷気が本能に訴えかけている。そこに近づいてはいけないと。
突然、アランの足が止まった。自分の影に潜む怪物に掴まれ、吸い込まれていくように、恐怖で足がすくむ。冷や汗が垂れ、息を呑む。
そこに、何かがいる…。
枯葉を踏みしめる音が静寂を破り、心臓を打ちつける鼓動のように刻々と近づいてくる。
血染めの鋭い眼光がギラリと光る。影がゆっくりと伸びていき、現れたのは黒い衣で身を包んだ人型の魔物、魔人だった。その手には、全身が黒焦げとなった人間の頭が掴まれていた。
アランは目を見開き、足の震えが止まらなくなる。
人間?いや、違う。未知の魔物…。そうか、こいつだったんだ。ケルベロスは群れから逸れたんじゃない。こいつから逃げてきたんだ。
「ニンゲン…。ニンゲンハ…」
その悍ましい声に、アランは全身の肌が震え立つ。
喋った…のか?どうする?どうすればいい?
「アラン、逃げろ」
ザルドの必死の叫びが、アランの鼓膜に落雷の如く轟き、目が覚めたように、荒く息を吸い込んだ。
「はぁ、はぁ。ザルド先輩」
胸を押さえながら、アランが声のした方へ振り向くと、紫色の炎が視界を覆った。
ザルドはアランの方へ手を伸ばしながら、その炎に飲み込まれた。振り絞った声は炎の轟音にかき消され、再び視界に映ったのは、彼の黒焦げとなった姿だった。
そのとき、過去のザルドからの言葉がアランの頭を過る。
「何を抱えてるのか知らんけど…。アラン、誇れよ。お前は俺の自慢の後輩だ。それに俺は、お前が強いって知ってるからさ」
黒く焼け焦げたザルドの姿を見ながら、アランは呆然とし、全身の力が抜けたように、膝をついた。
はぁはぁはぁ。先輩が…殺された。俺も殺される。逃げなきゃ…。俺だけでも生き残って、本部に報告を…。
「ヨワイ…。やはり、人間は弱いな」
その言葉を聞き、アランは頭に血が上り、全身の震えが止まった。
弱い?そうだ、思い起こせ。…たとえ離れていても愛する人を守る。そのために、俺は強くなったんだ。
アランは腰の鞘から剣を引き抜く。
「
剣の柄を握る手から放出された炎は茜色の竜が剣の刃に沿って天翔けるように渦巻く。そして、高熱を帯びた刃は、琥珀色に煌めく。
その刃は、鋼鉄の硬度に高熱による貫通力を加えたことで、二級魔法では再現できなかった威力を実現させた。その威力は一級魔法に匹敵する。
アランは息を吸い、大きく一歩を踏み出すと、風を切り裂くように魔人の方へ突進する。そして、夜空に堕ちる
しかし、魔人は片手でアランの剣を掴み、その勢いをあっさりと止めた。
片手で…止めただと?
アランの瞳に、魔人の黒い衣が大きく映った。彼が衣だと思っていたものは、よく見ると、焦げ付いたような黒色の皮膚だった。
この匂い…この硬度…。まさか…炎に耐性があるのか?
「ククク。やはり、俺は人間より強い」
刃を握る魔人の手から、超高熱の紫炎が噴き出し、剣身は溶け始めた。その熱はアランの手に達し、皮膚が焼けるような痛みが走り、柄から手を離す。
ゔぁぁ。熱い。熱い。痛い。
魔人は溶け出した剣を握り潰し、そのままアランの頭を掴み上げた。
「え…?や、やめろ…。やめろっ!」
アランの絶叫も虚しく、魔人の手から紫炎が放出され、アランの全身を飲み込んだ。
ぐぁぁぁ。
全身が黒く焼け焦げ、まるで、焚き火でパチパチと音を立てる薪のように皮膚が弾ける痛みに襲われ、表面が灰となって崩れ落ちていく。
絶望と恐怖が渦巻く中、意識の遠のきを感じながら、アランは倒れ伏した。最後の意識の中で、彼の瞳に映ったのは、道端に寂しく咲いた一輪の結晶花だった。そして、走馬灯のように、過去の記憶の断片が彼の脳裏を駆け巡った。
結晶花。虹色に輝くその花を見るたびに、あの日、ソナに贈った
「アランさんの仕事って…まるで冒険みたいですね」
──君の温かく優しい声と、その言葉に俺は救われた。
新しい命の誕生。涙を浮かべながら赤子の小さな体を抱きしめるソナの手と、その子の手を握り、俺も心から喜び、涙を流した。
「ヴァイス、生まれてきてくれてありがとう。」
──君の天使のような笑顔が俺に幸せをくれた。
あの人と交わした約束。大地を激しく打ちつける冷たい雨の雫が、青かった心にあったはずの、ソナの声をかき消し、姿が雨煙のように霞んでいく。
「これが正しいとは思わない。しかし、君を信じてみよう。」
──彼女の全てを知るために、俺は愛を生贄にしていた。
ソナとの別れ。彼女は茜色の灯火に染まった糸を解くように袖を掴む。その手から伝わる小さな震えを、俺は気付かないふりをした。
「アラン、私はそんなこと望んでない。」
──君の手は寂しさに凍えているようだった。
思えば思うほど君は遠ざかってしまう。守りたいなんて綺麗事だ。嘘だ。本当は…君の隣に相応しい男になりたかった。なれない自分が情けなかった。苦しかった。ごめん。ごめん。
「ソナ…。ヴァイス…。」
そう呟きながら、アランの黒焦げとなった体は崩れ落ち、漆黒の灰と静かに零れる涙が、空に浮かぶ天燈が燃え尽きるように消えていく。
その翌日、王国の東端に位置する小さな町が紫色の炎に包まれ、黒い灰と荒野、そして、たった一人の少年だけを残して消えた。
老人は、その前日に起きたとされる魔界調査中の事故で死亡した者を記した資料に目を通す。
老人は、その名を見た瞬間、拳を机に叩きつけ、唇を噛み締めながら瞳に潤む涙を堪える。
「…そうか。君はここにいたのか。殺す手間が省けたよ」
無知から愛は生まれない。
かつて、アランは私にそう言った。その言葉は、銀の
それから十年の時が過ぎた。
雪解けを告げる暁が昇り、開花を待ちわびる桜の蕾を照らす。緑に囲まれた丘の中に小さく立つ、クリム・ソナの名が刻まれた白大理石の墓石の前に、二つの影が並んでいた。
白いカーネーションの花束を胸に抱え、少年は静かに息を吸う。
「やっとここに来れたよ、母さん。あの日、光が奪われて、目に映る世界が真っ暗になったような気がしてた。でも、下を向いていても、前に進むことはできるって分かったから。だから、強くなることを選んだよ。俺、乗り越えてみせるから」
少年は花束を墓の前にそっと置く。隣に立つ老人は少年の肩に優しく手を乗せる。
「ヴァイス、ここから始まるんだ。君の物語は」
老人は潤む瞳を拭う。
「うん…。じゃあ、行ってきます」
二人は墓石に背を向け、歩き出す。陽光の温もりを乗せた風が二人の背中を押していく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます