家族

 フギンは、部屋の準備が終わるまで宿屋の椅子に座っていた。

 併設している食堂から聞こえる楽しそうな人々の声に、賑やかでも穏やかな雰囲気に心を落ち着かせていた。


 この辺境の宿屋に来るのは、3度目だ。

 フェンリルが候補地として挙げた、条件に合う土地のひとつに一番近い人間の集落で、山が近い。

 そのおかげで隠れる場所も多く、フェンリルと落ち合うには人目も付きにくい絶好の場所だった。

 しかし、各地を巡るフェンリルは天気次第で、この地に到着するのに遅れが生じる場合もある。

 それならばとフギンはこの宿屋を待機場所として、到着の合図である彼の遠吠えの声を待っていた。

 

(……そういえば、大体このタイミングで来るんだが。)

 しばらくすると、思い出したかのように、フギンは浅く椅子に掛け直すと、無意識に視線を店の入り口やカウンター裏へと移し、何かを探すようにそわそわと辺りを見渡した。

 そして、カウンターの後ろからフギンを見つめる影を見つけると、彼は口を綻ばせた。

「おいで」と言わんばかりに、手招きをする。

 すると、カウンターの影から、ちょこちょこと顔を赤くしながら近づく少女が現れた。

 フギンは膝を軽く叩き、彼女を促す。

「ほら、ここにおいで。」

 そう言って、近づいてきた彼女を持ち上げると、自分の膝に座らせた。

 温かい体温が伝わり、自然と笑顔になる。


「フィオナちゃん、久しぶりだね。」

 フギンがそう言うと、フィオナと呼ばれた少女は何も言わずに体の向きを変え、フギンを離さないとでも言うかのように、ぎゅっと抱きしめた。

 その仕草が愛らしく、思わず微笑んでしまう。

 ちょうどその時、カウンターから出てきた亭主の妻が慌てた様子で近づいてきた。

「いつもごめんなさいね、フギンさん。フィオナ重いでしょ?」

 申し訳なさそうな母親に対して、フギンは微笑む。

「外が寒かったので、フィオナちゃんのおかげで温かいです。」

 そう言って膝に座る彼女の頭を、優しく撫でる。

 

 フギンは、人間の、特に女性は好きだった。

 魔女と暮らしていた影響もあるが、フギンの周りの彼女たちは自分に餌付けをしてくれて大層可愛がってくれたからだ。

 初めてフィオナと出会い、「お兄ちゃん」と無邪気に呼んでくれた瞬間、心が暖かくなり、自分を可愛がってくれた彼女たちの気持ちが少しだけ分かった気がした。

 フギンはフィオナを可愛がり、彼女もフギンにどんどん懐いていった。

 思えば、ここの宿屋の人間にはずいぶん世話になっていると、フギンはフィオナの頭を撫でながら思い出す。


 初めてこの宿屋を訪れたフギンは、酔っぱらった男が自分を指して言う、“べっぴんさん”、“美人”という言葉に首を傾げていた。

 その反応を不思議に思った亭主が、フギンの目の前の椅子に腰を下ろした。


「異国の人?」

 興味深そうに亭主は口を開く。

 急に話しかけられたことに、少しだけ驚き、フギンは慎重に言葉を紡ぐ。

「あぁ……まぁ、そんなところです。大まかな言葉は分かるんですが、細かい単語の意味となると……。」

 それを聞いた亭主は得意げに話し出す。

「因みに君が言われた、“べっぴんさん”も“美人”も同じ意味で、美しい人ってこと……あぁ、いや男性に美人って合ってるのかぁ?」

 首を傾げる亭主にフギンは笑う。


「ふふっ、いえ私の双子の姉が褒められたようで嬉しいので、大丈夫ですよ。」

 もちろんこの姉と言うのは、魔女の事だ。

 フギンの顔は、彼女の事を忘れたくない一心で生前の彼女の顔を真似ていた。

 それを褒められるのは――正直気分が良い。


「へぇ?君とそっくりなんて相当モテるだろう?そのお姉さん。」

「モテ……?」

 きょとんとしたフギンの顔を、しまったという顔で亭主は考えながら、言葉を捻りだす。

「あぁ!えぇっと……、異性に人気って事かな?」

「もしかしたら、そうだったかもしれないですね。」

「だった?」

「姉は亡くなったので。」

 フギンがさらりと言うと、亭主は口をへの形に変えた。

「……お気になさらないでください。相当昔の事なので。」

 実際、魔女が死んでから既に100年近く経過していた。

 気にする時間はとうに過ぎた。魔女はフギンの記憶の中で今も生きている。


 目の前の亭主は、気にしないようにと言ったにも拘らず、涙目になりながらカウンターの奥に引っ込む。

 フギンはそんな彼を興味深そうに、観察していた。

 人間の男性、特に武装した男性には碌な思い出がない。

 だが、彼の様にコロコロ表情を変える男は面白いなと、軽く笑いながらフギンは頬杖をついた。


 相変わらずメソメソした様子の亭主が、ズビビと鼻を大げさなほど啜り、分厚い本を抱えて戻ってきた。

「……相当昔って言ったって、ここを癒される場所にしたいと俺ぁ思ってるんだ。」

 その本を、フギンの前に差し出す。

「言っておくが、これは詫びじゃないぞ?言葉に興味を持った君へ俺からのプレ……、贈り物だ。」

 そう言うと、彼は少しだけ視線を逸らし頬を掻く。

「まぁ……実際のところ、甥っ子の進級祝いで買ったんだが拒否されたものなんだ。けど、おかげでまだ開いていないピカピカの新品だ。」

 フギンは、驚きで目を見開く。

「言葉ってのは、先の事を考える時に役に立つ。きっと君の役に立つ……なぁんて、俺が言っても信憑性がないか。」

 フギンは、開いても?と聞くと、亭主はもちろん、と笑う。

 本を開くと、そこには文字があり、魔女と暮らしていた彼に読めるものもあった。

「……これは?」

 魔女の持っていた大量の書籍を思い出して、フギンは目を輝かせながら亭主に尋ねた。

「辞書さ。きっと君の知りたい言葉はこの中に書いてあるよ。」

 ニカッと先ほどの半泣きが嘘のように、亭主は明るく笑った。


 フギンは、それからすっかりその辞書に夢中になり、宿泊中に開いては読み方や使い方を亭主や、その妻に聞いた。

 背丈こそずいぶん大きいが、息子が出来たようだと夫婦は喜んで答えてくれた。

 娘のフィオナも、滞在期間がすっかり長くなったフギンに慣れて、絵本を読んであげるよ!と彼の膝に乗り、大きな声でお姫様の絵本を読んでくれるくらいには懐いていった。


 フェンリルの到着が思った以上に遅くなっていることが気になった。

それと同時に滞在費の事が胸をよぎる。

 しかし、フギンのカラス特有の目で集めたお金は意外と多かった。

 たとえ足りなくとも、フギンは宿の掃除や薪割り、フィオナの相手をした。

その手伝いを対価として、滞在費の不足分に補填にしたのだった。


 その関係でフェンリルの遠吠えから数日遅れで、フギンはようやく彼と落ち合えた。

 約束の場所で再開するのは、数年ぶりだ。

 フェンリルは、ムスっとした顔で「遅かったな。」と短く言う。

 魔族の寿命の長さを考えれば、10年にも満たない月日など人間に比べれば短い。

 その為フギンは、フェンリルは気にしないかと思っていた。

(けど、この様子は……。)

 辞書で見た「ヤキモチ」という言葉を思い出す。

 遅くなった理由を伝えた途端、フェンリルはフギンの傍に寄ってきたのだ。

 フギンは、その様子に少し微笑む。


「フェンリル様、遅れて申し訳ありませんでした。」

 久方ぶりの毛皮の温もりに、フギンはようやく再会を実感した。

 無事に再会できたことを喜び、フェンリルの元へすぐに行けなかったことを、素直に詫びる。

 フギンがそう言うと、フェンリルは「別に。」という言葉とは裏腹に、フギンの近くから離れない。

 そういえば、彼は年下だった事を思い出す。

 自分と同じように、フェンリルも寂しさを覚えていたのかもしれない。

そう思うとフギンは、その拗ねたような仕草に愛らしさを覚えた。

 フギンは、フェンリルと同じように自分の体を、彼の身体に寄せたのだった。




 思い出に浸っていたフギンの目の前に、亭主が辞書を置いた。

「ほら、フギンのお気に入り。今日も部屋に持って行くだろ?」

 顔を上げれば、ウインクをして得意げにしている亭主の顔。

「部屋の準備、できたからな。……ほら、フィオナ~~お父さんのとこに来な~~。」

 猫撫で声で手を広げる父親に、フィオナはフギンにしがみつき、プイッと顔を背けた。

 あからさまにショックを受けた亭主の様子に、フギンは笑い、膝の上にいるフィオナに顔を向けた。

「――フィオナちゃん。」

 首を傾げて、優しく語りかける。

「お父さん、待ってるよ?」

 しかし、フィオナはフギンの服をぎゅっと掴む。

「お兄ちゃん捕まえとかないと、帰っちゃうでしょ!」


 フギンは困ったように笑いながら、フィオナの髪を優しく梳いた。

「……うーん、じゃあ後でフィオナちゃんのお願い、なんでも聞いてあげる。」

 その言葉に、フィオナはぴたりと動きを止めると、フギンを見上げる。

「ホント?」

「本当。」

 

「えっと、じゃあ……」

 フギンの耳元に口を寄せ、こしょこしょと囁いた。

 フギンは小さく、いいよ。と答えると、フィオナに満面の笑みが広がる。

「しょーがないな~!」とフィオナがフギンの膝から降りて、父親の方へ仕方なさそうに向かった。

「ちょっと待て!フギン!お前ら一体何話してたんだ?!」

 あまりの様子の変わり様に、亭主は慌て始める。

 フギンとフィオナは顔を見合わせる。

「「秘密。」」

 二人の笑い声が、小さな宿屋に優しく響いた。


「お兄ちゃん、来たよ!」

 夜になって、コンコンとノックのするドアを開くと、そこには枕を片手に抱えたフィオナが立っていた。

 フィオナのお願いは、夜一緒に寝て欲しいという事だった。

 快く承諾したフギンとは裏腹に、フィオナの付き添いで後ろに立っていた亭主は、どんよりとした目でフギンを見つめる。

「……良いか?フギン。一つだけ言っとくからな?」

 フギンの肩に手を置いて、半ば泣きそうな表情で亭主は口を震わす。

「今から、フィオナを、唆すなよ!!」

 ちくしょう!

 捨て台詞を残して、慌ただしく亭主は去って行った。

 フギンが肩を竦めていると、フィオナが早く早くと手を握って部屋へと急かした。


 一緒の布団にくるまってお話をする。

 フィオナは秘密基地の中のようで、ワクワクした。

 瞳を輝かせながら、フギンに寄り添って、小さな声でおしゃべりを始めた。


「……お兄ちゃん、じしょ、なんでここにおいてるの?おうちに持っていかないの?」

 大事なんでしょ?とずっと不思議だったことを口にする。

「うちにはおっきな犬がいてね。辞書を食べちゃうかなって思ったんだ。だからここに置かせてもらってる。」

 もちろん、この“おっきい犬“とは主君フェンリルの事だ。

 彼は今、土地探しと他の魔族の勢力に苦心している。

 そんな相手の前で、悠長に辞書を広げるようなフギンではない。

「おっきいわんちゃん?可愛い?」

 フィオナが、興味深そうに聞く。

「うん、とっても可愛いよ。私が辞書に夢中になってると、ヤキモチ焼いちゃうからね。」

「お兄ちゃんの事、好きなんだね!かわい~。」

 そう言って、フィオナは口に手を当ててクスクス笑った。

 フギンはつられる様に笑いながら、彼の事を思い、そうだね。と言った。


 眠りに落ちたフィオナを引き取りに、父親である亭主はフギンの部屋に迎えに来た。

 重そうにフィオナを抱きかかえる。

「わりぃな、娘のわがままに。」

「いえ、むしろ他人の私に任せるなんて、不安じゃなかったですか……?」

 その言葉に、亭主はフィオナを抱いているにも拘らず「はぁ?!」と大声を上げた。

 その声に、フィオナは小さく身じろぎする。

 亭主は慌てるがフギンは、しぃと口に指を当てて、制止を指示する。

 やがて、寝息を立てたフィオナに、二人はほっとため息を吐いた。


 気を取り直した亭主は、フギンに近づき小声で言った。

「あのな!フツー他人に、大事な一人娘は任せねぇよ!お前はもう、うちらの家族みてぇなもんだろ?」


 フギンの唇から「え?」という言葉が洩れた。

 心臓が高鳴り、みるみる顔が熱くなってくる。

 自分が今、どんな顔をしているか分からなかった。

 だが、フギンの顔を見た亭主が途端に顔を赤らめた。

「……なに恋したみたいな顔してるんだよ。こっちが恥ずかしくなる!」

 そう言って、そそくさと寝室に帰って行った。


(魔族である私が、人間と家族?)

 心がふわりと熱くなる。

 辞書で学んだ言葉で、一番近いこの気持ちは……。

(嬉しい、だ。私は今、とても嬉しい。)

 この宿屋で過ごした日々を思い出す。

 ――人間と魔族、種族関係なく手を取り合い、心を通じ合わせていく。

 フギンが目指すべき形が、ここにあった気がした。


 胸が熱いまま、フギンは布団に潜った。

「……参ったな、眠れる気がしない。」

 辞書で学んだ言葉が、自分の感情にあてはめられたことが嬉しかった。

 これを読み続けていけば、フェンリルと人間を繋げるパイプになれるかもしれない。

 フギンは、今は遠いであろう未来に夢を見た。


 この集落の人々と自分のような魔族が家族の様に、自分と魔女のように生きられたら……。


 子どもは、種族関係なく愛らしい事。

 人間の作る料理は美味しい事。

 本で色々な知識が得られる事。

 困っているときに手を差し伸べてくる人間がいる事。


 フギンは、天井を見上げる。

 口元から笑みがこぼれた。

(フェンリル様に伝えたいことが沢山だ。)

 フギンは彼に、この集落や人間の事を教えてあげたくて堪らなくなった。

 体の興奮を抑える様に、布団の中で体を丸めた彼の心臓は、未だに熱く鼓動を打っている。


――この鼓動はきっと、フェンリルへと続いている。

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