第28話『小屋の中に、監視者(スパイ)がいた』

――鍛冶の音が響かない夜は、森がやけに静かだ。


 ルフナがいつもより早めに寝息を立て、クラリスも洗練された所作で茶を飲んでいる。メルゼリアは警戒任務に出ており、小屋の中は不自然なほど穏やかだった。


 そんな夜。

 村上湊は、違和感を覚えていた。


「……さっきから、変だな」


 薪をくべる手を止め、湊はかすかに眉をひそめた。

 この空間には“余分な視線”がある。鍛冶屋として、静かな集中を求める彼の感覚が、それを敏感に察知していた。


 湊は立ち上がると、ゆっくりと裏の作業小屋へ向かった。そこには、クラリスの副官としてここ数日滞在している若い魔術師の女性――セリアが、ランタンの灯りのもと、なにやら文書を書いていた。


「……夜分に失礼」


「あなたこそ、こんな時間にどうされました?」


 セリアは笑みを浮かべていた。だが、その瞳には、微細な緊張があった。


「炉の調子を見に来ただけさ」


「そうですか。……私も、報告書をまとめていただけです」


 淡々と交わされる会話の中に、張りつめた糸のような“空白”が走った。


 ――違う。この女、何かを隠してる。


「……セリアさん」


 湊は、一歩踏み込んだ。


「貴女が記録してるのは、報告書じゃない。俺の、鍛冶技術の構造式と、配合だ」


 セリアの筆が止まった。


「……なるほど。やはり、隠し通すのは無理でしたか」


 次の瞬間、彼女の口元が冷たい笑みに変わった。


「私は《紫の眼》、王都直属の情報機関に所属する者。今回の任務は、貴方と貴方の“技術”を調査すること」


 ――情報機関紫の眼


 それは王都の裏側で動く“もう一つの目”だ。王家の命にのみ従い、王都の外に潜む才能や脅威を内偵・吸収・排除する影の機構。


「クラリスの副官ってのは、ただのカバーストーリーか」


「彼女が貴方を信じすぎるからよ。……危ういほどにね」


 セリアは淡々と言った。


「ですが、ご安心を。私は貴方を害するつもりはない。貴方を“王家の保護下”に置きたいだけ」


「保護、ね……」


「研究室を与えられ、資金も尽きることはない。そして、貴方の手は汚れずに済む」


 まるで誘惑のような甘い言葉。


 だが、湊は静かに、首を横に振った。


「俺は……そういう“静けさ”じゃ、鍛冶ができない」


「……やはり」


 セリアが立ち上がる。だが次の瞬間――!


「貴様ッ!」


 扉が激しく開かれ、銀の鎧が月光を跳ね返すように現れた。


 クラリス=ヴァンベルク。


「おまえが、湊殿を――」


「……クラリス。落ち着け」


「落ち着けるものかッ!」


 クラリスの怒声は滅多に聞けるものではなかった。

 その凛とした表情に、怒りと――そして、失望が浮かんでいた。


「セリア。王家の剣を預かる私に、これ以上の裏切りをさせる気か」


「任務だから。個人の感情は排している」


「ならば、私の剣も排されると思え」


 月光の下で、クラリスの手にあるのは、湊が作った“矯正調律刀”。

 その刃が、セリアの胸元に突きつけられた。


「……わかりました。これ以上の調査は、控えます。貴方がこれほどまでに彼を――」


「言うな」


 クラリスはぴしゃりと言葉を切る。


「私が湊殿に抱いている感情は、まだ……私自身すら、知らぬのだから」


 その一言に、セリアは静かに目を伏せた。


「……報告だけは、上に通させてもらいます」


「それでいい。ただし、彼にこれ以上の負担をかければ、次は王都とて黙ってはおかぬ」


 クラリスのその言葉には、王家の盾たる“鋼の乙女”としての決意が宿っていた。


 セリアは一礼すると、静かに姿を消す。


 ――鍛冶の音の代わりに、夜風が吹き抜けた。


「……クラリス」


 湊が口を開いた。


「さっきの、“知らぬ”って言葉……あれ、本心か?」


 クラリスは振り返らずに答えた。


「知らぬのだ。だが、知りたいとは思っている。……貴方が、その価値ある男であれば、だが」


「……そうか」


 湊はふと、自分の手を見る。鉄を打ち、火花を散らすだけだった手。


 けれど、気づけばその手は、誰かの“心”を動かすためのものになっていたのかもしれない。


「……じゃあ、頑張るよ」


「なにを?」


「その価値ある男ってやつに、少しでも近づけるように」


 その言葉に、クラリスの背がわずかに揺れた。

 その震えが、風か、それとも――感情か。湊には、まだわからない。


 だが、わかっていることが一つある。


 ――鍛冶屋の小屋の中に、またひとつ“火花”が生まれた。


 それがいつか、心の中の刃となるかもしれないことを、湊は知っていた。


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