4章 終焉
愛媛から東京に戻ると、ごく普通の日常が始まった。落ち着きもしなければ郷愁も感じない、ごくありふれた日常に安心する。会社では同僚や上司からお悔やみの言葉を貰い、総務に忌引きの手続きの催促を受けた。貯まった仕事を手早く片付けて、現場に向かわねばならない。
デスクに座り、パソコンを立ち上げる。メールの通知音が鳴り続ける中、ふと、愛媛で伯父から渡された名刺が目に入った。「悪役のおじさんの連絡先だ。…」という言葉が蘇る。
整理しようと思うが分類に悩み、財布に入れた。
あの日の夜、母から聞いた父の言葉、そしてアパートの収支を見た時の衝撃が、まだ胸の中に重く残っていた。
しかし、現実は容赦ない。山積みの仕事に追われ、週末には息子の部活の応援。目の前の忙しさに流されていく中で、実家の問題は、どこか遠い場所にある出来事のように感じられていた。いつものように同僚たちはそこにいる。ここに愛媛の面影はない。この場所は心地よい。
週が明けても、アパートと祖父の家、そして父のキャリアに関する疑問は、廣の頭の片隅に常にあった。終わっていない相続関係書類を高齢の母が処理してるかと思うと胸が痛んだ。売却の提案はするにしても、母の抵抗は容易に想像できた。父が必死に守ろうとしたものを、簡単に手放せるわけがない。現状困って無い以上、母が決断を急ぐことはあるまい。
それでも、無視することはできなかった。昼休みに会社の休憩室で、スマホで不動産関係のウェブサイトをいくつか開いてみた。近隣の不動産相場、築年数の古いアパートの売却事例、リフォーム費用と家賃収入のバランス。調べれば調べるほど、現実は厳しいものだと突きつけられた。伯父の言葉が頭をよぎる。「元々あの敷地に三戸は無理があるんだ。二戸に建て替えるべきだったんだ。」
あの時は意地悪く聞こえた伯父の言葉が、今では嫌に現実味を帯びて感じられた。30年前に建替えられた2戸ならばリフォームで収益化も可能だったかもしれない。しかし売却するにしても、リフォームして賃貸を続けるにしても、かなりの時間と労力、そして資金が必要になることは明らかだった。そして、その資金と労力があるなら他に使う方が有意義だ。しかし廣自身が、それを積極的に進める気になれないでいた。どこかで、父のプライドを傷つける行為だと感じてしまう自分がいた。
結局、廣は具体的な行動に移せないでいた。日々の仕事に追われ、週末は家族サービスで時間を使い、実家の問題は電話での確認にとどまっていた。母からは「税理士さんが頑張ってくれとるけん、大丈夫よ」と明るい声が返ってくるが、その裏に隠された疲労を廣は感じ取っていた。父のいない、父を世話することのない家に一人なのだ。
不動産会社への連絡も、結局先延ばしになっていた。一度詳しく相談すれば、そこで提示されるであろう厳しい現実に、真正面から向き合わなければならない。母の思いもある。それは無視していいものじゃない。それは、父が長年目を背けてきた問題であり、廣自身もまた、その重荷を背負うことへの覚悟が足りていなかった。漠然とした不安は常にあったものの、日々の忙しさがその感情を覆い隠し、具体的な行動への障壁となっていた。ここは愛媛ではないのだ。
父が「係長」で終わったこと、そしてそれが父にとってどれほどの「情けない」ことだったのか、今になって廣は痛感していた。自分の会社での経験を振り返る。多くの人間が競争から振り落とされていくのを目の当たりにしてきた。残っているものもいる。辞めていった彼らは今どうしているのだろう。今でも交流のある者もいるにはいるが少ない。
父もまた、周囲からの「上場会社勤務」という期待と、社内での現実とのギャップに苦しんでいたのだろうか。組織の中で生き抜くことの難しさ、そしてそれが積み重なっていくストレス。廣は、父がそのストレスと孤独を抱えながら、家族のために、周りの期待に応えるために、自分を押し殺して生きてきたのではないかと考えるようになった。
伯父が語った父への恨み節。それは単なる個人的な確執ではなく、父の抱える劣等感とプライド、そしてそれを認めることのできない悲劇的な側面が絡み合っていたのだ。父は、その「負」の感情を誰にも打ち明けることなく、一人で抱え込んでいたのかもしれない。
そして、その感情が、祖父の遺産を「売却」することへの抵抗、いつかは、と判ってはいても現状を維持できている以上手を打てなかった。ひいては不動産問題の解決を遅らせる要因となっていたのではないか。
廣は、今、その「負」の側面と向き合うことを迫られていた。父の生前には気づくことのできなかった、見えない重荷。それをどう背負い、どう解決していくのか。答えはまだ見つからない。しかし、一歩ずつ、その重荷と向き合っていく覚悟は、少しずつ廣の中で固まりつつあった。
母の前に奥さんに話そうと思う。
夕食。8時過ぎの遅い夕食に菜摘は付き合ってくれている。浩は自室で受験勉強ということになっている。いつ切り出そうかとのびのびになってしまった話を切り出した。
「母さんをこっちに連れてきて、一緒に暮らすというのはどうだろう…」
孤独から助けたい。これは嘘じゃない、が、踏み切れない部分も私にはあった。
「え 急に言われても…このマンションに?」
「うん 母さんも高齢だし…。菜摘の親のことも判ってる。まだ決定じゃないんだし、気持ちだけ聞いてみただけだよ」
「そりゃ廣の気持ちも判るけど…」
ここは察するべきだ
「うん だから僕も悩んでいるんだ。確かに愛媛で独居かもしれないが、高齢で住んだことも無い、友達も知り合いもいないこっちは違う孤独になってしまうから」
妻に僅かに拒絶の色が見えた。当たり前だ。この時点で見えるのなら、受け入れがたい提案であるということだ。
「それに多分、母さんも嫌がる話だよ」
なんとなく空気が重くなり、それ以降の料理の味を思い出せなかった。
ある日の昼休み、廣は母に電話をかけた。アパートの売却と、東京での同居を提案するためだった。
「母さん、アパートと爺さんの家の件なんだけど、やっぱり売却を考えた方がいいと思うんだ。それと、もしよかったら、こっちで一緒に暮らさないか?一人でいるのは心配だし…」
母は、一瞬沈黙した後、いつもの明るい声で答えた。
「あら、いきなり何を言い出すんね。アパートはね、税理士さんやら色々ようやってくれとるけん大丈夫よ。お母さんはここでずっと暮らしてきたんやけん、離れては暮らせんよ。友達もみんなここにおるしね。それにあんたらが引退して帰りたい思うた時に帰る場所が無かったら困るじゃないね。」「心配せんで大丈夫よ、あなたのお母さんは強いんやけんね。」
廣は、やはりそう来るかと内心で呟いた。予想通りの返答だったが、落胆がないわけではない。
「そうか…無理にとは言わないけど、いつでもこっちには来れるからね。」
電話を切った後も、廣の胸には重いものが残った。母の言葉の裏には、父が守ろうとしたものへの強い思いと、廣には計り知れない故郷への愛着があるのだろう。そして、もし無理に連れてきたとして、母が東京で幸せになれるのかという不安も。理解はできるが、この問題は一筋縄ではいかない。父が長年目を背けてきた問題は、やはり廣が背負うにはあまりにも重い。漠然とした不安は常にあったものの、日々の忙しさがその感情を覆い隠し、具体的な行動への障壁となっていた。ここは愛媛ではないのだ。
その夜、東京の自室で、廣はソファに深く身を沈めていた。愛媛での日々を思い返しながら、頭の中では様々な情報がぐるぐると渦巻いている。アパートの問題、父の抱えていたであろうストレス、
もしあの時、伯父に会わなければどうなっていたのだろう。もっと言えばあの日、たまたま佳子さんにお土産を頼まれなかったら……。
「たまたま?」
廣は思わず声に出して呟き、そして一人、笑いが出てきた。
まさか。いやきっと、伯父が仕込んでいたんだ。でなければ、実家の片づけがたまたま父の葬儀にあたるわけがない。本当にたまたまなら、通夜にも参列するだろうし、喪服を準備して実家を片づけに来る人間はいない。しかも親の従姉妹の、海を挟んだ遠方での葬儀だ。参列しなくても何もおかしくない。
きっと孝さんだ。孝さんが伯父に父の葬儀を伝えたのは本当だろう。その時、伯父が孝さんに頼んで佳子さんを呼んだため、通夜には間に合わなかった。その結果、伯父とうちへのお土産が二つになった。
佳子さんはきっと知らされていない。孝さんと伯父さんだけが知っているのだろう。早々に孝さんと連れ立って消えたのもそのためだ。お土産を渡されたり、お礼を言われたりしたら困るからだろう。
温泉宿の料理だってそうだ。頼んだからと言って、急に夕食を追加用意できるわけがない。もしかしたら毎日、料理を追加注文していたのかもしれない。急いで色々話すわけだ。
伯父はそこまでして伝えたかったのか。何してんだ、伯父さんは。私が郵送するとか考えないかな普通(笑)
母の言葉が蘇る。「小さい頃は仲が良かったらしいよ。おばさんらはみなそういうね」
きっと伯父は不動産の処分か建て直しを早くから言っていたのだろう、回りくどく。でも父の心理状態では嫌味にしか聞こえなっかたはずだ。
30年伝えたかったこと、やっと私に伝えたということか。
追い詰めてたわけじゃ無い、
本当に不器用で嫌味な人だ。
決めた。私の覚悟は決まった。正も負も全部ひっくるめて未来を作る。
父さん。そこにいるんだろ?係長の父さんも、管理職の父さんも、アパートを持ってる父さんも、持ってない父さんも。激しすぎる兄弟げんかをした父さんも、全部私の大好きな父さんだよ。
そしてみんな大事な私の親族だ。
終了
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