4章 最終日
翌朝。
リビングに入ると、コーヒーの香りが漂っていた。トースターからはパンが焼き上がる音。パンとコーヒー、そしてジャムはマーマレード。サラダとベーコンエッグが食卓に並ぶ。いつもと変わらぬ最後の朝。今日は午後から自宅に向け出発する。アパートと祖父の実家。懸念はあるが時間がない。アパートは母の判断に任せよう、提案はさせてもらう。実家は…売却を提案しよう、電話で。アパートの件の目途が着いてからだな。
母が父の物を片付けていた。何気に手伝う。きれいに整理整頓。ふと現役の時に使っていた銀色の社章と名刺の残りに気がついた、父のだ。自慢の会社名と所属 肩書は係長。
「父さん 係長だったんだ。」
「そうよ。課長にはなれんかったんよ。悔しかったみたいやね。」
結構な話だと思うけど母は意に介してない。
「情けない。って?」「そうそう」「情けないってのはこの家の口癖?」「なんで?父さん以外からは聞いたことないけどね」
あれ?違和感。伯父はなんで父だけの口癖知ってたんだ?小さい頃から言ってたの?高校生が言うかな?情けないを…
「廣、明日から仕事なんでしょ?忙しいんじゃね」
「そうだね。でも好きで選んだ仕事だからね。楽しんでるよ。父さんもそうだったでしょ」
「お父さんは、おじいちゃんに言われてあの会社に入ったんじゃけんね。楽しいっちゅうのとは、また違うんやないんかな」
「へえ 初耳。知らなかったよ」
あれ あれ
伯父の『わざわざ会社の自慢話をしてた』が浮かぶ。好きでもない仕事の言われて入った会社を自慢。『コネで入社して威張ってるやつ』父のこと? 違和感がある。
父は、優しい父だった。中学の頃からすこし怒りっぽくなり「情けない」「うるさい 黙れ」が耳につくようになった。父が俺くらいの頃。
『廣も、その立場ならわかるだろ。今はもう勘弁してやれ。』伯父の言ってた私の立場というのは43歳の子供の立場ではなく、プロデューサー 普通の会社でいう上級管理職のキリ辺り、一応出世頭。の立場のことだったのかしら…
「え、どういうこと…」
廣の頭の中で、バラバラだったピースが急に繋がり始めた。自分が働く会社が実力主義が強い社風で、多くの先輩、同期、後輩がその競争から振り落とされていくのを目の当たりにしてきた。中途で入ってきた実力者に、自身のキャリアが打ちひしがれた経験もある。父はどうだったのだろう。親や周囲からは「上場会社勤務」と持ち上げられ、それを内心自慢にしてきた父。しかし、社内では、考えたくはないが特徴のないゼネラリストで終わってしまったのではないか。少なくとも会社はそう判断していた。
ゼネラリストであること自体は悪いことではない。むしろ、一般的には上級管理職や役員にはスーパーなゼネラリストであることが求められる。だが、父はそうではなかった。看護師というスペシャリストである母には、その葛藤は理解し難かったかもしれない。廣自身もスペシャリストに近い立ち位置にいながら、ゼネラリストの一面も持つため、父の苦悩が少しだけ理解できる。家族のため、周りの期待に応えるため、父はそのギャップを埋める為、自分の本当の感情を押し殺して生きてきたのではないか。
父の生き方は、自由を愛し、常識に囚われない伯父とは、絶対に相容れなかっただろう。
むしろ憎かったろう。認めることは父自身の全否定でもある。伯父が成功していたことなど、父には絶対に認めることなどできないことだったのだ。今ならわかる。だから、伯父は成功を隠していたのかも。伯父が語った父への恨み節の裏には、隠さねば成立しない脆い家族関係があったのだ。伯父にはそれが本当に大事にだったのだろう。だからそれを壊そうとするものは絶対に許せない。
父には父自身の深い苦しみと、伯父とは違う孤独があったのかもしれない。それは相当なストレスであったのだろう。それ故に理解していても祖父の遺産を売却することはできなかった。遺産の売却は父のプライドの売却と同義であったのだろう。ストレスがストレスを生む悪循環を毎日毎日重ねてきたのだ。伯父の言う父のストレスの本当の正体はこれではないのか。
で、あるのなら
伯父は判って父を追い詰めていたのか。
多紀さんを世話していた伯父。
父を追い詰める伯父。
答えを出すには、まだ足りないピースがあるはずだ。今頭に浮かぶ答えは怖すぎる。そんなことあっていいはずが無い。
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