3章 佳子
スーパーを出て実家に戻ると、母は早速、台所で腕を振るい始めた。佳子さんも手際よく手伝っている。私も手際よくテレビの前に陣取った。あっという間に食卓には、煮物や和え物、魚の煮付けなど、素朴だが温かみのある料理が並んだ。実家ならではの夕食。それが今は、何よりも贅沢に感じられた。
「佳子ちゃん、大分とこっちと、色々大変やろ?」
母が気遣わしげに尋ねた。
「はい。地図では海挟んで直ぐですけど、結構遠いんですよね」佳子さんは小さく息をついた。
「そうねえ。近そうだけど行ったことないもんね」母はそう言って、廣の方をちらりと見た。「でも、おばさんも廣さんの顔を見れて、安心されたでしょう?」佳子さんが廣に優しい目を向けた。 「そうだといいんですけど」廣は苦笑した。
佳子さんは祖父の兄弟の孫、父の従姉妹の更にその子になる。結婚するまで隣町に住んでいたはずだ、年齢的には佳子さんが父母と近く仲が良かったと聞いている。今は結婚し大分。
食事の間、佳子さんは祖父(廣の祖父)の思い出や、小さい頃佳子の兄義雄と一緒に父と伯父と遊んだ思い出を語ってくれた。佳子さんは私と父との丁度間になる年代だ。その頃は地元に多くの親類縁者がいて、ことあるごとに集まっていて賑やかだったと聞いたことがある。年始などお年玉がすごいことになっていたと父から聞いている。なにせ人数が違うので、休み明け学校で友達と話が合わなかったらしい。廣が知る頃には親戚付き合いもそこまででは無かった。祖父母とごく近い親類、伯父伯母くらいか。充分友達と話が合った。
話は伯父にまで及んだ。
佳子さんの父は早くに亡くなり、母、多紀は女手一つで二人の子供を育て上げた。長男は仕事で兵庫に。佳子が結婚し愛媛を離れてからは、子供の世話にはならない、と独り暮らしをしていたのだが多紀さんが70を超えたころから、少しおかしなことを言うようになり、ふと姿を見る事がなくなった。母は施設に入ったか子供の所に行ったかと思っていたらしい。
何が原因か判らないが急に認知が進み、警察の厄介になるようになった。それを聞きつけた兄良夫が嫌がる多紀を兵庫に連れ帰った。ということだった。
「あれ良夫さん、離婚して独りじゃなかったっけ?」母が首を傾げる。
「うん。小さな独身用のコーポに住んでいたんで空いていた隣の部屋も借りて母をそこに住ませてたの」
「私も慌てて兵庫に行って、行政とか介護や医療の手続きしたり大変だった」
「介護って?そんなにひどかったの?」
「脳に委縮があるってお医者様が… 私は夫の親と同居だし何もできなくて…」
隣で母の申し訳なさそうに肩を落としている。昔話だよ母さん 落ち着いて。
「そんな時伯父さんから連絡があって。ほら保険を伯父さんから入ってたから」「それからちょくちょく顔出してくれたり、母を食事に連れ出してくれたりしてくれてて…」「知らない場所で心細いだろうって」
「兄がね。母が携帯電話を壊すからって、取り上げたのね。本当に壊したり、色々するから仕方ないんだけど」「そしたら伯父さんが『そんなことしちゃ駄目だ!孤立させちゃいけない』て言って兄に内緒で伯父さんの電話で私に電話かけてきてくれたりしてたの。本当に、母は喜んでいたと思うし、私もうれしかった」
廣が抱いていた伯父のイメージとは異なるものだった。自らの親の介護には一切手を出さなかった伯父が?にわかには信じられない。伯父の複雑な人物像が、また一つ廣の中で形成されていく。彼は一体、どんな人なのだろう。善人なのか、悪人なのか、それともその両方なのか。
夜も更け、佳子さんが帰った後、母は廣に向かって言った。 「多紀さんのこと、政夫兄さんが色々助けてくれたんて?知らんかった」
母は、テーブルの上の空になったコーヒーカップを片付けながら、廣にもう一杯淹れてくれた。さして香りもないインスタントコーヒーが、今夜は格別に温かく感じられた。
「口は悪いけど、ほんまは優しいんよね。やっぱりお父さんの兄弟やけんね」
母の言葉は、廣の胸にすとんと落ちてきた。伯父が自分を「悪役」と称したこと、父への恨み節を語ったこと、そして廣の会社の株を持っていることを自慢したこと。それらの言葉の裏に、廣には見えなかった別の顔があるのかもしれない。
廣はカップを両手で包み込み、温かさを感じながら尋ねた。
「母さん、伯父さんと父さんのこと、やっぱり色々あったの?」
母は遠い目をして、ゆっくりと話し始めた。
「お父さんと政夫兄さんはね、小さい頃は仲が良かったらしいよ。おばさんらはみなそういうね」「大学の時にお兄さんが実家の車を勝手に借りたいうて喧嘩になったらしいんよ。お父さん使いたかったらしいわ」「それをお兄さん謝らんかった、どころか覚えても無いのに怒ってね」
「え そんなこと?」些細過ぎる。勝手にといっても爺さんの車借りるのに父さんの許可は要らないだろ、普通。お父さん、何してくれてるの、
「兄弟っやけんね、そんなもんかもしれんよ」「そっからはもう駄目ぞな。お母さんが生きとった時は、まだえかったんじゃけどね。その時もね…」
そうだよね。それだけじゃいくら何でも。だよ。
「お母さんの最後の最後の治療やなんやかんやをお兄さんとお父さんが話して決めとったんよ。お父さん『おらんもんが何いばりょんぞな』いうてね」
ま 配慮が足りないと言えばそうなんだけど、私はどちらにつく気にもならないな。
「それでもお爺さんが生きとった時には付き合ようたんじゃけどね」
母の言葉は、廣の知らなかった父と伯父の関係話してくれた。単なる兄弟喧嘩では片付けられない、どうしようもないものがある。
「お爺さんの三回忌が終わったら、お父さんからお兄さんに『もう縁を切る』って言うてしもうたんよ。」
父さんそこまで追い詰められて…崖飛び降りたんだな。でもそれは逃げだよ。
「お兄さんはちっとも気にしとらんみたいやけど」「男兄弟いうんは、どうしようもないんよ。お母さん諦めたもの」
「父さんから…」「それでも、政夫兄さんが佳子ちゃんのお母さんを助けてたって聞いて、ちょっと驚いたよ。僕には、伯父さんがそんなことする人だとは、正直思えなかったから」
廣は率直な気持ちを口にした。母は少し微笑んだ。
「あの人はね、いらんことは何でもよう喋るのに、いることは何にも言わんのよ。」
「爺さんに似てるとこあるね」
「そうじゃね。似とったんかもしれんね。」
「母さん 爺さんのことも伯父さんのことも苦手だろ」
「そがなことないがね」
母は二人が苦手だ。間違いない。前々からそうだろうなと思ってたけど確信した。そして伯父も判ってた。なるほど心安くない免許持ちとは母のことか。
廣は、目の前のコーヒーが冷めていくのを忘れ、母の言葉に耳を傾けていた。伯父が示した「正」と「負」の継承という言葉が、この夜、彼の心の中で、より深い意味を持つようになった。父の抱えていた問題、母の苦労、そして伯父の複雑な人間性。これら全てが、廣がこれから背負っていく「どこにでもある家族」の姿なのだ。
「明日はもう帰らないと。母さん大丈夫」
「大丈夫よ。任せときさい、あんたのお母さんは強いんじゃけん」
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