3章 母と

3章

「ただいま」

 やっと解放され、実家までたどり着くことができた。疲れは肩を通り越して足まで来てる。伯父の言葉が、まだ頭の中でぐるぐると渦巻いていた。「正」と「負」の継承、そして「父のストレスとは一体何だったのだろう。なぜ、今、私にそれを伝えるのか……」。その答えを見つけるには、まだ時間がかかりそうだった。


「お帰り、遅かったね」

「よく喋るね、伯父さん。伯母ちゃんもおしゃべりだったけど、それ以上だよ」

「そう、たいぎゃじゃったねぇ…食事は…」

「ごちそうになった。」

明らかに母の顔色は良くない。

「自慢話と恨み節を聞かされたよ。なんか疲れた」

「お父さんとは、色々あったけんね…。コーヒーでも淹れよか?」

母は慣れた手つきでコーヒーを淹れてくれた。さして香りも無く、美味しくもないただのインスタントコーヒーが、母が入れると実家の郷愁味に変わる。温かいカップを両手で包み込むと、温かさがじんわりと指先に広がる。美味しい。伯父の話は頭の隅に追いやっていたが、テーブルに置かれた税理士から渡された封筒が、現実を突きつけ、ため息を誘った。

「母さん」

「ん?」

「税理士さんから貰った書類。このままだと、何が何だか分からなくなりそうだ」 母は小さく頷いた。

「そうじゃねぇ。お父さんが元気な頃から、ずっと大変じゃったけんねぇ」

「この際だから、一度、しっかりリストにして整理しないといけないんだよね?何がどこにあるか、何がどうなっているのか、僕もちゃんと把握しておきたい」

「そうしてくれると助かるんやけど。あんたにできるんかね? 把握いうほどあらへんのよ。」 「こっちに居れるのも明後日までだから、出来ることはしておくよ」

「時間がないね。せっかく愛媛に帰って来てくれたのに、ゆっくりもさせちゃれんで、ほんまにごめんね。」

 母の疲れた横顔。まだ父が逝って何日も経っていない、気分が良いはずがない。伯父の言葉が蘇るが、見当違いであることを願う。

 母はコーヒーカップをテーブルに置き、少し遠い目をした。

 伯父の言葉の裏にあった「負」の側面が、ここにもあるのだろうか。しかし済んでしまったことへの安堵のような感情が混じっているように感じる。それだけのことがあったのだろう。

 廣は、母の言葉の奥に隠された真実を探ろうと、さらに問いかける。

「あの、税理士さんも言ってたんだけど、相続税がかかるかもしれないって。父さんに負債はないはずだけど、アパートの部屋もいくつか空いてたし……」母の表情が、わずかにこわばる。

「そうねぇ、アパートのことは、お父さんが元気な頃から、色々大変じゃったけんね。修理費もかかるし、なかなか借り手も見つからんで…。」 母は、具体的な数字は言わないが、その口調からアパート経営が順調ではなかったことがうかがえた。父の羽振りが良かったという記憶と、目の前の現実との乖離に、廣の心には漠然とした不安が募る。

「じゃあ、このリストを作る時、アパートの収入とか、修繕費とか、そういうのも詳しく聞いていい?」

「ええよ。税理士さんがまとめてくれとるけん、それ見たら分かると思うよ」

 母はそう言ってくれたものの、その声には疲労が滲んでいた。廣は、これまでの自分が、いかに父と母の抱える問題に無関心だったかを痛感する。そして、伯父が言っていた「正」だけでなく「負」も背負うという言葉の意味が、少しずつ、しかし確実に、廣の心に重くのしかかってくるのだった。

「アパートは爺さんからの相続だよね。これで全部?」

「そうだよ。アパートとお爺さん家とこの家の土地を引き継いだんよ」

「お爺さん他は持ってなかったの?」

「それだけやけど、それがどないかせたん?」

伯父の言ってた全部父が引き継いだというのは本当だったのか…。


「いやね、伯父さんは、相続したものが、いくつか違和感があるって言ってたんだ。その一つが、そのアパート」 母は眉をひそめた。

「あのお兄さんは、いっつもそじゃけん。昔から、人の気にすることばっかりゆうてからに…」

母は話を逸らそうとしている。しかし、私はこの問題を避けて通るわけにはいかないと感じていた。父が抱えていたであろうストレス、そしてそれを受け継ぎかけている母の姿が、目の前にあったからだ。

「伯父さんには散々自慢話を聞かされたよ。詳しく話そうか?」 「ええけん、聞きたないわい」 「だろうね」

「ほーいやこれ、税理士さんがこさえてくれたがよ。」ドン、と封筒の束を渡された。これを見るのか…。

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