虚無告解：啓示編

第3話 夢醒の刻 下

　——「私？誰？」

　——「私…何？」

　——「何が…私？」

　——「なぜ…私？」

　- 締詩沫暦-1018年12月8日-冬-国区北東国境の村落

　早朝、少年が目を開ける前に、窓の外の小鳥が早々に枝に登り、降り注ぐ陽光と共に舞っていた。続いて老婆がそっとドアを開ける音が、部屋を包む静けさを破った。

　「暁宇（シャオユイ）？起きたかい、朝ごはんよ」

　「はあ…朝か…」

　少年は眠そうな目をこすり、背伸びをしてあくびを一つした。立ち上がるとき、ついでに昨日少女の手にかけた結び目を注意深く確認した。

　「うん、切れてない。どうやら考えすぎだったな。外でご飯を食べよう。いつ目を覚ますかわからんが」

　……

　——「痛い…」

　……

　家の中で、老婆と少年が朝の食事を楽しんでいた。お粥にはさいの目に切った大根と細かく刻んだ青菜が混ざっている。どこか見覚えが、ああ、昨日のあの栄養粥だ。

　「ヨー婆さん、影（イン）は？まだ寝てるのか？」

　「彼はもうとっくに出かけたよ。何か調べるって言ってた。ぼーっとしてないで、温かいうちに食べなさい」

　——「何か調べる？まだ何が——」

　彼は昨日慕影（ムーイン）との会話を思い出した。

　——「ああ、端末か」

　朝食を終えると、老婆は相変わらず一人で家の中を掃除し、暁宇（シャオユイ）は昏睡状態の少女のそばで見張りを続けた。

　「うん…そうだ、感染症なら医者を呼ばなきゃ——」

　暁宇（シャオユイ）が立ち上がろうとしたその時、一対の目が自分を見つめているのに気づいた。

　その目は透明でありながらも真っ黒で、光がこの瞳から逃れるのは難しいようだった。右目は人間には非常に珍しいが、他の種族ではよく見られるエメラルドグリーン。もう片方の目は巨獣の体でしか見られない血のような赤い瞳だった。

　少女は微動だにせずベッドに横たわっていたが、その視線は少年をしっかりと捉えていた。少女の負けず嫌いなまぶたが垂れ下がり、その視線は非常に散漫で疲れているように見えたが。

　彼は驚かされた。前回これに似た目を見たのは、数年前、街の本部の地下牢で一度だけだった。それはあらゆる苦しみを経験し、すべてを失い、体の中に憎しみの二文字だけが残った人間だけが持つ目だ。

　しかし次の瞬間、少年は見間違えたと思った。なぜならその翠の瞳の奥には、まるで世界全体に対する好奇心が透けて見え、体とは全くそぐわない無邪気さ、春の訪れとともに土から顔を出す新芽のような生命力が漲っているように感じられたからだ。

　「…一体……」

　彼が反応する間もなく、ドアが勢いよく押し開けられた。入ってきたのは少年の見慣れた姿で、後ろには白いローブを纏い、顔を覆った人物がついていた。少年は知っていた。前回この姿を見たのは、彼が初めて結晶化感染症に感染した時だ。

　「ん、ちょうど目が覚めたようだな。医者、診てくれ、ベッドにいるあの娘だ」

　白ローブの医者が進み出て、ベッドの傍にしゃがみ込み、注射器を取り出して少女の青白い手に優しく熟練した手つきで暗赤色の血液を採った。続いて、少女の頬の横から首筋にかけての黒い結晶塊をそっと切り取ろうとした。

　医者が診察している間、慕影（ムーイン）は薄灰色の鉄板を、そばで医者を見ている暁宇（シャオユイ）に渡した。

　「ほら、彼女が住民リストにいるか調べてみてくれ。俺は相変わらずこいつを起動できなくてな」

　「朝っぱらからこの二つの用事を済ませに走ったのか、勤勉だな」

　少年が石板を受け取るとすぐに、画像を表示する術式のホロスクリーンが現れた。

　「朝食は済ませたか？台所に残りの栄養粥がある、腹が減ったらよそって食え」

　「ああ、朝から走り回ってちょうど腹が減ったところだ」

　そう言うと、慕影（ムーイン）は部屋を出ていった。暁宇（シャオユイ）は薄青い端末の画面で、少女に似た人物を調査し始めた。

　……しばらくして……

　「本当に…奇妙なサンプルだ」

　疑問は目の前の医者からだった。彼は試験管の中の黒い血液を揺すり、何かを見出そうとしていた。

　「どうしました？何か異常でも？」

　暁宇（シャオユイ）もちょうど調査を終え、端末を脇に置き、立ち上がって医者のそばに歩み寄った。

　「見てくれ、このサンプルは、宿主から完全に分離した瞬間、粉々になって跡形もなく消えてしまう。私が今まで見てきたどの患者とも違う。人間の結晶化感染症の歴史で、このようなケースは感染した精霊の死体でしか見られず、人間の生体で見るのはこれが初めてだ」

　「特殊症例か…彼女…あとどれくらいの時間がある？薬は処方できるか？」

　「できる。私の薬があれば、多分六、七ヶ月は持つだろう。だが彼女の体の傷はどうしようもない。さっきも術と薬水を試したが、物理的手段も術的手段もこの傷には全く効果がなく、癒える気配すらない。ただ、城内にあるあらゆるものを癒す聖泉を借りることができれば、治癒の可能性はあるかもしれない」

　「だが我々に聖泉を私的に借りる資格はない」

　「それなら残念だ。傷の痛みに耐えるためには、私が処方する精神麻痺薬を飲みながら、術式包帯を巻いて治療するしかないが、この療法も良くなる保証はない」

　医者は少女の包帯を終えると、薬を傍らに置いた。

　「とにかく、私のアドバイスを聞いてくれ。この個体は本部に報告した方がいい。独断で動くな。歩く感染死体は君たちが思うよりはるかに危険だ。君たちが猟兵であろうと、感染による幻覚や意識侵食はそう簡単に対処できるものではない。次の瞬間に彼女が発症し、狂乱し、幻覚に囚われた君たちを殺すかもしれない。この薬は一日三粒、食後に湯呑みで飲む。服用方法は薬箱の中にある。では、失礼する」

　医者は端末を持ち去り、部屋を出て行った。沈黙する少年を一人残して。

　「……」

　ドアの外で慕影（ムーイン）と医者の話し声が聞こえた。続いて慕影（ムーイン）が一碗の粥を運んで部屋に入ってきた。

　「状況はだいたい把握した。で宇（ユイ）、端末で彼女に似た者を見つけたか？」

　「いない。端末の住民リストも患者リストにも彼女の姿はない。完全に未登録の患者だ。彼女は今起きている、少し事情を聞いてみないか？」

　「そうだな」

　慕影（ムーイン）は碗をベッドサイドのテーブルに置き、椅子を一つ持ってきてそばに座った。暁宇（シャオユイ）は非常に分をわきまえて、昨日彼が寝ていた場所――窓際の椅子に座った。

　「自分の名前を覚えているか？どこから来た？なぜ感染した？なぜ国境線の近くにいたんだ？」

　一連の質問が慕影（ムーイン）の口から飛び出した。だが次々と続く質問は、彼の少なからぬ緊張を反映していた。緊張している時だけ、彼はこれほど多くの質問をするのだった。

　なぜ緊張するのか？彼自身もよくわからなかった。その瞳を見つめるだけで、かすかで、寒気を覚えるような気配が漂うようだった。

　少女は無意識に口を開こうとしたが、突然気づいた…彼女は理解できない。慕影（ムーイン）の投げかける質問が理解できない。そもそも、目を覚ましたその瞬間から、彼女は一言も理解できていなかった。彼女の目には、ぼんやりと青い影と紫の影が一つ見えるだけだった。今彼女の口から出るのは、赤ん坊のような不明瞭な声だけだった。

　「あ…や…わ？…」

　まるで喃語のようだ。

　「……」

　慕影（ムーイン）が振り返り、少し得意げだった。

　「後で100メイタを渡すのを忘れるなよ。俺の勝ちだ」

　「本当に何も覚えていないのか…」

　「ム…イン？」

　声が少女の方向から聞こえた。慕影（ムーイン）が振り返ると、少女の困惑した表情と、話そうとする努力が見えた。

　「シ…ャオ？」少女は無力に慕影（ムーイン）の後ろにいる暁宇（シャオユイ）を指さした。

　「シャオ、シャオ・ユイだ。俺の名前は暁宇（シャオユイ）、彼の名前は慕影（ムーイン）。自分の名前を覚えているか？」

　「シャオ…ユイ」

　「自分のことも忘れているだけじゃない。話し方、考え方すら忘れているのか？まるで赤ん坊だ。さっきまではまだできなかったのに、今は一、二字読める。演技か？…ちっ、彼女に付き合う時間は我々にはない。南西部地区に出た巨獣も解決しなきゃならない。どうする、慕影（ムーイン）？」

　暁宇（シャオユイ）が慕影（ムーイン）に問いかけた。隊長が明確な指示を出すのを待っていた。

　「数日だけ滞在しよう。南西部の件を片付けてから戻ってくる。彼女の様子を見るんだ。どうしようもなければ、ここに置いて行く」

　慕影（ムーイン）と暁宇（シャオユイ）が部屋を出ようとした。

　「宇（ユイ）、彼女にトラッカーを仕掛けておけ」

　「とっくに仕掛けたよ」

　「では、何か思い出すことがありますように。そばの碗の中のものは食べられるものだ。『食物』という。お腹が空いたら食べろ。ああ、食べ終わったら白い箱の中の薬を一粒飲むんだ」

　そうして二人は去り、ドアを閉めた。

　「これで本当に大丈夫なのか？彼女は言葉すら理解できないんだぞ？」

　「うん…婆さんに念を押しておく。食事に問題がないように。薬は一粒だけ箱の中に残してある、残りはここだ」

　慕影（ムーイン）は白い箱を取り出した。中には小さな黒い錠剤が詰まっている。

　「こうすれば、一つには彼女が記憶喪失を演じているかどうかがわかる。二つには彼女の健康を確保できる。三つにはもし本当に記憶喪失なら、思考能力を促進して、何かを思い出す助けになるかもしれない。行こう、外に出てみる」

　田舎の風は優しく、森の香りを運んでくる。真冬で気温は低いが、雪は降っていない。二人は家の外で静かに待っていた。

　「何を待っている？」

　「手紙だ、そろそろ来るはずだ。ほら、来た」

　暁宇（シャオユイ）が慕影（ムーイン）の指さす方向を見ると、白い輪郭が羽ばたきながら近づいてくる。足には紫色のリボンが結ばれている。

　「杏沢さん が直接届けに来ないのか？何の手紙だ？南西部地区の巨獣か？」

　「ああ、情報を受け取ったらすぐに彼女に調査を頼んだんだ。何もわからずに飛び込むわけにはいかないだろ？もし見当違いだったら、あまりにも割に合わないからな」

　白い鳥が慕影（ムーイン）の頭に止まった。彼は足に結ばれた小さな筒から白い手紙を取り出すと、白鳥は元の道を飛んでいった。

　「やっぱりこの鳥の着地の仕方は好きになれないな」

　慕影（ムーイン）が手紙を開いた。

　「どうだ、何て書いてある？」

　「うん…『親愛なる慕影（ムーイン）へ』…彼女ったら…本当に手を焼くよ。巨獣…ん、俺の予想と大差ないな。誰かビクビクした奴が巨大な影を見て、巨獣が来たと騒ぎ出したんだ。実際は夜の山肌が落とした影に過ぎない。俺の推測じゃあの奴、酒でも飲んでたんじゃないか？そうでなきゃ間違うはずがない」

　慕影（ムーイン）はからかうように言い、手紙を二つ折りにしてポケットにしまった。

　「巨獣がそこら中に現れるわけがない。国外ならともかく、国内まで。人心を惑わす、半分はこういう連中のでたらめな噂だ。結局、面倒をみるのは俺たちだ。まったく、聖輝教（せいききょう）の護国結界（ごこくけっかい）が役に立たないと思ってるのか」

　「つまり、数日後まで出発しないってことだな」

　「ああ、その頃にはちょうど本部に戻る。お前の杖も最近しばらく手入れしてなかったろ？昨日見た感じ、術の安定性が以前より少し落ちてた。本部に戻ったらまたグロムに調整してもらえ」

　「それは構わないでくれ。俺の杖は俺が面倒を見る。術の安定性が少し落ちたのは確かだが、杖の問題ではない。術を使う時に息が乱れたんだろう。生まれつき術と絶縁体の奴に術の向上を指摘される筋合いはない」

　「ふんふん、実は俺はグロムに会いに行く口実が欲しかっただけなんだ。お前がそんなに守ろうとするとは思わなかったぜ」

　「ふぅ...、あの巨獣の体内から取れた新素材で作ったやつか？何て名前だっけ？『意識性夢属結晶（いしきせいむぞくけっしょう）』、覚えにくい名前だな。どうした？師匠からもらった刀が切れなくなったのか？」

　「刀自体はまだ鋭いが、見てみろよ」

　慕影（ムーイン）が手のひらを広げると、皮膚の下に、かすかな血の筋が刻まれていた。

　「グロムの言う通りだ。年を重ねるにつれて、この刀と俺の相性はどんどん悪くなっている。使い続ければ、感染の速度を早めるだけだ」

　「…新刀、名前は考えたか？」

　「まだ何も思いつかない。戻ってから姿を見てみるつもりだ。その時になれば、いい名前が思いつくかもしれない」

　慕影（ムーイン）がそう言いながら、無意識に胸のネックレスを握りしめた。暁宇（シャオユイ）は慕影（ムーイン）を見つめ、少し沈黙した。目の前の男は幼い頃から自分と共に育ち、影のように離れず、息の合ったコンビを組んできた。記憶の中、彼らの師匠――プロナス。彼にとって唯一の肉親だった。慕影（ムーイン）がその特異な能力と術への絶縁体質を理由に非難された時も、師匠が彼を守ってくれた。プロナスがいたからこそ、暁宇（シャオユイ）は慕影（ムーイン）と知り合えた。しかし五年前、師匠は病のために永遠に彼らを去った。師匠から託されたこの剣と、彼が胸に下げる獣牙のネックレスは、この五年間、師匠を思い出せる唯一の形見だった。

　彼は親友の肩に手を置き、少しでも気が楽になればと思った。

　「その時は一緒に見に行くよ。もちろん、前提としてお前がまたグロムと遊びに行こうとしないならの話だが」

　「あはは、見抜かれたか！それは遊びじゃないぜ、いや違う…うん、その時は一緒に見に行こう」

　二人は顔を見合わせて笑った。かつての何度もそうしてきたように、互いを理解し合って。

　一方、部屋の中の少女は困惑し、考えていた。彼女は脳内でさっきぼんやりと得た情報を整理していた。彼女は漠然と一つの結論に達した。

　——「食（た）べる」

　これは彼女が自主的に掌握した最初の意味のある言葉だった。だが、何を『食べる』？少女は再び困惑に陥った。彼女はテーブルのそばにある栄養粥を見た。

　「食（た）べる？」

　少女は首をかしげ、試しに手を碗に触れてみた。するとすぐに熱い碗の側面に触れて手を引っ込めた。

　——「痛い！」

　なぜか、脳内にそのような概念が浮かんだ。同時に、これが彼女が理解した二つ目の意味のある言葉でもあった。だが少女はまだ理解していない。彼女は再び挑戦した。今度は、手を碗の上半分に置いた。だが熱くて手を引っ込めることはなく、むしろひんやりとしていた。少女はこのように一歩一歩試しながら、学びながら、碗を捧げ、美味しい食べ物を『食べた』。

　——「！」

　彼女は未知の感情を感じた。人間の言葉で、これは『喜び』と呼ばれるものだ。

　少女は驚いた。そして、もっと多くのものを『食べ』ようと試み始めた。しかし彼女は気づいた。食べられないものもある。

　茶色くて硬いものは基本的に食べられない――それは実は木の板だった。

　柔らかくて白いものも食べられない――それは布地だった。

　少女はこのように試行錯誤しながら、多くのことを学んだ。最後に、一つの感情が彼女の脳裏に浮かんだ。

　——「？」

　疑問、不可解。なぜ食べられるものと、食べられないものがあるのか。少女は好奇心に駆られ、もっと知りたくなった。

　彼女はベッドから降りたいと思った。だが気づいた。彼女にはそれができない。足の傷は、大きく動くたびに、ゆっくりと裂け始める。『痛み』の感覚が彼女の心を直撃する。

　彼女は少し休んだ。しかし好奇心に駆られ、再び挑戦した。同じ感覚が彼女を再び止まらせた。少女はまだ諦めず、ゆっくりと、ゆっくりと動き続けた。ついに毛布を一緒に引きずりながらベッドから転げ落ちるまで。

　少女の手を縛っていた紐が引っ張られた。暁宇（シャオユイ）はすぐに部屋の物音を感じ取り、慕影（ムーイン）と共に素早く部屋に戻った。そしてそこで目にしたのは、無残な光景だった：

　碗の中の粥と薬はきれいに食べられ、薬箱に入っていた白い繊維紙は明らかに引き抜かれてかじられた跡があったが、どうやら食べた人は美味しくなかったので食べるのをやめたらしい。

　そして、毛布を引きずって無様に床に這っている少女。目の端には、ベッドから落ちた痛みでこぼれた涙さえ浮かんでいた。

　（暁宇（シャオユイ））「えっと…これは…。」

／

　（慕影（ムーイン））「…ああ…」

　二人はほぼ同時に呆然とした。床に這う少女は痛みに耐えながら頑強に座り直し、それからゆっくりとベッドに戻ろうとした。だが彼女はまだ『歩く』ことを学んでいないので、この過程は無限に長く引き延ばされた。彼女はついにベッドに戻ることに成功し、ゆっくりと横になり、毛布をゆっくりとかけた。少年たちが去った時の彼女の最後の姿のままで。

　「へへ～」

　この過程で少女は一度ならず痛みで涙をこぼしたが、明らかに彼女は新しいことを試せて楽しんでいた。口元の微笑みは、彼女がそれを楽しんでいることを示していた。

　言うまでもなく、二人の少年は様々な巨獣事件や術式事件を処理してきた。手強いもの、危機一髪を脱したもの、命がけのものもあった。しかし、これほど彼らの想定外の状況は初めてだった。

　普通の赤ん坊は、出自や種族に関わらず、『痛み』の味を経験すると、全力で再び『痛み』に触れることを避けようとする。しかし少女は正反対だった。『痛み』は彼女の新しいものへの好奇心を阻めず、むしろ、痛みを感じるたびに新しいことを学べるという事実が、彼女に痛みに対する全く新しい認識をもたらしたのだ。

　少女は見覚えのある二つの姿に気づいた。以前の落ち着きのなさを改め、おとなしくベッドに横たわって何もしない。ただ静かに二人の少年を見つめている。

　「粥と薬は食べたようだが、この他の状況は…慕影（ムーイン）、お前の策は今回は完全には効かなかったようだな」

　「俺は専門の医者でもない。彼女がどうするかは大体推測できたが、これは…」

　慕影（ムーイン）は少し呆然として少女を見つめた。

　「確かに俺の予測の範囲外だったな。紐は解いてやろう。彼女は本当に何の脅威でもない。それから荷物をまとめて、午後には街に戻る。この子、ここに置いといてくれよ。現地の医者連中には話しといたからさ、もし今後具合悪くなったら、速攻でなんとかしてくれるはずだぜ。そうしないとまた噂が立つ、そんな面倒なことはもうごめんだ」

　紐がゆっくりと消えた。慕影（ムーイン）がベッドサイドに歩み寄り、しゃがんで、赤ん坊のような少女にゆっくりと話しかけた。

　「では、これからはヨー婆さんと仲良く過ごしてくれ。にとって、ここで少しでも学べることはきっといいことだろう」

　「あら？もう行っちゃうの？」

　ドアの外からヨー婆さんの声が聞こえた。午前中いっぱい家の片付けをしたので、彼女の声には明らかな疲労感がにじんでいた。

　「ええ、後で出発します。だから今荷物をまとめているんです」

　外にいる暁宇（シャオユイ）が老婆と話していた。

　「最後に昼食を食べて行かないかい？」

　暁宇（シャオユイ）は元々昼食を残すつもりはなかったが、老婆の願いに少し心が揺らいだ。

　「ん…後でって午後に出発するんですよね。少しだけ長く居ますよ」

　「じゃあ婆さん、ご飯を作ってくるね。暁宇（シャオユイ）も慕影（ムーイン）も、座って休んでなよ」

　時が流れ、真昼の太陽が空の幕に掛かった。ちょうど昼食の時間だ。慕影（ムーイン）は薬を老婆に渡し、簡単に念を押した。その後、二人の少年と老婆は先に言った通り、昼食を楽しんだ後、二人の少年は街に向けて出発し、月が欠け始める頃にはちょうど街の本部に到着する予定だった。

　三人は笑いながら話し、この家で最後に食事を共にするこの瞬間をとても美しいものにした。しかし美しいものは常に突発的な出来事によって中断される。

　部屋の中の少女は、お腹が空いたのか、それとも好奇心からか、いずれにせよ、三人は少女がドアを開け、一歩一歩、よろよろと、よたよた歩いて食卓まで来て、おとなしく座り、彼らの碗の中の食べ物をぼんやりと見つめるのを目撃した。

　部屋で誰にも見られずに、彼女がどれだけ自分で模索したのか、ようやく『歩く』という行為をなんとか習得したのだろう。

　突然現れた少女に三人は一瞬呆然とした。

　「あらま！もう一人分盛るのを忘れてた、ほんと婆さんの記憶力ときたら、もう年だものね。お嬢ちゃん、ちょっと待っててね、食べ物はすぐに持ってくるから」

　老婆は素早く台所に駆け込み、すぐに料理がたっぷりの白飯を一碗、少女の前にしっかりと置いた。

　「さあさあ、お腹が空いてるんだろう」

　少女は目の前のご飯をじっと見つめ、それから慕影（ムーイン）を見た。その視線に気づいた少年は彼女に簡単にうなずき、箸の使い方を実演した。

　少女は慕影（ムーイン）の実演を見ながら、箸を使って食べ物を挟み、口に運ぼうとした。最初の数回は、箸をうまく持てずに床に落としてしまい、拾っては試しを繰り返した。最後の数回でようやく碗の中の肉を箸で挟み、箸の使い方を覚えると、その後は美食の世界に没頭した。

　「学習能力がすごいな。もし学院で真剣に学んでいたら、彼女の実力は俺を上回っていたかもしれない」

　暁宇（シャオユイ）は自分の世界に没頭している少女を見ながら言った。

　「学院を首席で卒業した秀才の輝かしい成績を超えられると思うのか？」

　「わからないよ。何事もわからないことはある。首席卒業の秀才が重用されず、巨獣猟兵みたいな命知らずの仕事をするなんて、誰が予想した？」

　「お前は自ら志願したんじゃないのか？むしろ楽しんでいるようだが」

　「それは誰かの影響を受けたからだよ」

　「それも俺のせいか？まあまあ俺の負けだ、言い負かされた」

　二人が雑談しながら食事を終える頃、ちょうど少女も満足して食事を終えたところだった。

　「自分の名前を思い出したか？」

　この質問は以前にもしたが、まともな答えは得られなかった。それでも慕影（ムーイン）は諦めず、試すように再び尋ねた。

　「名前？」

　少女はあっさりとその二文字を口にした。これに少年は一縷の望みを見た。

　「食う…名前…できる？」

　少女は首をかしげた。明らかに、彼女はまだ「名前」が何であるかを理解していなかった。それは慕影（ムーイン）が垣間見たわずかな希望を再び断たれた。

　「あのさ、お前が名前をつけてやるのはどうだ？」

　暁宇（シャオユイ）がそばで冗談めかして提案した。明らかに場を和ませるための冗談だったが、慕影（ムーイン）は真剣に考え始めた。

　「彼女に名前をつける？...ありだな」

　「...はあ？」

　しばらく経っても、慕影（ムーイン）の頭には目の前の少女を呼ぶのにふさわしい言葉が浮かばなかった。普段、幼い頃の境遇が良くなかったためか、成長してからは巨獣猟兵の仕事をずっと続けていたためか、普段接する女性は衆合部の杏沢がほとんどで、あとは本部の女性メンバーが少しいる程度だったが、せいぜい任務を交代する関係で、普段は雑談すらしたことがなかった。しかも彼自身の猟兵部門は今や二人だけ、様々な理由で彼の頭には女性にふさわしい言葉が全く浮かばなかった。

　「坊やがそんなに悩んでいるなら、くじ引きを試してみる？結構有名らしいよ。結局名前は、その子が何を好きかを見るのが一番なんだから」

　その一言が迷いを断ち切った。慕影（ムーイン）は命の綱を見つけたかのように、興奮して立ち上がった。

　「よし！じゃあくじ引きを試してみよう！」

　そばにいた暁宇（シャオユイ）は頭の中に多くの言葉を浮かべていたが、慕影（ムーイン）が名付ける方が適切だと考えたため、一言も口にしなかった。

　少女は忙しそうに動き回る人々を見て、理解できなかった。だから彼女は動かずに座り、彼らが何をするのか見ることにした。

　しばらくして、少女の前に様々なものが並べられた。皿、フォーク、箸、碗、縄、ろうそく、ナイフ、木片など、様々なものが少女の前に置かれ、彼女の視線はそれら一つ一つを順に追った。それから彼女は手を伸ばして皿に触れ、少女は首を振った。フォークに触れ、少女は一瞬止まったが、やはり首を振った。箸と碗は素通りし、縄の前で止まった。

　それは麻縄だった。最初は屋根裏に置かれていたが、くじ引きの提案が出たことでついに日の目を見る機会を得て、再び誰かの手に握られることになった。少女は手を伸ばし、麻縄の上で止まった。

　もし麻縄に知性があれば、きっと喜んでこう言うだろう。「私だ！私だ！彼女は私を選んだ！」と。だが、なぜ止まったのか？

少女の手は麻縄の上で止まり、彼女の目は麻縄を捉えていなかった。その目は揺らめくろうそくの炎をしっかりと見つめていた。それは『火』と呼ばれるもの。それはとてもまぶしく、とても目を引く、そしてとても…乱れていた。

　この瞬間、少女の目には揺らめく炎だけが残った。

　彼女は炎に触れようとしたが、熱さで手を引っ込めた。しかし以前の経験が少女に教えた。『痛み』は新しいことを知るきっかけになる。

　だから今度は迷わず炎をつかんだ。しかし指の間からは炎が消えた白い煙が立ち上った。少女は手を広げ、何もない手のひらを見つめた。炎が消えたことを悲しんでいるようだった。

　「火を名前にするか？うーん…」

　慕影（ムーイン）は『火』を名前にした話を聞いたことがなかった。少し困っているようだった。

　「前に一字足してみたらどうだ？」

　暁宇（シャオユイ）が簡単に意見を出した。

　「もう一度くじ引きをしろってことか？」

　「坊や、婆さんの言うことを聞いてみなよ。慕影（ムーイン）が名付けるんだから、慕影（ムーイン）の名字と火を組み合わせてみるのはどう？」

　「慕影（ムーイン）、火、慕火（ムーカ）？うーん…いいか？じゃあ慕火（ムーカ）で、どう？」

　少女は理解できなかったが、慕影（ムーイン）が何かを確認していると感じ取り、微笑んで試しにうなずいた。

　「おお、気に入ったようだ。お嬢ちゃんに名前がついたよ」

　老婆がそう言うと、さらには軽く拍手さえした。どうやらとても喜んでいるようだった。

　「はあ...お前に意見を出さなかったことを後悔し始めたよ。まあいい、お前が付けるんだから好きにしろ」

　「では今日から、君の名前は慕火（ムーカ）だ。いいか？」

　「名前？ムー…カ？私？」

　少女は手を伸ばし、左から右へ順に指さした。

　「シーオ、ムーイン、ヨー婆さん」

　最後に自分を指さした。

　「ムーカ？」

　少女は確認した。彼女はあまり理解できなかったが、何かを得た感覚が再び笑顔を浮かべさせた。

　「なんで俺の名前はまた間違えるんだ…」

　「いいさ、俺の名前は正しく言えた、満足だ。慕火（ムーカ）、慕火（ムーカ）、うん、覚えた。で、今何時だか見てみるか」

　少年は大いに時間をかけてようやく少女に名前をつけたが、どうやら少し時間がかかりすぎたようで、中心街行きの馬車は二十分前に出発していた。

　「やばい！間に合わない、早くユイ、行くぞ行くぞ！」

　「お前が夢中になるのはわかってた。外にさっき少し時間をかけて配置した『転移』の術式陣がある。あれで馬車に乗るんだ。まだそれほど遠くには行ってないはずだ」

　「え？さっき？いつ？」

　「お前が屋根裏でガサゴソやってた時だ」

　「ああ、だからあの時お前の姿が見えなかったのか。いや違う、もう時間を無駄にできない、行くぞ行くぞ」

　二人の少年は荷物を持って慌てて外の術式陣に駆けつけた。老婆も名前をもらったばかりの少女を連れて見送りに来た。

　暁宇（シャオユイ）が短剣を呼び出して術を唱えると、地面の術式陣が現れ、ゆっくりと光り始め、回転した。

　「じゃあ、さようなら婆さん、さようならムーカ！」

　慕影（ムーイン）が軒下の二人に向かって手を振った。老婆と少女も手を振る真似をして、また会おうと合図した。すると、術式陣が二重の面に分かれ、互いに反転し、陣内の二人は跡形もなく消え、さっきまで術式陣があった場所は再び何もない土の地面に戻った。

　その反対側で、二人の少年は高空に瞬間移動した。

　「まずい！高度の計算が少し狂った」

　暁宇（シャオユイ）が少し慌てた。

　「しっかりつかまれ」

　二人の少年はさっきの高空から消え、『閃爍（せんしゅく）』で地面に現れた。転送が早かったため、落下の力はそれほど強くなく、二人はそれほどひどくは転ばなかった。起き上がって見ると、地面の轍のすぐ先にゆっくりと進む馬車があった。

　「はっ！間に合った」

　少年たちは前後に分かれて、軽やかに馬車に飛び乗り、荷物を下ろして座り、休んだ。目的地に着くのを待つ。

　「若者よ、次は早めにな」御者が笑いながらからかった。

　「はっはーい、今回はただのハプニングです、次は必ず、へへ、次は必ず」

　「ふっ、元気がいいな。中心街行きだな？」

　「ああ」

　「じゃあしっかり座ってな、結構な道のりだぞ」

　「おっしゃー、親方」

　慕影（ムーイン）が御者にそう言うと、暁宇（シャオユイ）を見た。どうやら一言言いたそうにしていた。

　「どうした？」

　「『転移』の術って結構シュオンを消耗するんだろ？平気で使っていいのか？」

　「申し訳ないと思うなら、本部に着いたらご飯をおごってくれ。足りないシュオンは戻ってくるかもしれない」

　「俺にそんな金は……えっ？」

　「ん？」

　「お前のメイタ貨、百貨はまだ約束通り渡してないだろ？」

　「お前のポケットに入れたはずだ」

　慕影（ムーイン）がポケットを探ると、すぐに固まった。

　「袋に入れて俺のポケットに入れたんじゃないだろうな？」

　「そうだよ？どうした？持ってないのか？」

　「ちっ…屋根裏に置いたんだ。あの時慕火（ムーカ）のくじ引きに使うものを取りに屋根裏へ行って、ポケットから見慣れない袋を引っ張り出したんだが、気にせず床に置いた。どうやら急いで出てきて忘れてきたようだ…」

　「ふぅ…さすがだな、百メイタでたくさん買えるものを。平気で捨てるとは」

　「ああ、まあいい。百メイタは難しくない。なくなったらなくなったでいい。本部に戻って資金分配を申請すればいい。前の巨獣の清算金はまだ降りてきてないんだ」

　「太っ腹だな、さすが隊長」

　「もうからかうなよ。シュオンをそんなに消耗したんだから余計なことを言わず、寝てろ」

　「ふん、お前もな」

　日暮れが次第に山を落ち、馬車の影を長く引き延ばした。馬車の影の下で、疲労に襲われた二人の少年は向かい合って眠り、終点の到着を待った。