白詰草はどう咲くか?
オリゴ糖
プロローグ 平和の将軍
1960年1月16日 午前9時00分
ソビエト連邦 首都ノヴォシビルスク
アレクサンドル・ミハイロヴィチ・イワノフは窓から眼前の銀世界を見つめていた。
折れて庭に横たわる白樺の木は容赦ない雪の白い洗礼を浴びて、冷気は軍司令部の2枚窓のガラスを破り彼の頬を衝き、それとは不相応なほど明るい陽の光がシベリアの粉っぽい雪に反射して彼の目に飛び込んできた。
そしてその強烈な光が彼の容貌を示した。
気概ある締まった表情に、全身に傷跡を残す美しい白皙、その碧眼の瞳孔から放たれる眼光は度重なる受難でこの上なく研ぎ澄まされ、顎から首にかけて、一切脂肪が無いその輪郭は流水に削られた谷ような鋭利な形をしていた。
また右頬から鼻を通って左頬まで繋がる深い傷は彼に艱難の遺産を刻み、彼の瞳と合わさって彼の低身痩躯の肉体とは似つかない、儼乎たる風采を表していた。
彼は暫くの間そこで悠長に感傷に浸っていた。
「今日で15年か……」
彼は小さくそう呟いた。しかしある時ふと我に返り流石に差し込んでくる強い光に目が堪えるのを感じ、目を背けようとした時、聞き覚えのある声がした。
「将軍、失礼いたします。」
その慇懃な言葉とは裏腹に背後にいた青年の顔は真顔で冷たかったが、間違いなく真っ直ぐなものだった。
青年の名はセルゲイ・ペトローヴィチ・スヴァーコフ、士官学校時代には共に学び、その後の軍のキャリアでは彼の副官として15年にわたり苦楽を共にした仲だった。
彼の姿はあらゆる男の嫉妬を買い、あらゆる女性の恋情を買うような上品で美しいものだった。
イワノフよりも人の頭1個分も離れて高い185センチの身長を持つ彼は数年前にデザインが新調されたソ連軍の真っ黒な将校服を瀟洒に着こなし、まっすぐな灰色の瞳でイワノフを見つめていた。
「ああ、ありがとう。今は仕事中じゃないんだから、親友としてもっと軽く接してくれよ。」
その言葉とともにスヴァーコフの顔に宿っていた一片の引き攣りが消えて、リラックスした表情になった彼は満面の笑みを湛えふと悪態をついた。
「……ったく、公私をしっかり分けろって言ったのはお前だろぉ、サーシャ※。」
※ロシア語圏には親しい間柄で相手のファーストネームを愛称で呼び合う文化がある。「サーシャ」はアレクサンドルの愛称形。
「じゃあ今は上司と部下として接してくれて構わないさ。」
イワノフは再び真冬のシベリアの光景に見入った。
「じゃあ、こっちとしても水臭い態度で接しさせてもらうよ。」
スヴァーコフは再び仕事人としての真剣な表情に戻ると続けた。
「ときに中将閣下、こちらをお忘れになっていませんか?」
スヴァーコフが差し出したのは一つの小さなペンダント。鉄鎖に繋がれているのは3つ葉のクローバーをかたどったものである。それを瞥見したイワノフは一瞬のうちに焦ったような表情になって副官に問うた。
「俺がこれを忘れていたのか?」
「ええ。私としても驚きました。私と貴方が知己になった時、その時から貴方はずっとこれを肩身離さず持っていましたからね。
貴方を見ていて思ったのですが、何かしら思索にふけっているようですね。そのためでしょう?貴方がこんな大事なものを忘れるなんて。」
「お見通しだな。流石俺の唯一の親友だ。……少しばかり昔話に付き合ってくれないかい?なんせ今日は俺にとって特別な日だからな。」
「忘れないでください、中将。今日は私にとっても忘れられない日です。」
「そうだったな、セルゲイ大佐。」
「ええ、いい機会です。語り合いましょう。私たちの血に塗れたこの15年間を。」
イワノフは副官から渡されたペンダントをしっかりと首に提げた。
2人の若き指揮官は司令部の椅子に腰掛けると堅い表情を浮かべ、過去に想いを馳せるのだった。
彼らが歩んできた悲劇を、戦場で勝ち得てきた栄光を。そして同時に考えるのであった。
自分たちが目指す理想がいつか叶う日を。悲劇の連鎖を断ち切る日を。
「大佐、知ってるかい?」
イワノフがほんのりと笑った。
「何をです?」
「僕がつけているこのペンダントの花言葉さ。」
「それは勿論。愛、希望、そして信頼、でしょう?」
「御名答。」
若将イワノフは友と過去を語り合うべく回想の中に意識を投げ出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます