月を喰らえよフルヴィトニス

きょうじゅ

月の光はレモンの香り

 お前は月を喰らったことがあるか? 私はある。何度もある。お前だってその光景を見たことがあるかもしれないぞ。人の子はその現象を『月蝕』と呼んでいるのだから。


 名乗るのが遅れたな。私の名はハティ。ハティ・フルヴィトニス。北欧神話の狼神ろうしんフェンリルと、月の狼と呼ばれる女巨人マーナガルムの間に生まれた、北欧の古き神の一柱だ。やがてラグナロクの来たれる日には、月の全てを呑み込んで、天の一角を崩す存在であるとされている。


 だが、それはラグナロクが来れば、の話だ。普段の私は何をやっているかって、いつも月を追いかけて走り回っている。何百、何千、何万という歳月をかけてだ。お前ら人間の時間間隔ではちょっとピンとこないと思うし、具体的に何をやってるのかを直感的に理解するのも難しいだろうと思うから、ひとつ実例を示してやる。


 そのむかし、ローマというところを中心とした巨大な帝国があって、カリギュラと呼ばれる皇帝がいた。厳密にはカリギュラというのは名ではないが、そこは重要じゃない、彼は家臣たちに『月を取ってこい』と命じた。これが重要な点だ。


 その頃ローマではディアーナ女神じょしんという月の女神が信仰されていて、わたしは当時、人間のからだで受肉して地上に生を受け、そのディアーナを祀る神殿に仕える神官をやっていた。ちなみにディアーナは別名を『ルナ』とも言う。ルナが月だというのは今でも変わらんから詳しい説明はいらんだろう、その語源になった神名だ。さて、皇帝が突然『月を墜とせ』と命じたりなんかしたものだから、ディアーナ神殿に仕えるものたちはみんなパニックになった。月を墜とそうなんて真似をしたら女神様が怒るであろうし、でも言うことを聞かなかったら我々は皇帝に殺されるであろう。二律背反、アンビバレントというやつである。


 それでどうしたか。私は人間に化けているだけで正体は神なので、月蝕を意図的に起こすくらいの小技は使えるんだが、神であればこそ月を手に入れることは無理だということも逆によく分かっていた。で、一計を案じた。


 ある日私は皇帝の宮殿に昇り、今日これから月を墜としてご覧に入れます、と奏上した。皇帝が見ている前で、私はハティ・フルヴィトニスの化身としての権能を用い、月蝕を起こしてみせた。で、振り返って、皇帝陛下如何でしょうか、ご満足いただけましたか、と言おうとしたら。


 皇帝は親衛隊長に背中から刺されて死んでいた。


 私の苦労は何だったんだ?


 といったところで、また別の話をする。私は日本にも来たことがある。そのときは仏教の僧をやっていた。小坊主だ。たいして偉くはない。だが、なぜか将軍に仕えていた。なぜ小坊主ごときが将軍に仕えることがあるのかは、難しい事情があるので詳しくは聞かないで欲しいが、ある日わたしは竹で作った槍を振り回して、庭を跳ねまわっていた。すると将軍は言った。


「一休よ。何をしておる?」


 私は答えた。


「はっ。月を取ろうと思いまして」


 将軍は言った。


「そこからでは無理だろう。特別に許可をやるから、屋根に上がるとよい。取れたら分けてくれ」

「ははっ」


 それでどうしたか? どうもこうもない。これも大概な無理難題である。月蝕を起こすばかりが芸でもないので、私は庭の池の水を掬い、鉢に入れて将軍のところに持って行った。


「これが取ってきた月でございます。ここに確かに月が映っておりました故」


 将軍は答えた。


「なるほど、美しき月である。一休よ、そなたの頓智はやはり面白いの」


 日本の話は以上である。月というのは地球上どこからでも見えるので、月の神というのは世界各地にいる。たとえばインドの月の神はチャンドラという。二十七の妻がいる性豪であったのだが、ローヒニーという妻ばかりを愛するようになった時期があり、ほかの妻たちの怒りを買った。で、チャンドラは呪われ、月が輝きを失ってしまった。困ったチャンドラは破壊神シヴァに助けを求めた。シヴァは破壊神であるので月の一部を破壊した。そうしたら月は三十日をかけて満ち欠けをするようになり、元とは少し違う形だが、輝きを取り戻したという。


 さて、長く説明したが、私は月を追う神ハティ・フルヴィトニスであるので、インドにも生まれたことがある。チャンドラ神を食い殺さなければ私の任務は果たされないのだからしょうがない。


 で、会ってみたら軽く返り討ちにされた。そのときは人間の肉体だったということもあるが、本気の姿、つまり月を喰らう魔獣の姿で行っても勝てたかどうかはよく分からない。相手は大物である。


 で、私は負けたのだが、チャンドラ神は大酒飲みの気のいい男で、ソーマと呼ばれる神の酒を私にも振る舞ってくれた。自分を食い殺しに来た狼の魔獣を酒でもてなそうというのだから気前のいい奴である。


 しかし翌朝、私は二日酔いで寝込んだ。チャンドラ神は私より飲んだはずなのに平気な顔をしていた。さすがは大物だと思った。


「このへんの地域ではな。二日酔いにはこれを用いるのだ。かじってみろ」


 と言って彼が寄越したのは、輪切りにされたレモンだった。レモンの原産地は、諸説あるが一説によればインドであるので。


「懐かしい香りがします。まるで、月の光を啜った時のようだ」


 と私が言うと、チャンドラ神は呵々大笑した。


「面白いことを言う奴だ。二日酔いでレモンを食って、そんなことを言った奴は初めてだ」


 と。


 さて、どうでもいいような無駄話を長々と続けてきたが。


 そもそもラグナロクというものは、「三年続く冬」のあとに訪れるものである、とされている。


 人類はつい二年前、最終戦争を起こした。インドラの矢、というやつだ。核の炎が天地を焼き尽くし、地上は冬に包まれた。このままなら、三年続くだろう。


 ついさっき、人間の中に紛れて暮らしていた私だが、狼に化身できるようになっていることに気が付いた。どうやら、『その時』が近いらしい。


 大地が焼き滅ぼされてなお、望む天には太陽と月が輝いているが。


 どうやら私が征くべきときがまもなく来るようだ。


 私の名はハティ・フルヴィトニス。来たるラグナロクの日に、月を喰らう魔獣である。



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月を喰らえよフルヴィトニス きょうじゅ @Fake_Proffesor

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