言わなかった理由

広川朔二

言わなかった理由

朝、目を覚ました瞬間、結花はいつもと変わらぬ天井の模様を見つめながら、今日が何曜日だったかを思い出そうとした。カーテンの隙間から差し込む光はやわらかく、春が近いことを告げている。

隣で眠る夫の背中がわずかに上下しているのを確認して、そっと布団から抜け出した。


キッチンに立ち、コーヒーを淹れる。豆は夫が週末に焙煎してくれたものだ。少し酸味が強いが、後味がすっきりしていて、彼の性格を映しているようだった。


「おはよう」


寝癖をつけたまま、夫の直人がリビングに現れる。Tシャツにジャージのままの彼を見て、結花は小さく笑った。


「髪、跳ねてるよ」


「……跳ねる髪があるだけマシだと思ってくれ」


「まだ三十代でしょ」


「ギリギリな」


二人で笑い合い、コーヒーの湯気の向こうで視線が重なる。会話は多くないが、それが心地いい。ふたりの間には、言葉よりも長く、静かな了解が流れていた。


朝食を終えた後、出勤の支度をする結花を見送りながら、直人はふと尋ねた。


「……今週末、うちの親から飯どうだって言われてる」


結花はワイシャツの袖を直しながら一瞬だけ動きを止める。


「また?」


「まぁ、月一くらいだからって。最近、電話のたびに“まだか”ばっかりでさ」


「そう……」


声に棘はない。けれど、表情にうっすらと陰りがさしたのを、直人は見逃さなかった。


「無理しなくていいよ。今回は俺だけ行ってもいいし」


「ううん、大丈夫。行くよ」


結花はそう言って微笑んだが、その目はどこか遠くを見ていた。


週末、義実家に向かう電車の中。窓の外には、満開にはまだ遠い桜のつぼみが風に揺れていた。直人の隣に座りながら、結花は鞄の中の母親からの手紙に、ふと指先を触れる。先週届いたそれには、淡いピンク色の便箋に、こう記されていた。


「もう、周りの人がね、みんな“お孫さんは?”って聞いてくるのよ。恥ずかしくて、答えられないじゃない。ねぇ、結花。あんたたち、ちゃんと考えてるの?」


便箋は丁寧だが、言葉は乱暴だった。自分のために黙っているはずの“事実”が、まるで罪であるかのように扱われる、その理不尽さに、心のどこかが少しずつ擦り切れていくのを感じていた。


「結花」


電車を降りたホームで、直人が彼女の手を取る。


「……なに?」


「ちゃんと、話そう。どこかで区切りをつけないと、どんどん壊れていく気がする」


結花は一瞬、息を呑む。彼の手はあたたかく、強く握られていた。


「でも……話すことで、義父さんたちを…お母さんを傷つけることになるかもしれない」


「でも、黙っていることで、君が傷ついている。どっちを選ぶかって言ったら、俺は、君を守りたい」


それは、結婚前にもらった言葉と、同じ響きだった。


——子どもがいなくても、俺たちは“満ちたふたり”でいよう


そう言ってくれた人だった。だから、自分は彼と生きていくと決めたのだ。


その日、義実家ではまた「孫はまだか」の話題が出た。だが、結花はただ静かに微笑み、言葉を飲み込んだ。直人もまた、苦い顔で笑っていた。言葉の端々に潜められた鋭い棘が二人を、特に結花を傷つける。


“まだ、今じゃない”


けれど、ふたりの沈黙は、もう優しさではなく、重さになり始めていた。


春が過ぎ、初夏の空気が街を包み始めた頃。結花は職場での会議を終えた帰り道、ふとスマホを見ると、未読のメッセージが一件あった。母からだった。


『いい病院があるのよ。私の知り合いの娘さん、すごくいい先生に診てもらって、すぐ授かったの。結花、あなたも女の子ならちゃんと努力しなきゃだめよ』


母へも義両親と同じように、“まだ、今じゃない”とだけ伝えているのに昔から早合点しがちな性格で、私が不妊症だと決めつけている節がある。


「あながち間違いでもないんだけど…」


心臓が軽く軋むように痛む。母の言葉は何も知らないまま放たれたものだと、頭では理解していた。だが、理解だけでは防げない痛みがある。


鞄にスマホを戻しながら、結花は自分の影を見つめた。細くて、頼りない、夕方の歩道に伸びる線。沈黙は、もう自分を守るものではなく、自分を押しつぶすものになりつつあった。


「結花、最近元気ないな」


夕食の席で、直人がそう切り出した。焼き魚の骨を器用に取る彼の手が止まる。


「……うちの母からの連絡が増えてて」


「こないだも、うちの母が“結花さん、子ども嫌いなのかしら”って言ってたよ」


「……そう」


結花の箸が止まる。そのまま、食事は静かに終わった。皿の上には、骨だけが綺麗に残っていた。


週末、義実家に行った帰り道。二人の間は重苦しい沈黙に満ちていた。隣に座る直人は、何かを言おうとしては口をつぐむ。結花は窓の外を見つめながら、今日の出来事を反芻していた。


「子どもがいない夫婦って、やっぱり寂しいものよねぇ」

「うちの親戚なんて、孫が七人もいて大変って言ってたわよ」

「結花さんは仕事頑張ってるみたいだけど、女の幸せってやっぱり……ねぇ?」


義母のその言葉ひとつひとつが、まるで自分の人格を否定されているように響いた。結花が笑顔を保てたのは、もはや礼儀でも優しさでもなく、ただの習性だった。


「……ごめん」


直人がぽつりとつぶやく。


「いいの。二人で決めたことじゃない」


真実を告げることはお互いの両親を傷つけることになる。どちらの親も夫婦とは子供をつくるのが最高の幸せだという考えで、現実を突きつけることがあの人たちに深い悲しみを与えることになる、と。


夜。眠れないまま、ベッドの中で天井を見つめていると、突然、隣から直人の声がした。


「俺たち、何を守るために黙ってるんだろう。誰のために、傷ついてるんだろう」


「少しだけ、強く言ってみようか。原因のことは隠して…子供作る気はないって」


「そうだな」


その夜、結花は一人でリビングのソファに移った。カーテンの隙間から差し込む街灯の明かりが、冷たい床に白く伸びていた。


沈黙という“優しさ”は、とうにその役目を終えていた。


翌日。二人はダイニングテーブルで向かい合って座っていた。お互いのスマートフォンの画面を見せあっている。そこには同じメッセージが表示されていた。


『これまではタイミングという言葉で濁らせていましたが、私たちは子供を作る気はありません。これは結婚前に二人で決めたことです。孫の顔を見せられないことはとても心苦しく思っていますが、どうか二人の気持ちを汲んでください。これ以上、子供についての重圧をかけてくるなら、今後の付き合い方も考えなければいけません』





数日後。職場での会議の合間、結花は同僚に勧められたカフェで昼食をとっていた。ふと、幼い子どもを連れた母親が近くの席に座る。子どもがスプーンを落とし、泣き出した。


それを見て、結花はそっと視線を落とした。羨ましいわけではない。ただ、自分が持たないものが、そこにあることが痛かった。


スマートフォンの画面にはあの後、母から送られてきたメッセージが表示されている。


『孫の顔を見せるのが一番の親孝行でしょう?それに二人きりじゃ、本当の家族とは言えないわ』


何度も深いため息をつく。直人はもっと大変で、あの後両親からの電話で一時間以上考え直せと説かれていたのだ。


「無理なものは無理なのにな」


その日の夜、直人は珍しく自ら夕食を作った。キッチンから漂う炒め物の匂いと、包丁の音。そのどちらにも、彼の不器用な真剣さが滲んでいた。


「……話がある」


食卓につくと、彼はすぐにそう切り出した。結花は静かにうなずいた。きっと、もう、二人は決断していたのだ。


「今度の日曜、両方の家を回ろう。……一緒に話そう、全部」


言葉は少し震えていたが、目は真っ直ぐだった。


最初に訪ねたのは直人の実家だった。応接間に通されると、義母は開口一番こう言った。


「まぁまぁ、よかった来てくれて。最近、うちの親戚もみんな孫の話ばかりで……ねぇ、あなたたちもそろそろ——」


「母さん」


直人が、いつになく強い声で遮る。その瞬間、部屋の空気が張り詰めた。


「……俺たち、子どもはつくらない。というか……できない体なんだ。俺も、結花も」


しばらく、誰も言葉を発せなかった。


「……な、何を言ってるの……? それって、つまり……どっちが? どっちに問題があるの?」


義母の声は、焦りと混乱で歪んでいた。


「両方です」


結花が静かに答える。その瞳に、もう以前のような遠慮はなかった。


「ずっと言わなかったのは、お二人を傷つけたくなかったからです。でも、もう限界でした。言わなければ、私たちが壊れてしまうと思った」


義父が口を開きかけて、しかし何も言わず、目を伏せる。義母の顔からは、困惑と不満と、そして理解できないという拒絶が滲み出ていた。


「……そんな……それなら、もっと早く……治療とか、考えたらよかったじゃない」


「できる限りのことはしてきたんだ。もう、十分に。先天性のものだって言われたよ」


直人がはっきりと言い切った。


次に訪ねたのは結花の実家だった。母は顔を見た瞬間から違和感を覚えたのか、何かを察したような表情を浮かべていた。


「……結花、あんた……何かあったの?」


「うん、話したいことがある」


応接間に座り、直人と並んで話す。結花の声は震えていなかった。どこか、解放に近い安堵があった。


「私も、直人も、子どもができない体質なんだ。医学的にも、もう可能性はないって診断されてる」


「…………うそ、でしょ」


母の声は、どこか遠くのもののように響いた。


「どうして……どうして言ってくれなかったの……?」


その問いに、結花は言葉を選んだ。


「言ったら、母さんがきっと、自分を責めると思った。あるいは、私を責めるかもしれない。……どちらにしても、傷つくだけだって分かってたから」


「私はそんな」


「母さんは、何度も“女の幸せは出産だ”って言ったよ。でも、私にとっての幸せは、直人と一緒にいることだった。それだけでよかった。だけど、何度も何度も“足りない”って言われて……それが、苦しかった」


沈黙が部屋を満たす。父はただ黙って腕を組み、目を伏せていた。母は両手で口を覆いながら、微かに首を横に振っていた。


「私たち、もう干渉はされたくない。結婚して、“ふたり”でも家族って思ってるから」


結花がそう告げると、直人が彼女の手をそっと握った。


「……もう、いいよ。結花」


その声に、彼の中でようやく何かが解けたのがわかる。結花は立ち上がり、深く一礼した。


「これからは、私たちの人生を、私たちの形で生きます。どうか、口出しをしないでください。それが、今の私たちからのお願いです」


家に戻ると、どちらからともなくソファに腰を下ろした。窓の外は夕焼けに染まり、ゆっくりと夜が近づいてくる。


「……これで、よかったのかな」


結花がぽつりとつぶやく。


「よかったよ。きっと……」


直人がそう言って、結花の手を握る。沈黙は破られた。今はただ、痛みの後の静寂がそこにあった。でも、その静けさは、かつての“抑圧の沈黙”とは違う。これは“尊厳を守るための沈黙”だ。語り終えた者だけが持つ、静かな誇りだった。


初秋の風が街をなでる頃、結花は窓際に吊るした風鈴の音を聞きながら、コーヒーを淹れていた。朝は静かだった。誰に急かされることもなく、ただ二人だけの時間が穏やかに流れていた。


ソファに腰掛けて新聞を読む直人の横顔は、以前よりどこか柔らかくなっている。この数か月、ふたりは一度も“子ども”という言葉に縛られていなかった。それだけで、こんなにも世界は違って見えるのかと、結花はふと思う。




一方、直人の実家では。

広々とした家の中に、母の独り言が虚しく反響していた。


「どうして、あの子ったら……私たちの気持ちも、少しは……」


あの後何度電話をかけても出ない。メッセージを送っても既読はつくが、『少し距離を置こう』とだけ返信があってから反応はない。訪問しようとすれば「今後の付き合いは必要最低限にしたい」と、直人からはっきりと伝えられた。


それでも親戚中に愚痴を話した。「結花さんが悪い」「あの子さえ、もう少し女らしくあれば」と、呪文のように繰り返す。だが、言えば言うほど、周囲の親戚はそっと距離を取りはじめた。


「それは少し言いすぎよ」

「子どものことって、本人たちの問題でしょ?」


そうした声が、今になって義母の耳に届くようになった。父は黙ったまま新聞を読んでいる。会話らしい会話もなくなった。二人の間にあった“孫”という夢だけが共通言語だったことを、いまさら知る。


広い食卓。空の席。母はふと、茶碗に箸を置いてつぶやいた。


「……こんなに静かなのに、どうしてこんなに苦しいのかしら」




結花の実家でも、似た空気が流れていた。

母は連絡の返ってこない娘に、日に何度も電話をかける癖がついてしまっていた。


応答は、ない。


「私、そんなにひどいことを言ったのかしら……?」


誰にも聞かれていない問いを、繰り返す。テレビの音だけが部屋に響く。笑い声も、拍手も、母の心には届かない。父は、静かに新聞を読むばかりだった。


家族としての会話は、とうに絶えた。


母が泣いても、父は何も言わない。ただ「放っておけ」とだけ短く言う。かつて、娘が「あなたたちの言葉に私は傷ついた」と言ったとき。その意味を、ちゃんと考えなかった自分への、遅すぎる悔い。


母は仏壇の前に座り、亡き祖母に手を合わせた。


「あの親不孝者…」


その声に返事はない。線香の煙だけが、まっすぐに昇っていく。




そんなある日、結花と直人は小さな港町を訪れていた。

海の音と、潮風と、喧騒から切り離された時間の中で、二人は穏やかに過ごしていた。


「なんかさ、こういうのも悪くないな。なんだかんだ、お互いの実家に顔出してばかりでゆっくり旅行なんてできなかったし」


直人の言葉に、結花は笑ってうなずいた。

海風が髪を揺らす。二人の間には、もはや埋められない空白はなかった。


彼らの背後に残してきたものは、もう振り返る価値もない。

干渉という名の愛を押しつけてきた者たちは、互いに寄りかかることもできず、自分の声だけが響く家に、ただ静かに取り残されていた。


それこそが、彼らの選んだ道の報いだった。誰も罰したわけではない。誰も怒鳴らなかった。


お互いの気持ちの行き違いは時が埋めるかもしれない。それとも溝が深まるだけかもしれない。それでも、二人は“二人の生活”を守ることを優先した。


「静かって、いいね」


直人が微笑んで、隣に並んだ。


「本当にそうだな。やっと、二人の時間だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

言わなかった理由 広川朔二 @sakuji_h

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ