第8話:砂漠に咲いた一輪の華、ヒロインとの邂逅

アズラエル大砂漠。


神々に見捨てられたとさえ言われる広大な砂の海。生命の存在を拒絶するかのような、過酷で、そしてどこまでも美しい世界。


灼熱の季節、昼と夜の寒暖差が最も激しくなる時期。天頂から降り注ぐ太陽は、あらゆるものの水分を奪い、砂の一粒一粒を白熱の針に変える。陽が落ちれば、今度は骨身に染みるほどの冷気が大地を支配し、油断した旅人の体温を容赦なく奪い去っていく。


そんな死と隣り合わせの砂漠を、カイは独り、歩いていた。


吹き荒れる砂塵が、世界のすべてを黄土色に塗りつ潰していた。ゴーゴーと、まるで地の底から響いてくるような風の咆哮が耳を打ち、鼓膜を震わせる。風は単なる音ではなかった。それは意思を持った暴力であり、絶え間なくカイの全身に叩きつけられる無数の砂粒は、分厚い旅装束の上からでも肌を刺すような痛みを与えた。


視界は極度に悪い。数メートル先すら定かではなく、時折、風の悪戯で砂が渦を巻くと、一瞬だけ向こうの砂丘の稜線が幻のように浮かび上がり、すぐにまた黄土色の帳の向こうへと消えていく。こんな状況では、方向感覚を維持することすら困難だ。カイは時折立ち止まり、足元の砂に刻まれた自らの足跡が、風によって瞬く間に消されていくのを冷静に観察しながら、体内に刻み込まれた地図と太陽のかすかな位置を頼りに、進むべき方角を修正していた。


思考が鈍りそうになる。単調な風の音、絶え間ない砂の鞭、そしてどこまで歩いても変わることのない風景。それは人の精神を少しずつ、しかし確実に摩耗させていく。だが、カイの意識は、研ぎ澄まされた刃のように鋭く、その集中力は微塵も途切れることはなかった。彼の精神は、この肉体が経験してきた歳月よりも、遥かに長く、複雑な時を経てきたものだったからだ。


(…少し、風向きが変わったか)


カイはフードの奥で目を細めた。鼻腔をくすぐる砂の匂いに混じって、ごく微かに、何かが焼けるような、それでいて金属的な匂いがする。魔物の放つ瘴気だ。このアズラエル大砂漠は、ただの砂漠ではない。古代の戦争で大地が汚染され、その瘴気から生まれた異形の魔物たちが跋扈する危険地帯なのだ。特に、このような砂嵐の日は、視界の悪さを利用して獲物に忍び寄る狡猾なプレデターたちが活発になる。


カイの五感は、常に周囲の気配を探っていた。風の音の向こうにある微かな物音、砂の匂いに混じる異質な香り、足元から伝わる僅かな振動。そのすべてが、この過酷な環境で生き残るための重要な情報となる。


その時だった。


カイの鋭敏な聴覚が、風の咆哮の中に、ごく僅かな不協和音を捉えた。いや、音ではない。気配だ。殺気でも、瘴気でもない。何か、そこにある、という揺るぎない存在感。それは砂嵐の中心から、ほんの数キロ先の地点から発せられているようだった。


(なんだ…? 魔物ではない。だが、この砂漠のまっただ中で、一体…?)


興味よりも先に、警戒心が頭をもたげる。砂漠が見せる蜃気楼か、あるいは旅人を惑わす類の精霊の類か。どちらにせよ、迂闊に近づくべきではない。それが砂漠の鉄則だ。


だが、その気配はカイの心を奇妙にざわつかせた。それはまるで、遠い昔に失くした何かを思い出させるような、懐かしさと切なさを伴う微かな波動だった。彼は一瞬逡巡したが、やがて自嘲気味に口元を歪めた。


「神様(仮)の気まぐれか、あるいは新たな試練か…。どちらにせよ、退屈よりはマシか」


カイは独りごちると、進路をわずかに修正し、その謎めいた気配の源へと、一歩、また一歩と、慎重に歩を進め始めた。


風は依然として猛威を振るい、砂の壁が彼の行く手を阻むかのように厚みを増していく。足は砂に深く沈み、一歩進むごとに通常の何倍もの体力を消耗する。だが、カイの足取りに迷いはなかった。彼の目は、常人には見通せぬ砂塵の奥、その一点だけを凝視していた。


近づくにつれて、その存在感はより明確になっていく。それは黒い影のように見えた。砂嵐のせいで輪郭はぼやけているが、確かにそこに何かが「在る」。風に揺らめくこともなく、ただじっと、そこにある。


(岩か? いや、この辺りにあんな形状の岩があったという記憶はない。それに、岩ならばこれほどの存在感を放つものか…?)


カイの脳裏に、この砂漠に棲むという伝説の魔物、「サンドワーム」の巨体が浮かんだ。しかし、サンドワームならばもっと強烈な殺気と振動を伴うはずだ。これは違う。もっと静かで、そしてどこか悲しげな気配だった。


彼は魔法の気配を探る。だが、魔力的な干渉は感じられない。自然現象でも、魔物の仕業でもないとすれば、残る可能性は一つしかない。


(…生き物か)


その結論に達した時、カイの心臓がわずかに早く鼓動した。この地獄のような砂嵐の中で、魔物以外の生き物が存在できるとは到底思えなかったからだ。


彼はさらに歩を進めた。砂を蹴り、風に逆らい、一歩ずつ、その影との距離を詰めていく。思考を鈍らせようとする砂塵の猛攻を、鋼の意志で跳ね除けながら。


そして、数分が永遠にも感じられるような時間を経て、ついにカイは影の正体を視認できる距離まで到達した。


ゴーゴーと吹き荒れる風が、一瞬だけ、ほんのわずかな間だけ奇跡のように凪いだ。視界を遮っていた黄土色のカーテンがさっと開かれ、そこに横たわる光景が、カイの目に鮮烈に焼き付いた。


それは、砂の上に力なくうずくまる、一人の人間だった。


その姿を見た瞬間、カイは思わず息を呑んだ。時間が止まったかのような錯覚に陥る。風の音も、肌を打つ砂の痛みも、すべてが遠のいていく。


小柄な体躯は、旅装束だったものだろうか、もはや元の色も形も分からないほどに擦り切れ、引き裂かれたボロボロの布に包まれていた。全身が砂と埃に塗れ、まるで砂漠と一体化した彫像のようだ。


しかし、彫像ではない。それは紛れもなく生身の人間であり、その人物が若い女性であること、そして――何よりも、その容姿が、この世の理を超越していることに、カイは言葉を失った。


風が再びざわめき始め、少女の髪を優しく揺らす。その一瞬、カイの目に飛び込んできたのは、まるで神話の時代から抜け出してきたかのような、神々しいまでの美しさを湛えた少女の横顔だった。


砂に汚れ、ところどころに小さな擦り傷さえあるというのに、その肌は、陽の光を一度も浴びたことがないのではないかと思わせるほどに透き通るような白さを持っていた。それは単なる白さではない。まるで最高品質の乳白色の陶器のように、内側から淡い光を放っているかのような、神秘的なまでの輝きを帯びていた。


長く、艶やかな濡羽色の髪が、砂まみれになりながらもその絹のような質感を失わず、風に乱れ、白い頬にかかっている。それは夜の闇そのものを溶かし込んで紡いだ糸のようであり、光の加減によっては深い藍色にも、紫にも見える妖艶な光沢を放っていた。


閉じられた瞼を縁取る睫毛は、信じられないほど長く、そして密だ。まるで蝶の羽のように繊細な影を頬に落としている。もしその瞳が開かれたなら、一体どれほどの輝きが放たれるのだろうか。想像するだけで、カイは眩暈に似た感覚を覚えた。


鼻筋は、ギリシャ彫刻の女神のようにすっと通っており、その完璧なラインは見る者を陶然とさせる。唇は血の気を失い、痛々しいほどに白く乾いてはいるが、その形は奇跡的なまでに美しかった。薄くも厚くもなく、繊細な曲線を描くその唇は、まるで熟練の職人が魂を込めて作り上げた芸術品のようだった。


そのすべてが、完璧な調和をもって一つの顔を構成している。


もしこれが絵画ならば、神に愛された画家が自らの魂のすべてを注ぎ込み、生涯をかけて描いた唯一無二の傑作だと、誰もが疑うことなく称賛するだろう。もしこれが彫刻ならば、あまりの美しさに神々の嫉妬を買い、打ち砕かれたという伝説が生まれるに違いない。


(こ、これは…! なんだ、この美少女は…! まさに砂漠に咲いた一輪の華、いや、そんな陳腐な言葉では表現しきれない! もはや女神の領域ではないか!? 神様(仮)よ、これは一体どういうボーナスステージなんだ!? 俺の新たな人生への、あまりにも出来過ぎたご褒美じゃないのか!?)


カイの脳裏を、一瞬にして凄まじい勢いで様々な妄想が駆け巡った。


彼の前の人生――それは剣と魔法、そして権謀術数が渦巻く、波乱に満ちたものだった。皇帝の側近として、王侯貴族の令嬢から、諸国の姫君、あるいは妖艶な魅力を持つ女スパイまで、ありとあらゆる美しい女性たちをその目で見てきた。美しさというものに対する審美眼は、人並み以上に肥えているという自負があった。


だが、今、目の前にいる少女は、そのカイの経験と価値観のすべてを根底から覆すほどの衝撃だった。彼女の美しさは、単なる容姿の造形美ではない。それは、存在そのものから放たれるオーラ、神聖さとでも言うべき、触れることすら許されないような気高さと、それとは裏腹に、今にも壊れてしまいそうな儚さが同居した、奇跡的なバランスの上に成り立っていた。


彼の内心は、数多の修羅場を乗り越えてきた「年の功」などというものを完全に忘れ去り、まるで初めて異性を意識した思春期の少年のように、激しく、そして混乱を極めて動揺していた。心臓が早鐘のように鳴り響き、頬が熱くなるのを感じる。


しかし、その興奮と混乱の渦中にあったカイの理性が、次の瞬間、警鐘を鳴らした。


(いかんいかん、見とれている場合ではない! 何を考えているんだ、俺は! この娘、見たところ相当に衰弱しているぞ!)


少女の美しさに心を奪われていたほんのわずかな時間、彼は最も重要な事実を見落としていた。少女はぐったりとしており、胸の上下動はほとんど見て取れない。呼吸も恐ろしく浅く、まるで燃え尽きる寸前の蝋燭のように、今にもその命の灯火が掻き消えてしまいそうだ。


カイはハッと我に返り、すべての妄想を頭から追い出した。今は感嘆している時ではない。救うべき命が、目の前にある。


彼は急いで少女のそばに駆け寄ると、硬い砂の上に膝をつき、その体をそっと抱き起こした。


その瞬間、二つの事実にカイは驚愕した。


一つは、その驚くほどの軽さ。小柄な体躯であることを差し引いても、まるで羽毛か何かのように軽い。ちゃんと食事を摂れていたのだろうか。いや、それ以前に、この体にはほとんど血が通っていないのではないかと錯覚するほどだった。


そしてもう一つは、その体温の低さ。砂漠の昼間は灼熱地獄だというのに、彼女の肌は氷のように冷たい。それは、生命活動が極限まで低下している危険な兆候だった。


「おい、大丈夫か! しっかりしろ!」


カイは努めて冷静に、しかし力強い声で呼びかけた。彼の声に反応したのか、少女の長い睫毛がかすかに震え、重そうな瞼がわずかに持ち上がる。その隙間から覗いたのは、焦点の合わない、虚ろな瞳だった。瞳の色は、まるで夜明け前の空のような、深い紫水晶の色をしていた。しかし、その美しい瞳には光がなく、カイの姿を捉えているのかさえ定かではない。


彼女は何かを言おうとしたのか、乾ききった唇をわずかに動かしたが、そこから漏れたのは声にならない、かすかな吐息だけだった。そして、それだけの動作さえも体力を使い果たしたかのように、再びぐったりと意識を失いかけた。


(まずい、このままでは本当に死んでしまう!)


状況は一刻を争う。カイの思考は、先ほどまでの混乱が嘘のように、極限の集中力と冷静さを取り戻していた。彼は長年の経験から、今何をすべきかを瞬時に判断した。


(まずは水だ。脱水症状がひどすぎる。それから、この砂嵐からどうにかして身を守らねば…)


カイは迅速に行動を開始した。


彼はまず、少女を慎重に砂の上に横たえると、自らの右手を彼女の顔の前にかざした。そして、目を閉じ、意識を集中させる。


「《元素よ、清浄なる水の乙女よ、我が声に応えよ。乾きし喉を潤し、枯れゆく命を繋ぎたまえ》――ウォーター・クリエイト」


短い詠唱と共に、カイの掌に淡い青色の光が灯る。すると、何もない空間から、まるで奇跡のように清らかな水が湧き出し、彼の掌に溜まっていった。それは単なる水ではない。不純物を一切含まない、生命力に満ちた魔法の水だ。


カイは生成した水を、いきなり飲ませるのではなく、まずは自分の指先に少量つけ、少女のひび割れた唇を優しく湿らせてやった。乾ききった大地に最初の雨が染み込むように、水は瞬く間に吸収されていく。


次に、彼は少女の頭をそっと持ち上げ、自分の手のひらに溜めた水を、彼女の唇に一滴、また一滴と、ゆっくりと含ませる。焦りは禁物だ。衰弱した人間は、水を飲むことさえも体力を消耗する。無理に飲ませれば、むせさせてしまい、かえって危険な状態に陥る可能性がある。


少女は無意識にか、あるいは本能的な渇きからか、かすかに喉を動かし、こくり、こくりと、わずかながらも水を飲んだ。その微かな生命の反応に、カイは安堵の息を漏らした。


次にカイが取り組んだのは、この猛烈な砂嵐からの保護だった。彼は自分の背負っていた大きなマントを外し、それを広げると、風上側に突き立てた数本の予備の剣を支柱にして、即席の風除けを作り上げた。完璧ではないが、直接体に砂が叩きつけられるのを防ぐだけでも、体力の消耗は大きく違うはずだ。


風除けの内側は、嘘のように風が和らぎ、静かな空間が生まれた。カイは再び少女のそばに屈み込むと、今度は彼女の冷え切った体を自分の膝の上にそっと抱き上げた。そして、自らの体温で少しでも彼女を温めようと試みた。


その時、カイは改めて奇妙な事実に気づいた。


あれほどまでに猛威を振るっていた砂嵐が、なぜかこの少女を中心とした、半径数メートル四方の範囲だけ、明らかに風の勢いが和らぎ、舞い上がる砂塵の量も薄くなっているのだ。


先ほど自分が作ったマントの風除けの効果だけでは、到底説明がつかない現象だった。まるで、何か目に見えないドーム状の力が彼女を守っているかのように、その一角だけが、嵐の中で不自然なほどの静けさを保っていた。


(これは…偶然か? いや、この状況で偶然とは考えにくい。この娘、何か特別な力を持っているのか、あるいは…何か特殊な加護を受けたアーティファクトでも身につけているのか?)


カイは少女の衣服や装飾品に目を走らせたが、身に着けているものはボロボロの布きれだけで、魔法的なアイテムは見当たらない。となると、力は彼女自身に由来するものだと考えるのが自然だった。


さらに、もう一つ不可解な点があった。


カイがこの場所に近づいている時、確かに感じていた魔物の瘴気や殺伐とした気配が、今は完全に消え失せているのだ。アズラエル大砂漠は、常に弱肉強食の緊張感に満ちている。特にこのような砂嵐の際は、嗅覚や聴覚の鋭い魔物が獲物を求めて徘徊しているはずなのに、この少女の周囲には、魔物の気配が全く感じられない。


先ほどまで感じていた、砂漠特有の、常に背後から狙われているようなプレデターたちの殺伐としたオーラが、まるで聖水で浄化されたかのように、綺麗さっぱりと消え去っている。


この静けさは、異常だ。


(魔物避けの結界か何かか? しかも、無意識に、常時発動しているような強力なものが…。それとも、この娘自身が、魔物すら本能的に恐れをなして避けるほどの何かを、その身に秘めているというのか…?)


カイの脳裏に、様々な憶測が浮かんだ。彼女は一体何者なのか。なぜ、こんな砂漠の真ん中で独り、倒れていたのか。彼女が持つこの不可解な力は、一体何なのか。


疑問は尽きない。だが、今はそれらを追求している場合ではない。目の前の小さな命を救うことが、何よりも最優先事項だ。


彼は思考を中断し、再び少女の状態を確認する。自分の膝の上で、腕に抱かれた少女の脈を、そっと首筋に指を当てて測る。依然として弱々しいが、先ほどよりは少しだけ力強い。呼吸も、ほんのわずかだが深くなっているようだ。魔法の水と、一時的な安息が功を奏したらしい。まだ生きている。その事実に、カイは深く安堵した。


(とにかく、安全な場所へ運ばねばならん。このままでは、夜の冷え込みで体力が持たん)


この砂漠で最も近い文明の証は、西に位置するオアシスの街「シフル」だ。ここから歩いて、砂嵐がなければ半日ほどの距離。この状況では丸一日かかるかもしれないが、それでもそこを目指すしか道はなかった。


決断は早かった。


カイは少女を横抱きに、そっと、しかし確かな腕の力で抱え上げた。驚くほど軽いその体が、彼の腕の中にすっぽりと収まる。まるで壊れ物を扱うかのように慎重に、だが落とすことのないように力強く。


彼は先ほど風除けにしていたマントを巧みに操り、今度は少女と自分自身を共に包み込むように覆った。これで少しは風と砂を防げるだろう。そして、何よりも少女の体温がこれ以上奪われるのを防ぐことができるはずだ。


「よし、行くぞ。もう少しの辛抱だ」


カイは、意識があるのかないのかも定かではない少女に向かって、自分自身に言い聞かせるように、優しく声をかけた。


そして、彼は黄土色の砂塵が渦巻く世界へと、再び足を踏み出す。目指すは、生命の泉が湧くオアシスの街。


一歩、また一歩。砂に足を取られ、強風に体を押されながらも、彼の足取りは揺るぎなかった。腕の中にある、か細く、しかし確かな生命の重みが、彼に力を与えていた。


その時だった。


彼の腕の中で、ぐったりとしていた少女が、微かに身じろぎした。そして、無意識にか、あるいは彼の胸の鼓動に安らぎを感じたのか、その美しい顔をカイの硬い胸板にこすりつけるようにうずめた。


ふわりと、彼の鼻腔をくすぐる微かな香り。それは、砂と埃の匂いに混じって、どこか遠い場所で咲く、夜にしか開かない花の蜜のような、甘く、そして清らかな香りだった。


その瞬間、幾多の戦場を駆け抜け、いかなる状況でも冷静さを失わなかったカイの心臓が、柄にもなく「ドクン」と大きく高鳴った。


(…くそっ)


カイは内心で悪態をついた。この感情の高ぶりは一体なんなのか。庇護欲か、憐憫か、それとも…。彼はその感情の正体から目を逸らすように、ただ前だけを見据えた。


砂嵐は、依然として猛威を振るっている。しかし、カイには不思議と、先ほどまでの絶望的な過酷さは感じられなかった。腕に抱いた少女の存在が、まるで嵐の中の灯火のように、彼の進むべき道を照らしているかのようだった。


夕暮れが近づき、砂塵の向こうで太陽がその勢いを失い始めると、空は燃えるようなオレンジ色から、深い赤紫色へとその表情を変えていく。気温が急速に下がり始め、昼間の灼熱が嘘のように、肌寒い空気がマントの隙間から忍び込んでくる。


カイは歩き続けた。


腕の中の少女の寝息だけが、風の音にかき消されそうなほど静かに、しかし確かに彼の耳に届いていた。


この出会いが、彼の新たな人生において、どれほど大きく、そして決定的な意味を持つことになるのか。この腕の中の少女が、乾ききった砂漠のような彼の運命に、どれほどの潤いと、そして嵐を呼び込むことになるのか。


それは、乾ききった砂の世界に落ちた一滴の雫が、やがて大河を成し、荒野を緑に変える奇跡の始まりのように、まだ誰にも予測できない未来だった。


カイはまだ、その壮大な物語の、ほんの序章に足を踏み入れたばかりであることを、知る由もなかった。彼はただ、腕の中の温もりを守るため、ひたすらに砂漠を歩き続けるのだった。

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