タスク管理のオンラインイベントに参加して、タスクから自由になった私の話
ながさきや
第1話
結論からいえば私は自分のことを怠惰だと思っていた。だって朝起きてもだるくて動きたくなくて、ぼんやりしている間に一日が終わる。怠惰な自分にさよならしたくて以前から少し取り組んでいたタスク管理を極めようと決意した。
まずは独学でアプリを入れうまくいかず、次にタスク管理しよう頑張る人々が集まるウェブのコミュニティに入った。そこである考え方に出会ったのだ。それは、一言でまとめてしまうと「やりたいことは、いますぐやっちゃえばいい」という考え方だ。まだ完全に自分の物にはなっていない。でもずいぶんと私はタスクという日々の「やらなければならないこと」から自由になった。それをいまから詳しく書きたいと思う。
私はタスクシュートというタスク管理の方法を、ここ数年追いかけている。
以前は「たすくま」というアプリを入れていたし、いまもタスクシュートクラウド2というタスク管理のサービスに課金している。すごく端的に説明すなら、自分がなにか行動を起こすときに、スタートとストップを押し、その時間を計ろうという考え方だ。興味を持った方は「タスクシュートクラウド2」というWebサービスをググってほしい。
私が理解している範囲で(つまり受け売りだ)タスクシュートの良さを説明すると、人は自分ができるタスク(仕事)を脳内で考えると、六倍ぐらい見積もってしまうらしい。人の脳というのは結構ポンコツである、なんせ倍どころではない。六倍なのだから。一日は二十四時間である。六時間睡眠をとるとして、仕事や学校、食事や入浴以外の時間もこなすと、自分で使える可処分時間はかなり少ない。それなのに六倍のことをやろうと脳内で決め、実施しようとし、そしてもちろん良くて計画の六分の一しか終わらず、夜になって落ち込むのだ。「ああ、今日もほとんど何もできなかった」と。それはつまり悔やむ必要のないことで、落ち込んでいるのである。文章で書くと何かのトンチのようだが、日曜日や連休の終わりに、「長い休みがあったはずなのに何もできなかった」と落ち込む人の脳内ではだいたいこのようなことが起こっている。
タスクシュートの手法で私が特に画期的だと感じている部分は、その空想の六倍に切り込んだところだ(もちろんこれも受け売りだ以下略)。私は『先送り0で「今日もできなかった」から抜け出す100日チャレンジ』というタスクシュートのオンラインプログラムに参加したが、そこでまず推奨されるのは、ログという自分の行動の記録を取りましょうということである。「今日もできなかった」という落ち込みは、脳内の空想の中でやろうと決めた六分の五が実際にはできなかったという悔恨からきている。空想の六分の五を考えいても埒があかない。当たり前にこなした、現実の六分の一に焦点を当てるのだ。
毎日こなしているアレコレをみよう。朝に起床し、朝食をとり、時間までに仕事や学校に行く。そこではイレギュラーなことが起こり、それを私たちはどうにかさばいているはずだ。ログをとっていると、朝の隙間時間に〇〇ができたはずなのに、サボってしまったという謎の悔恨が消え失せる。朝から家族がちょっとした相談を持ちかけてきて、それに応えていた(たぶん子育てしている家庭ならあるあるエピソードだと思う)。私たちはその瞬間の最優先事項をちゃんとこなしたのだ。だが私たちはすぐにそのことを忘れてしまう。そして夕方あたりに「朝にもうちょっと頑張れば、可燃ごみ捨てられたんじゃない?」と考え始める。「朝、私がゴミ捨てをサボったから、ゴミが匂ってくるな。あーあ憂鬱」となる。冗談みたいだが、脳内だけで考えているとそうなりやすいのだ。ログをみて、家族と大事なことを話していたと思い出せれば、そもそも悔やむ必要はない。簡単にいうとタスクシュートとは、そんな考え方をもとに使うツールである。
ここまで読んでタスクシュートに興味が出た方はググって欲しい。近年一般社団法人タスクシュート協会もできた。私は機能制限のない有料版を使っているが、タスク管理を手伝ってくれるツール、タスクシュートクラウド2は、なんと無料版もある。タスクシュートはいいぞ。(それから私はトレーナーの講義までは受けてないので、関係者の方が読んだら、そこ違う!となったら申し訳ない)(もちろん訂正しますので、コメントください)
さて、私の話に戻そう。私は専業主婦だ。時間はたくさんあると見せかけて、あまりない。ちょっとだけ世間の枠から外れた子を育てているからだ。
詳しくは書かないが、一例を出すと生まれた時から抱っこをしないと寝ない子どもだった。腕の中で寝ても、ベビーベッドに降ろすと泣くのだ。世にいう背中スイッチというやつが我が子にもついていた。配偶者と協力しても子が抱っこでしか寝ない問題はどうにもならず、私は年単位で睡眠不足に陥った。だが、子育て情報とは氾濫しており、時に(十数年前の)現場の助産師さんなども恐ろしいことを言う。たとえば出産前のパパママ教室で「お母さんの体は細切れ睡眠にも耐えるようにできています」と説明されたりする。実際に育てた私は声を大にして「そんなことあるかい!」と言いたい。メンタルぶっこわるに決まってるだろ。世の中には寝せない拷問があるのだ。マジで寝ないと人はおかしくなる。そしておかしくなった当時の私はひたすら自分を責めていた。子の短い睡眠に合わせるため自分の睡眠リズムが崩れ不眠症気味になっていたのに、「母親」ができていないと思っていた。母親なら誰でもできいる、子育てと家事の両立というものをできてないと、半人前感でいっぱいだった。仕事復帰なんて考えることもできなかった。寝不足なんだから、毎日怠くて意欲もわかないのは自然なことなのに、自分が怠惰なせいだと思い込んでいた。だから、タスク管理にかけたのだ。怠惰な性格をここで変えなければならないと、たすくまというタスク管理アプリを相棒に生活を整えようとした。そのころはタスクシュートの考え方をあまり学ぼうともしていなかったため、すべて自己流だった。つまり私は空想の六倍のタスクをどうにかたすくまを使ってやろうとしたのだ。睡眠不足の頭と体で、だ。ここまで読んでくれた方はおわかりだろう。結果はもちろん挫折した。
タスクシュートやタスク管理自体がどうこうという話ではない。そもそも私は無理難題を自分に課していたのだ。家の中は足の踏み場もなく、ここで子育てとか正気かというレベルで散らかっているが、床に落ちているゴミ一つ捨てる気力がわかない。あの頃の私に必要なのは外部の助けであり、実際に身内の手助けでかろうじて生活は回っていた(もしこれを子育て真っ最中で寝不足のかたが読んでいたら、自力でどうにかしようなんて血迷わず、外部サービスを入れて欲しい。家事支援でもメンタルクリニックでもカウンセリングでもなんでもいい。外部に助けてと叫ぶのだ)。私も身内がきてくれて、たまった茶碗を洗ってくれた。それでよかったのだ。私はただ助けがあることに感謝し、その時間よろしくと頼んでのうのうと休んでいればよかった。だが私は私が一人前でないから身内に迷惑をかけているとずっと思っていた。できれば片付いた家で身内を迎え、身内に家事をやってもらうのではなく、子どもを一緒に愛でたかった。家のことは自分でどうにかしたかった。もう結婚し子どもも産まれ一人前になったのだ。立派な母親になろうなんて思わない。私はただ一人前の、人並みの母親になりたかった。
結局そういう身内と一緒に子どもと遊ぶような、優雅な時間はいまだに取れていない。
数年の間、タスクシュートで生活を整えようとまた始めたり、できないと挫折を繰り返した。子は大きくなるが、夜泣きが続き私の睡眠不足も解消されなかった。そもそも子どもは私の抱っこで寝ている時間があるので昼間はそれなり元気なのである。私の体力は、子の動きについていかなかった。だましだまし毎日を生きるのが精一杯だった。たぶんあのころの私は子を育てるという最優先課題に取り組んでいて、生きて朝を迎えられればそれで十分だった。だが私の意識は今日できたことではなく、終わっていない家事、できていない子どものケアにいつも向けられていた。つまりはじめからできるはずのない、六分の五についての自責が積み重なっていった。
そしてこの数年をかけて私の中は「私は半人前の母親だ」という罪悪感でいっぱいになった。それは私の中で溢れ出し、配偶者や子に怒りとして向かうようになった。自分だけを責め続けることに疲れ、私に半人前だと思わせる周りが悪いと、周囲に責任転嫁したのだ。「もう少し家事をやってくれたらいいのに」「なんで寝てくれないの」「私には好きな時間に買い物に行く自由も元気もない」。胸の内はそんな思いでパンパンで、事あるごとに周囲に漏れ出ていた。
さらに数年がたち、やっと自分のリズムで睡眠が取れるようになっても、強固になった罪悪感とそれにともなう周囲への怒りは私の中に強固に根を張り続けた。それは不意に顔を出し家族へ向かうことあるが、至らない自分を常に攻撃し続けていた。罪悪感からくる自分を責める声は制御不能となり、頭痛、腹痛、喘息などの身体症状を引き起こすようになっていた(私は若いころに心身症を患っている。つまりストレスが体にでやすい体質だ)。
睡眠は取れているのに、体はだるいままという日々が続いた。
そんな私に転機が訪れたのは先送り0を目指す、100日チャレンジというオンラインプログラムに参加したことだった。タスクシュートに挫折したユーザーのための企画だと銘打ってあり、まさに自分のための企画だと感じて、一も二もなく参加した。
何年も使ったり辞めたりしていたため、その頃には人は時間内に六倍ものタスクをやろうと思ってしまうこと、ログという現実が大事で、ログをベースに今日のタスクを決めていく重要性などを私は知っていた。知っていてなお、私はどこかで六倍のタスクをやらねばならないと思っていた。片付いている流し、ザラザラしてない床、空っぽの洗濯かご。私が求めているものは丁寧な暮らしとかそんな高尚なものではない。生まれた家で与えられていた暮らしを実現したかっただけなのだ。それが一人前の母親であるということだと思っていたし、そうなければならないと思っていた。そのころには子が世の中の枠からはズレていることが顕著になり、心のどこかでその原因は、私が一人前の母親でないからだと思っていた。そして努力して私が母親として一人前になったら、子どももどうにか世の中の枠に入れるのではないかと、期待してもいた。罪悪感と怒りと子どもの将来への不安が、かわるがわるに心の中を占め、穏やかな気持ちになることはあまりなかった。
その100日チャレンジはDiscordを使って行われた。キックオフイベントでのことだった。主催の一人からこういう話があった。
「やりたいことがたくさんあるのに、自分はそれに取り掛かる時間がないんですという相談を私はたくさん受けてきました。できないこと、いましちゃえばいいじゃないですか? なぜできないんでしょうか?」
たしかこういう内容だったと思う。なぜできないのか? 私の中での答えは明白だった。半人前の母親が、自分の時間を持ちたいなんて贅沢すぎる。そんなことは一人前になってからだ。そう思った。
だが、その問いは私の頭の片隅に居座った。私は先送りをなくしましょうという取り組みに、一人前の母親になるために参加しながら、なぜ自分のやりたいことに「いま」取り組めないのか、考えていた。
そして私の中の強固な思い込みはただの私のこだわりだと気づいたのだ。母親なんだから、自分のやりたいことをするのは子どもの世話や家事が終わったあとでなければならない。
家には昨夜使った茶碗が流しに突っ込んである。朝起きて一番最初に目に入るのはそれだ。脱衣所には山積みの洗濯物、床の掃除もできていないので歩けばザラザラだ。私はそれらを片付けたあとでなければ自分の時間なんて取ってはならないと強く思い込んでいたのだ。もちろん体は重く、朝からテキパキ動くことなんてできない。子の相手をしながらどうにか片付けていたらあっという間に夕方だ。そして「今日も何もできなかった」と思うのだ。
そのころ私にはやりたいことがあった。眠れない夜はネット小説を、とくにBLを読んで過ごした。子の睡眠リズムにより真夜中に起きなければならないイライラをBLで癒されたかった。BLでなくてもよかったのだが、もう元気いっぱいの青春モノなど読めなくなっていた。クタクタのメンタルには青春モノは眩しすぎて、まったく共感できないし、それまで好んでいた女の子が王子様と恋愛する話も無理だった。いくら熱愛しても結婚し子どもができたら、あなたにもこの寝不足三昧がやってくるぜ? その時その俺様ヒーロー(ちょうど俺様スパダリみたいなのが流行ってた)はあなたを助けてくれるか? とヒロインにアドバイスしたくなるからだ。完全にいらないアドバイスをするおばさんモードである。やばい。
BLというはじめから空想まみれのこのジャンルだけは、主人公たちは影を持ち諦めをまとっていることが多く、切ないストーリー展開に私は癒された。そして読むうちにいつしか私の中に、書きたいという気持ちが生まれていた。頭の中だけで構想を練りながら、数年後、子育てが落ち着いたら書こうと思っていた。
100日チャレンジのDiscordには、今日のタスクを実施できたかどうかを書くスレッドがある。参加者はそこに各々の先送りやタスクの状況を書き込む。
賢明な方はお気づきかもしれないが、そこはタスクに紐づいた日常の相談を書く場になっていた。主催者以外の顔を知らぬ人々が読むスペースに、私も他の参加者も日常のちょっとした悩みを書き込む。差しさわりのない範囲で仕事のこと家庭のことを。うまくいったことも、失敗も。主催者や運営陣、他の参加者から、その悩みに対する返事が届く。たぶんそのスパイラルがよかった。
私の中で強固になっていた一人前の母親でならねばならないという強い思い込みに、ヒビが入ったのだ。その頃の私は偏食の子どものために、子どもが確実に食べる物を作らねばならないと思っていた。自分の好物を優先してはダメだと思っていたのだ。そしてその日も子どもの好物をまったく作る気力はわかなかった。
Discordで、その件を書き込んだ。
返答がいくつもきた。まず返答があることが重要だった。私一人の内部で凝り固まった考えに、違う考え方もあるよと他の参加者から真摯な返答がある。思い込みに新しい風が通る。そしてその返答の一つにあなたの好物を作っても、今夜はお子さんは食べるかもしれませんよ? との言葉があった。
あなたは何もわかってない!と思った。うちの子のこだわりの強さを何もわかってないと。内心ではプンプン怒りながら、Discordでは感謝を述べ、でもたしかに私はその日、自分の好物を作った。子どもが食べたかは覚えていない。そもそもうちは子どもが食べなかった時のために、子どもの好きなインスタント食品をたくさん買い込んである。うちの子は好物を作っても、その日の気分で食べなかったりするからだ。だからはじめから私が私の好物を作ってもなにも問題はなかった。ただ私が子どもの好物を作らなければならないと思い込んでいただけだったのだ。
100日の間に、このような体験が幾度かあった。そのたびに私の思考は自由になっていった。自分のことを半人前の母親だと決めつけなじって私からやる気を奪っていたのは、私自身だった。
100日チャレンジが終わったあと、私は小説を書き始めた。朝からだ。目覚めてすぐ、まだ茶碗も洗ってなくて、洗濯も回してない中、スマホを片手に布団の中で読みたい話を書いた。某小説投稿サイトにアップするとありがたいことにたくさんの人に読んでもらえた。
あのチャレンジからもうすぐ三年がたつ。その間にSNSの企画に参加したり、マンガ原作講座を受けたりした。同じ書き手の仲間ができた。アンソロジーにも参加した。人生初の推し活もした。二次創作を書くと、同ジャンルの仲間ができた。
私はまだ自分を責める癖は抜けていなくて、買い物に行くだけでヘトヘトだけど、ネットの中では自由なことに気がついた。いまはwebでいろんなサービスが受けられる。
目の前のタスクに手をつける気持ちがわかないのは、自分の心がストッパーをかけていることに気がついたので、タスク管理よりグッドバイブスという考え方を追いかけている。有料のオンラインコミュニティに参加し、思い詰めた時に相談する先を持つことにした。
ここに書いた物もだいぶグッドバイブスの考え方で当時の自分の内面を整理した物だ。
100日チャレンジに参加してよかったなと思う。webで緩やかなコミュニティをいくつも持つきっかけになった。私は一人で思い詰める母親ではなくなった。
以上、タスク管理のオンラインイベントに参加して、タスクから自由になった私の話でした。
(恥ずかしいので1ヶ月ぐらいしたら非公開にします)
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