第2話:初田夢乃と運命の王子様

【初田夢乃と運命の王子様】

−−−−北緑台・路上


「ほんっと今日サイアク……」


 そう呟くなり、初田 夢乃はつた ゆめのは二酸化炭素たっぷりの重いため息をついた。

 大学三年生の彼女は学生生活を送る上で『いつも晴れやかで明るく楽しく』をモットーにしているが、今日の気分はどんよりとした曇り空だ。


 今朝、T市内にあるキャンパスへ行くと仲の良い友人から彼氏ができたととびきりの笑顔で報告を受けた。友人の幸せを祝福した夢乃だったが、その彼氏というのが自分が密かに狙っていた先輩とあっては胸中は穏やかではなかった。確実にじっくりと攻め落とす気でいただけに、仕掛けどきを見誤ったという後悔の波が押し寄せた。

 しかも、話によれば相手の方から告白してきたという。女磨きに余念がない夢乃は、自分自身の女性としての価値に強い自信を持っている。そうであるが故に、意中の相手が自分ではなく友人に惹かれていたという事実が、実際には競っていたわけでもないのに、夢乃には敗北感のようなものとして突きつけられた。

 そんな気分だったものだからゼミの最中もどこか上の空で、教授の質問に答えられなかったために小一時間説教をくらうはめになった。

 ゼミの担当である老齢の女教授と夢乃はとことん相性が合わなかった。彼女の講義は元々あまり好きではなかったのだが、親しい先輩の「あれで実は面倒見がいいんだよ」という言葉を信じて先輩と同じゼミを選んだ。しかし、入って一ヶ月もする頃にはその選択が失敗だったと思うようになっていた。なにせ話は長いし嫌味ったらしい上にプライドは高いという、夢乃の嫌いな女の特徴を全て煮込んで一晩寝かせたような意地悪婆さんだ。

 いつもは適当に受け流す夢乃だったが、今日は精神的に余裕がなかったこともあって、日頃の鬱憤が爆発して盛大な口論に発展した。止めに入った生徒たちのおかげでその日のゼミは強制的にお開きになったが、夢乃は小さな胸は後悔と敗北感に加えて、自身への苛立ちと嫌悪感が埋め尽くすことになった。


 キャンパスを出てからこうして帰路に至る今の今まで、自分がどこで何をしていたのかさっぱり記憶に残っていない。

 気分転換をしようとして新作の洋服を見に行ったり、話題になっていたパンケーキを食べに行った気もするが、夢乃の心の中はずっと雑多でまとまりのない暗く重い感情だけが覆い尽くしていた。

 普段なら落ち込むことがあってもきちんと気持ちを切り替えられるが、今日はそううまくはいかなかった。

 『素敵な彼氏をつくる』という夢乃にとって最大の目標−−いわば彼女の生き方−−が今日という日に否定されてしまった気がしたからだ。


(いつか運命の人と出会って甘い恋に落ちてみたい。……けど、それってやっぱり少女漫画の世界なのかな)


 かつて幼い頃に読んだ少女漫画。運命の王子様と幸せな恋をするヒロインの姿に、夢乃は強く憧れた。その時に抱いた「自分も素敵な男性と結ばれてみたい。それが女の子の最高の幸せなんだ」という想いは彼女の中で今でも決して色褪せることなく、むしろ彼女の生き方の絶対的な指針となった。もっと綺麗になろうとスタイルやファッションには人一倍気を遣ってきたし、適当な男たちにいくら好意を向けられても、自身の心がときめかなければ全て断ってきた。

 全ては『運命の王子様』と出会うために。


(でも……いつになったらわたしの王子様は現れるんだろう)


 昼間の口論で教授から言われたある言葉が、やけにざらついて夢乃の耳に残っていた。


「いつまでも子供じゃいられないのよ。夢よりも現実を見なさい」


 二十歳を過ぎた頃だろうか。いつのまにか頭の片隅に生まれて、じわじわと大きくなってくる”それ”を夢乃は見ないようにしてきた。”諦め”とか”妥協”とかそんな言葉の類で形容されるその感情を、受け入れ飲み込んでしまったら、今までの自分が死んでしまう気がしたから。

 でも、もうその感情を押し込めておくのは限界なのかもしれない。見ないふりもできないほどに大きくなってしまった”それ”を、今日という日にむざむざと見せつけられた気がした。


「ここらが潮時ってやつ?……ははっ、うける……」


 乾いた自嘲を浮かべておぼつかない足取りで歩を進める。

 まっすぐ家に帰る気にもなれず自暴自棄な感情を持て余すように住宅街を適当にぶらついていたら、知らないうちに随分と人気のないところに来てしまった。

 静まり返った住宅街に伸びる細い道を、古びた街灯が弱々しく照らしている光景は、まるでホラー映画のワンシーンのようだ。

 そしていつの間にか、野球帽をかぶった男が一人、道のど真ん中に立ってじっとこちらを見ていた。

 知らない男だったので無視しようと思ったが、その目が爛々と不気味に光っていたので、夢乃の全身がすぐに危険を感じ取った。


(え、これ、やばい奴じゃない……?)


 どくんと心臓が跳ね、全身から汗がぬるりと吹き出す。

 そういえば最近この辺りで、若い女性が不審者に襲われそうになったという話を聞いたことを今更になって思い出した。

 助けを呼ぼうと喉を震わせようとしたが、声の出し方を忘れたみたいに言葉が出てこない。

 目の前の男は口元を歪ませて気味悪くと笑うと、低くぼそぼそとした声で話しかけてきた。聞き取りにくいはずのその声は、何故か鼓膜にねっとりと張り付くように吸い付いてくる。


「こんばんは。お姉さん、綺麗だね。」

「……ひっ、や……」


 怯えながら顔を引きつらせて精一杯の拒絶を示す。

 蚊の鳴くような悲鳴は夢乃自身でさえあまりにも弱々しく聞こえる。


「ね、俺と遊ぼうよ」


 早足に距離を詰め、襲いかかってくる野球帽の男。

 夢乃は恐怖のあまり逃げ出そうとして後ずさったが、足が絡まってその場に尻餅をついてしまった。

 不思議なことに、もうどうしようもないと心も身体も悟ってしまうと、急に全てがどうでもよくなった。

 自分の人生も、運命の王子様も、仲の良い友人も、尊敬する先輩も、大嫌いな教授も、全部全部どうでもいい。

 そんな諦めの感情が彼女の胸の中をあっという間に埋め尽くす。


「……ほんと、今日はサイアク……」


 絶望の中でそんな言葉がぽつりと漏れた。

 潤んだ瞳からは視界に映る景色全体が歪んで見える。


 その時だった。


「おご!?」


 突如として別の影が夢乃の前に踊り出してきた。

 乱入者は野球帽の男を目掛けて強烈な飛び蹴りを放つ。

 相当な勢いで蹴り飛ばされて、野球帽の男は悶絶しながらアスファルトの上をごろごろと転がっていく。


「え?」


 突然の出来事に混乱して状況が飲み込めないながらも、夢乃はいきなり現れたその人物が自分を助けてくれたのだろうとどうにか推測する。

 全身黒づくめの服なのでわかりにくいが、背格好からすると乱入者はどうやら男のようだ。だが、薄暗いので詳しい情報は全くわからない。

 乱入者はくるりとこちらへ振り返ると、夢乃にゆっくりと歩いてくる。


「え……」


 なんとか落ち着こうとしていた夢乃だったが、街灯に照らし出された乱入者の頭を見てまたも思考が停止する。

 男はその顔にウサギのお面をつけていたからだ。

 縁日の屋台で売っているような安っぽいお面。ポップな絵柄のウサギの顔は白目と白い歯以外は全てが真っ茶色だ。夢乃はそのウサギの顔をどこかで見たことがある気がしたが、やがて子供の頃によく食べていたチョコレート菓子のマスコットキャラクターである『チョコラビ』だと思い出した。

 乱入者はやけにゆったりした動作で夢乃に一礼すると、ウサギのお面越しに彼女をまじまじ見つめる。


「…………」


 夢乃はウサギのお面の男にかける言葉を探していたが、男の方は彼女に何を言うでもなく、身を翻してその場から走り去っていった。


「え、ちょっと!? え!?」


 いつの間に逃げ出したのか、野球帽の男もいなくなっている。住宅街に広がる暗闇を見ると、今目の前で起こった出来事が全て夢か幻だったのではないかとさえ思えてくる。

 だが、彼女の網膜と脳裏に刻まれた光景が、たしかにそれは現実だったのだと確信させる。

 ぽつんと一人残された夢乃は一連の出来事を何度も何度も思い返してみる。

 野球帽の男に襲われた恐怖は、あのウサギのお面の人物の華麗な飛び蹴りが吹き飛ばしてくれた。それだけでなく、夢乃の心を覆っていた重たい感情も一緒に消え去っていた。

 颯爽と自分を助けに現れた謎の人物の姿が目に焼きついて離れない。

 オレンジ色の街灯に照らされるその姿は、夢乃にはスポットライトが当てられた舞台の主役のように感じられた。


「訂正……もしかしたら今日は最高の日かもしれない」


 よろよろと立ち上がると、弱った身体に正気を漲らせるように熱い血潮が瞬時に全身を巡っていく。

 さっきまで全てを諦めていたのが嘘のように、今の夢乃は希望に満ち、興奮し、高揚し、紅潮している。


「いるじゃん……わたしの王子様!!」

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