イマジナリーフレンドへの降下

北見崇史

イマジナリーフレンドへの降下

 息子の病気が治らない。

 六歳の男の子で、夏までは元気いっぱいだったのだけど、秋に入るやいなや寝込んでしまった。熱が上がったり下がったりして、なかなか平常に戻ってくれない。風邪かと思ったけれど、咳やノドの痛み等がないんだ。熱に伴う怠さが重くて、そのために安静にしていなければならない。学校も長く休ませている。

 もちろん、医者には診てもらった。血液検査の結果はたいへん良好であり、臓器を含む身体のどこにも問題ないとのことだ。なんらかの伝染病ではないと問うたが、それも調べたが該当するウイルスや菌は発見できなかった。

 じつは、この症状を知っている。わたしが子供の頃、息子とまったく同じようになった。長期間床に伏せって学校も行けなかった。身体は健康だったのに、なぜか熱と怠さに悩まされた。原因不明のまま部屋で寝ていると、あの子が現れたんだ。

 ほんとうの名前は知らない。わたしは花子ちゃんと呼んでいて、それは当時流行った都市伝説のキャラクターだった。あとで、便所は好きじゃないと煙たそうな顔で言われた。

 花子ちゃんは、わたしにしか見えなかった。いつも部屋の押入れから出てきたんだ。

 一日中寝てばかりで暇なわたしは、花子ちゃんとよくおしゃべりをした。たまに母が部屋に入ってきたけど、わたし以外には見えないイマジナリーフレンドだった。

「誰と話をしていたの」と訊かれたが、わたしは花子ちゃんのことを話さなかった。子供ながらに信じてもらえないと思ったし、なによりも花子ちゃんが嫌がるからだ。わたしたちだけの関係を大事にしたかった。 

 ある時、わたしは花子ちゃんに向かって元気になりたいと言ったんだ。

{芙紗子ちゃんは病気じゃないよ}

「じゃあ、なんなの。ねつがあって、くるしいし、ぜったいに大きなびょうきだよ」

{呪いだよ}

「のろいって、なんなの」

 その当時、まだ小学校の低学年生だったわたしは、呪いということについては無知だった。

{お化けがね}

「おばけなの」

{そうだよ。おっかないお化けが、芙紗子ちゃんを苦しめているの}

 どういうお化けなのかは言わなかった。ただ、恐ろしいことであると感覚的にわかった。なにせ、お化けのような花子ちゃんが言うのだから。

「わたし、シぬの」

{そうだよ}

「ええーっ、やだなあ」

 子供ながらに死にたくはなかった。死んで意識が消滅してしまうことよりも、そうなる時に相当な苦しみや痛みがあると想像できだからだ。

{退治しなきゃね}

「たいじって、オニたいじみたいに」

{そうだよ。お化けの悪霊を退治して、芙紗子ちゃんを助けてあげるよ}

「わたし、シななくていいの」

{そうだよ。でもね}

 ベッドに寄りかかるように花子ちゃんが近づいたんだ。わたしは、なにか悪いことがあるのだろうと覚悟した。

{あたしが死んじゃうんだ}

「ええー、そういうのはいやだなあ」

 自分が助かるために友だちが死んでしまうのは、子供ながらにダメだと思った。

「オニたいじしたら、シななくてもいいっしょ」

 悪いヤツを斃したのに、どうして死んでしまうのか納得がいかなかった。

{芙紗子ちゃん、よ~く覚えておいてね}

 わたしは寝ながら話していた。花子ちゃんの顔が枕に並んでいた。

{あの悪霊を退治するとね、あたしが悪霊になっちゃうんだよ}

「えー、なしてなの~」

{呪いの力が強いからなの。悪霊が死んじゃっても、呪いは生きているんだ。それを受け入れなければならないんだよ}

「なして~」

{あたしが幽霊だからだよ}

 イマジナリーフレンドは幽霊だった。花子ちゃんが枕から顔をあげて、上からわたしを見つめたんだ。

{じゃあね、芙紗子ちゃん。バイバイだよ}

 それからのことはハッキリと憶えていない。急に部屋の中が騒がしくなって、嵐の夜みたくなったんだ。

 いつの間にか眠っていたようで、母に肩を揺さぶられてようやく目覚めた。大地震でもあったかのように、部屋の中がメチャクチャになっていた。棚が倒れて物が散乱していた。お人形の首がとれて、ぬいぐるみは破けていた。

 母は半狂乱だった。

 わたしになにが起こったのかを、それこそ鬼の形相で訊いていたけど、寝ていたので答えようがなかった。

 その出来事から、わたしの病状は劇的に改善した。いままでの発熱がウソだったみたいになくなった。学校へも通えるようになった。

 ただ、花子ちゃんはいなくなった。ほんとうに死んでしまったのかどうかは、わからない。そもそも幽霊の友だちだったので、死という概念が当てはまらないような気がする。正確には消滅だろうか。命がけてわたしを助けてくれた友人を失ってから、四半世紀が経とうとしている。


 息子の病状が、一段と悪くなってきた。小児科に通い続けるが、どんな検査をしても病気を特定できない。医者も首をひねるばかりだ。熱が高いので、ほぼ寝たきりとなった。

「健太のこの病気、芙紗子の小さい時と同じだわ」と言うのは、同居している母だ。いつも孫の心配をしていて、看病も手伝ってくれる。

「芙紗子はおぼえてないと思うけど、ある日ね、あんたの部屋がめちゃくちゃになってしまって、それはもう、ライオンでも暴れたのかってくらいになっちゃって」

 母から、あの日のことを聞くのは初めだった。つとめて、その話題には触れないようにしていたけど、苦しむ孫を見て思うことがあるのだろう。

「そうしたら、あんたの病気がピタリと治ったんだ。不思議なことだったねえ」

 もう話してもいい時だと思った。いまなら、頭から拒絶されることもないだろう。

「お母さん、じつはあの時、友だちが助けてくれたんだ。わたしだけの友だちが押し入れに住んでいて、悪霊から救ってくれたの」

 花子ちゃんという自分にしか見えない友だちがいたこと、わたしの病気は悪霊による呪いであったこと、花子ちゃんが自分の命と引き換えに救ってくれたことを、包み隠さず話した。

 母は何度も頷いて、真剣に聞いてくれた。

「健太にも、悪霊の呪いがかかっているかしら」

「きっと、そうだと思う」

 証拠があるわけではないけれど、間違いないと確信できた。

「だったら、その悪霊を退治すればいいんじゃないの。芙紗子もそれで元気になったんだから」

「悪霊をやっつける方法は、わたしは知らないよ。眠っているうちに花子ちゃんが斃してくれたから」

 その花子ちゃんは消滅してしまった。あれ以来一度も現れていない。イマジナリーフレンドだったといえばそれまでだが、わたしにとっては命の恩人であって、なによりもリアルな友だちだった。

 眉間にシワを寄せて母が考え込んでいる。ハッと、なにかに気づいたようにわたしを見た。少し怖い顔だった。

「霊能力者よ」

「霊能力者?」

「そうよ。青森の真子おばさんを知っているでしょう」

 青森の恐山近くに住んでいる遠い親戚で、霊現象のことには事情通で有名だ。

「すごく力の強い霊能力者を知っているんだって」

「それでどうなるの。だって、花子ちゃんはもういないんだよ」

 たとえ霊と話ができる霊能力者でも、消えてしまった幽霊とは連絡できないだろう。

「相談してみましょう。なんてったって霊能力者なんだから、不可能なこともできるでしょう」

「うん」

 母もわたしも、藁にもすがる思いがあった。たとえその手段が眉唾で、たぶんに都市伝説めいていて、とても費用がかかることであっても、健太の命を失うわけにはいかないんだ。

 母が青森のおばさんに連絡をしてくれた。事情を説明すると向こうは快諾してくれて、力のある霊能力者を連れてきてくれるとのことだ。

 息子の症状が日に日に重くなっている。医者からは、入院するように勧められた。悪霊による呪いは、病院ではどうすることもできない。いたずらに、あの子を苦しませるだけだ。

 早く早くと心待ちにして、頼んでから六日後に、ようやくやって来た。青森のおばさんとは久しぶりに会った。小さいお婆さんが一緒だった。皺がたくさんあって、腰がすごく曲がっている。和服を着ているわけではないが、ほんのりと線香の匂いがした。

「あいさづはいいすけ、まんず、おめのせがれに合わへでけせ」

 挨拶をする前に、そう言われた。ぶっきらぼうだけど、仕事一筋という気がして心強く思った。でも、いちおう挨拶だけはした。母も深々と頭を下げた。

 さっそく家の中に入ってもらった。教えてもいないのに、お婆さんはスタスタと二階へ上がって息子の部屋に行った。わたしと母とおばさんが、後ろについている。

「ああ、これはわがねじゃ。最悪の奴がぐっ付いでら。どうにもならね」

 ベッドで眠っている息子を一目見て、お婆さんが言った。訛りがきつくて聞き取りづらいが、要するに諦めろということか。

「安場の婆ちゃん、いったいなにが憑いているの」

 お婆さんは、安場さんと苗字だ。

 じっと息子を見つめていたお婆さんが、いきなり振り返った。怒っているような、悲しんでいるような、なんだか複雑な表情をしている。

「この霊ぁ、わんどにはどうにもでぎね。人さ払うごどはムリだ」

 絶望的なことを面と向かって言われてしまい、返す言葉はなかった。

「霊能力者にはできないってことなの」

「んだあ」

「じゃあ、誰だったらできるの」

 母がひるまずに訊いた。わたしは答えを知っている。

「それは、霊には霊だあ」

 この人は本物だ。息子にとり憑いているモノを、しっかりと認識しているんだ。

「こいづはタチわりぃ霊で、積み重ねでぎだ呪いがあめぎってら。狂っちまって、やればわがね相手さ呪いかげでらほんじねーだ」

 悪霊を貶していることはわかった。青森のおばさんが通訳するには、狂ってしまって見境なく呪いをかけているらしい。

「このまま放っておいだら、この子ぁ死ぬ。すたども、この悪霊さやっつける霊がいね。かわいそうだんだども、どうすべもね」

「方法はあります」

 そう、ここにはいない。だがしかし、もし花子ちゃんを復活させることができれば、十分に望みはある。凄腕の霊能力者であれば可能かもしれない。

「わたしの小さいころ、同じような悪霊を退治してくれた霊がいました」

 同じような病、というか呪いを受けて難儀したこと、その時命を賭して救ってくれた友だちのことを説明した。お婆さんは、真剣な面持ちで聞いてくれている。

「花子ちゃんを呼び出しもらえれば、息子を苦しめている悪霊をきっと退治してくれるはずです。お願いです、力を貸してください」

 わたしだけではなくて、母も頭を下げている。健太が目を覚まして、小さな瞳で不思議そうに見ていた。呼吸が荒いのは熱が上がっている証拠だ。一秒でも早く楽にしてあげたい。

「すたども、死んだ霊どは話せね。霊も死んだら消滅してまる。いまこごさ呼び出すこどは、どったに偉えイタコでもムリなごどだ」

 絶望が計り知れない。どんなに力のある霊能力者でも、死んだ霊は呼び出せない。花子ちゃんという幽霊は、やっぱりこの世からもあの世からも消えてしまったんだ。

「なあに、そったに落ぢ込むごどもね。向ごうがらは来れねが、だったら、こっちから逢いに行げばいいんだ」

 え?

 どういう意味なの。昔に戻れっていうの。タイムマシンでもない限り、そんなことはできないでしょう。

 お婆さんが振り返って息子を見ている。皺だらけの細い手が、顔をやさしく撫でた。母親のわたしよりも、愛おしく感じるのは気のせいなの。

「安場のお婆ちゃんはね、霊体退行降下術を使える霊能力者なんだよ。たぶん、日本でそれをできる最後の呪術師なんだ」と、青森のおばさんが得意そうに言うんだ。

「霊体、たいこう?こうかじゅつって、なに?」

 母も知らないようで、ポカンとしている。

「おめさんの霊をば、花子がいるどぎに戻すんだ。そいづに悪霊の除霊方法教えでもらえ。おめさんは霊どしてこの世さ残り続げで、悪霊現れだらやっつければいい」

 わたしを幽霊にして、花子ちゃんがいたあの時代に戻すということらしい。そして悪霊退散の方法を受け継いでこの世に存在し続け、わたしが結婚して息子ができて、悪霊がとり憑いたときに退治する、ということだ。

「人はね、霊と肉体がセットになっているんだよ。肉体は時の流れに抗うことはできないけど、霊は移動することができるんだ。戻ることができるの。霊はさ、高次元の力と相互作用することができるんだ。だから」

 青森のおばさんが言うんだけど、なんだかSF小説みたいな話だ。

「すたども、生半可のごどでね」

 お婆さんの表情が厳めしくなった。それはそうだろう。そもそも、霊と肉体を分離なんてできるのだろうか。

「わたしの霊だけを過去に戻したら、現在のわたしはどうなるの」肉体だけの人形ということになってしまう

「はじめは空っぽのままだんだども、だんだんと新しい霊作られる。一年もだでば、ちゃんとした霊になるすけ、心配はいらね」

 それは吉報だ。健太が助かっても、母親が肉体だけの抜け殻では不憫でならない。

「でもさ、過去に戻った芙紗子の霊はどうなるの。健太に憑いた悪霊をやっつけちゃったら、芙紗子の霊が余っちゃうでしょ」

 母は心配するが、そうはならないことを忘れている。

「こいづの霊ぁ、悪霊祓ったら死ぬんだ。心配いらね」

 そうなんだ。悪霊を退治したら、その霊も死んで消滅しなければならない。だって、呪いが乗り移るから。だから、花子ちゃんは現在にはいないんだ。

「ぐずぐずしてられねぞ。呪いがな、もうすぐこの子の命吸い取ってまる」

 やるのか、やらないのか、お婆さんの目が鋭く直視している。もちろん、わたしはすでに決断していた。

「やります。幽霊になって、過去に戻って花子ちゃんに逢います。そして健太が生まれて悪霊に憑かれるまで、ずっと待っています」

 必死で言った。母がわたしの手をつかんで、なんとも切なげな目で見ている。

「芙紗子、もし戻れるのだったら・・・」

「それはダメよ。できないから」

 母の手を振りほどいて距離をとった。それ以上縋っては来なかったが、気持ちは痛いほど伝わってくる。わたしだってそうしたい思いはあるが、最優先は健太の命なんだよ。

「それだば、おめさんば霊にして、幼えごろに戻すが、いいが、これだげはおぼえでおげ」

 皺だらけの手が、わたしの手首をつかんだ。爪が突き刺さって痛かった。

「霊になって体から離れたら、自我というか考え方というか、頭の中がぼんやりしたり、感情が抑えられなくなったりすることがあるの。つねに自分を強く意識していればならない。そして、約束事は必ず守ること。必ずよ」

 その説明は、お婆さんではなくて青森のおばさんが言った。爪は相変わらず強く刺さっていて、血が出るのではないかと不安になった。

「おめさんにはすまねど思う。すたども、これしか方法がね。うまぐいぐごどだげ願う。ほんにすまね。すまんこったあ」

 お婆さんは、すまないを連発している。あまりいい見通しではないなと直感したが、すでに賽は投げられているんだ。

「わんつかの望みだが、見事にやり遂げで、おめのせがれに楽さへでけれ」

 わずかの望みと言われてしまったが、わたしにはやれる自信がある。なぜなら、花子ちゃんだってやれたのだから。

「さあ、やるぜ」

 霊能力者の降下術を受ける時が来た。

 霊になる前に、健太のぬくもりが欲しいと思った。寝ている我が子を抱きしめた。いつものように、ちょっと甘い子供の匂いが心地よかった。将来、どんなふうに育つのだろうか。それを知るのは、新たに造られるわたしの霊であって、霊になろうとする私ではない。

「お母さん」と呼ばれた。

 息子の顔をまじまじと見た。どんなことがあっても忘れないと心に誓い、とびっきりの笑顔を見せてから寝かせつけた。みんなのほうを向いて、準備ができたことを告げた刹那だった。

 雷に打たれたような衝撃が全身に走った。

 うわっ、な、なにっ。

 お婆さんの手が、わたしの胸に突き刺さっている。もう、手首の位置までズブリと埋まっていた。

「ぎゃっ」

 いままで経験したことがない苦しみだ。心臓に激痛があって息ができない。まるで剥き出しの神経を鷲掴みにされているようだ。これは苦しさの極致だ。

 一ミリも身動きできない。わたしの藻掻きにかまわず、お婆さんの手がさらに押しこまれ、しまいには臓器を引き千切るようにして抜きとったんだ。

わっ。

 死んだ、と思った。

 だけど、不思議と痛みが消えていた。

 ハッとして周りを確かめてみると、見覚えのある場所にいた。

 ここは、わたしの部屋だ。しかも子供の時の、なつかしい場所。

おじいちゃんに買ってもらった学習机がある。シールをいっぱい貼ってしまって、お父さんに叱られたっけ。

 ベッドには、小学校低学年のわたしが寝ている。謎の病魔で、いや悪霊の呪いで苦しんでいるわたしだ。

 そう、過去に戻ったんだ。身体が少し浮いているのは、霊体になったからだ。あのお婆さん、やり方はひどかったけど、降下術は成功したようだ。よかった、これで健太を助けられる。

 え。

 な、なに。

 押入れの戸が震えている。カタカタカタカタと、秒速一センチメートルずつ開いているんだ。得体の知れないモノが内側から出てくる気配がして、なんだか怖くなった。じっと見ていると、戸が半分くらい開いたところで止まった。

{芙紗子ちゃん、芙紗子ちゃん}

 女の子の声が、わたしの名前を呼んでいる。聞き覚えがあった。

{花子ちゃんなの}

{そうだよ、芙紗子ちゃん。大人になってるね。大人のりっぱな幽霊だ}

 のっそりと押入れから出てきた女の子は、花子ちゃんだった。わたしの横にきて、上目づかいで見つめている。

{ねえ、どうして幽霊になったの。悪霊の呪いで死んじゃったの。そうならないよう頑張ろうとしていたのに」

 机を指先でトントンと叩いた。子供ながらに粋な仕草だ。

{花子ちゃん、お願いがあるの}

{なあに}

 そう問われて、ふと考えた。わたしは花子ちゃんと、なにがしたいのだろう。

{ええっと、そのう、トランプとか}

{じゃあ、ババ抜きだね}

 ババ抜きは得意じゃない。いつも最後にババを引かされてしまうんだ。

{芙紗子ちゃんの負けだね。いっつも負けるんだ}

 今日こそ勝ちたいのだけど、わたしの気持ちがなにかヘンだ。

{違う違う、遊びに来たんじゃないの。健太を助けるために、花子ちゃんに教えてもらいたいことがあるんだ}

 油断していると、頭の中がすぐにボンヤリとする。霊体になったら、しっかりと集中しなければ自我を見失うと警告されていた。息子の命のことだけを考えなければならない。

{健太という人は。ここにはいないよ}

{健太はわたしの息子よ。これから二十年もしたら生まれてくれるわ}

{幽霊の芙紗子ちゃんは、子供を産めないんだよ}

{わたしは幽霊じゃない}

{あたしと同じ幽霊だよ}

{そうね、ごめんなさい。じつは霊となって、この時代に降りてきたのよ}

 ここに来たいきさつを話した。花子ちゃんは小首をかしげながら聞いてくれている。

{芙紗子ちゃん、悪霊を退治すると、その呪いを受けるんだよ。死ななきゃならないんだよ}

{うん、花子ちゃんがそうしたからわかっている。ほんとうにありがとう}

 わたしを救って、自らは消滅してしまった。感謝してもしきれない。奇跡的にまた逢うことができて、お礼を言えたことがうれしかった。

 花子ちゃんと話したのは少しだけだった。もっともっと伝えたいことがあったが、大人に興味はないのか、会話がそれほど弾まなかった。

 沈黙となったので言うべきことを探していると、花子ちゃんが唐突に言った。

{じゃあ、これから芙紗子ちゃんに憑いている悪霊を退治するね。やり方をしっかりと見ていて}

{いまなの}

{そうだよ}

 すぐにやるとのことだ。わたしは心の準備を急いだ。

{約束してほしいことがあるんだよ}

 花子ちゃんの顔が目の前にある。よく知っているはずなのに、初めて見たような感じがした。

{これからなにがあっても、この部屋から出ないこと}

{ずっと出られないってことなの}

{そうだよ。芙紗子ちゃんの息子ちゃんに憑いている悪霊が現れるまで、絶対に出ちゃダメ}

 離婚してから実家で暮らしていた。ここは子供の時のわたしの部屋であって、将来は健太のものとなる。幽霊のまま二十年以上を待つのはどうなんだろう。

{退屈しそうね}

{退屈はね、ときとして心を蝕むんだよ。芙紗子ちゃんは、そうならなければいいけど}

 花子ちゃんとなら何十年でもいれる。だけど、もうその時が来ているんだ。

{呪いのもとが現れるよ}

 部屋の中に黒い靄が立ち込め始めた。ベッドのわたしは眠っている。ビニールの焼けたような、イヤな臭いがした。

{さようなら芙紗子ちゃん。これ、前にも言ったのかな}

 靄の真っ黒さが増していた。タコのような、木の根っこのようなモノとなり部屋中に触手を伸ばしている。気色悪くて恐ろしくて、まさに悪霊という禍々しさにふさわしい姿だ。こんなもの、どうやって退治できるのだろう。触るのも、おこがましい存在なんだ。

 花子ちゃんが跳び上がった。太い触手の一つにしがみ付き、見かけからは想像できないような剛力で引き千切った。鼓膜を鉄の爪で引っ掻くような呻きが響き、真っ黒いタコの根っこが暴れまわる。粘っこくて、すっごく臭い汁がまき散らされていた。

 部屋の中が大嵐状態となるが、眠っているわたしに被害はない。なにかのバリアが張られているように、触手が当たることはなかった。

 花子ちゃんが大声で唱えている。どこの言葉かわからないが呪文じみていた。さらに両腕を大仰に振っていた。角度のあるエッジの効いた動きで、ダンスという感じではない。陰陽師の映画で知っている気がした。

 真っ黒なタコ根っこが固まっている。プルプルと小刻みに震えているが、強力な呪縛がかかっていて、動きたくとも動けないようだ。

 わたしは憶えていなければならない。これが悪霊を退治する方法なんだ。不思議なことに、集中しなくてもスルスルと頭の中に入ってきた。花子ちゃんの動きを寸分の狂いもなく再現できる。悪霊を消滅する方法論、その回路が確固として出来上がっているんだ。

 花子ちゃんが真っ黒なタコ根っこを喰い始めた。女の子の顔とは思えぬ鬼の形相で、バリバリ、ムシャムシャと強欲の権化のような食欲だった。

 太くて強靭な触手がブチブチと引き抜かれていた。悪霊といえども苦痛を感じるのか、さも苦しそうに呻き、要所要所で悲鳴をあげていた。

 不思議と、恐れの感情がなくなっていた。むしろ爽快感があって、小気味よさもあった。花子ちゃんが悪霊の胴体へ手を突っこんで、掻きまわすように引き千切っていた。もっともっと残虐に引き裂いてしまえと、わたしの心のどこかが踊ってしまっている。

 あっという間に喰い尽くしてしまった。小さな女の子が、口のまわりを臭くて汚らしい汁だらけにして、たいへん下品な{ゲップ}をした。足をハの字に開いて、可愛らしく座っている。ただし、顔というか形相は小学生女子のそれではなくて、どちらかというと、やっぱり鬼だ。

 悪霊をたらふく食べた花子ちゃんの様子がおかしくなっている。身体全体が真っ黒な靄に包まれ始めた。オーラにしては不吉すぎるし、勝利の気合だったら危険すぎる。

 鬼の小さな顔からツノが生えてきた。首の両側からタコ足というか、触手のようなものが伸びてきて、ウネウネと波打っている。悪霊をやっつけたから、そいつの呪いを受けたんだ。こうなるって本人が言っていた。だから、つらすぎる決断をするんだ。

 花子ちゃんが立ちあがった。眠っている幼いわたしを見てから、霊体のわたしと対面した。

 鬼の少女がニヤッと笑った。背筋に氷が貼りつくほど不気味なんだけど、どこか親しさを感じていた。怖いのだけど、心強くもあるんだ。

 花子ちゃんが自身の顔に手をあてた。目玉に指を入れてほじくり出すと、鼻をもぎ取った。下アゴを力まかせに外して引き剥がした。鬼の爪で首の皮を掻き毟り、鎖骨に指をかけてへし折った。胸を何度もぶっ叩き、肋骨を残らず折った。さらに腹の中に手を入れて、ヌメヌメとした内臓を引きずり出している。

 これは自殺だ。

 呪いを一身に受けた花子ちゃんは、自ら死のうとしている。そうすると言っていたし、そうなるのはわかっていたが、そのやり方が凄まじすぎた。

 自分で自分を解体しているんだ。いや、解剖に近い。ひどく残酷で容赦のない行為をしている。こうしないと呪いを消去できないということだ。わたしを救ったあと、こんな壮絶なことをしていたんだ。

 ほとんど骨だけになっていたけど、花子ちゃんはわたしに見せつけている。こうやるんだよと教えるようにゆっくりと、慎重に自らを毟り取っていた。幽霊だから、痛みは感じていないと思いたい。

 最後に、お腹から手を入れて背骨を掴んでいた。もうほとんど骸骨になってしまったので、その表情から感情を読み取ることはできないのだけど、なんだか微笑んでいるようだった。

 つぎの瞬間、背骨が折れて崩れ落ちた。花子ちゃんだった残骸が、黒い湯気を放ちながら蒸発している。完全に消え去ったと同時に母が入ってきて、半狂乱になってわたしを起こした。この大騒ぎのあと、幼きわたしの症状は劇的に良くなり、命が救われた。

 花子ちゃんのもとへ降下して、信じられない光景を見てしまった。これほどまでに凄まじい闘いと自死があったとはゆめにも思わなかった。こうして過去が終わったのだった。

 それからずっと、わたしはわたしの部屋で幼きわたしに寄り添っている。

 イマジナリーフレンドにはなれないが、このまま一緒にいて息子がこの部屋に来るのを待っているんだ。やがて、彼には強力な悪霊が憑くだろう。その時は、花子ちゃんがやったことを再現しなければならない。あの死に様は恐ろしいが、健太のためなら絶対にやり遂げてみせる。

 わたしは、わたしに集中していなければならない。考えることをやめたり、ぼーっとしていると、自分の意思が薄くなってしまうんだ。霊体の気持ちはつねに移り気で、ふわふわとしている。意識して自分を保たなければ、さ迷うだけのバカな幽霊になってしまう。

 時の経過はじつにゆっくりとしていて、わたしは退屈に押しつぶされそうだ。

毎日毎日、なにもすることがなく、ただ部屋の中で浮遊している。成長していくわたしを見守るのも、初めこそ興味深かったがすぐに飽きてしまった。

 外に出てしまいたい欲求に駆られるが、部屋から離れることは花子ちゃんから固く禁じられている。きっと、霊体にとって良くないのだろう。わたしには目的があるから耐えるしかない。今日も昨日も明日も、ただただ浮いているだけで、なんにもできないんだ。

 ああ、もう飽きた。

 じっとしているのは、イヤだイヤだ。

 なにかをしたい。刺激が欲しい。ここから出たい衝動が抑えきれない。ここしばらく集中して考えることが億劫になって、呆然としている。 

 暴れてみたいと衝動が、どうしようもなくわき上がってくる。

 花子ちゃんの、あの闘いが忘れられなくて、毎日毎日思い出している。悪霊を引き裂き、自らも無残な姿へとバラバラにした、あの荒々しさがたまらないんだ。

 ん。

{なにかいる}

 近くで気配がする。

 もの凄く陰気で、しかも存外に邪悪な存在が近くにいる。どこだ、ここか。いいや、弟の部屋からだ。

 じつは、わたしには弟がいたんだ。花子ちゃんに救われた三年後に、同じ症状で寝込んでしまった。日に日に悪化して、入院したが手遅れになって死んでしまった。まだ六歳だった。

 そうだ、そうなんだ。

 彼もまた、悪霊にとり憑かれてしまったんだ。霊能力者を呼んで、母はそのことに気づいた。だから、わたしがこの時代へ降下する前に、退治するように頼んできた。できるのならやってほしいと言われた。ただ、わたしができるのは一回のみなので断った。弟にはすまないけど、息子が一番大事なんだ。

{いやっ、違う。違うだろう}

 いまのわたしにはできる。彼に固執する邪悪な霊をズタズタに引き裂いて、その呪いを断ち切れる。いや、そうしたい。闘いたいんだ。このあり余る霊的なエネルギーを爆発させて、力のかぎり暴れまわりたい。どんなに爽快なことだろう。まさに血が沸騰し肉が躍動する喜びだ。この忌まわしい退屈から解放されて、その絶頂感は至高のものとなるはずだ。

{くうーーーーー}

 もう、居ても立っても居られなくなった。禁忌を犯してまでも、いや、禁じられているからこそ、やり遂げたい気持ちが爆発した。

 わたしの部屋を出て、嬉々として隣の部屋に入った。弟は熱が高いのか、苦しそうに何度も寝返りをうっていた。

{おおー}

 突如として、そいつが現れた。

 たいへん汚らしかった。

 巨大で、茶色い汚物にまみれたヒドデが天井に貼りついていた。体表面が数千匹のミミズに覆われた、見るも毒々しい悪霊だ。ウネウネと、じつに下劣な動きをしていた。そいつが弟にとり憑いている。呪いをかけて殺してしまうんだ。

 ずっと、心の中にわだかまっていた言葉を唱えた。両手を振り回して、花子ちゃんと同じ術をかけた。すると、汚いヒトデが固まって動けなくなった。

 そうしてから飛びついてやった。ミミズだらけのヒトデに腕を突き刺した。激痛なのか無茶苦茶に振り回されたけど、ガッチリと掴んでいるから振り払われることはない。

 もう一方の手も捩じり込んでやった。ドリルみたいに回して、グリグリと内部をえぐった。黄色くて柔らかな中身があふれ出て、表面のミミズが飛び散りながらパンパンと爆発した。悪霊が悶え苦しむ様がすがすがしい。すごく愉快だ。

 とどめなく沸きあがってくる闘争本能を抑えきれない。男でもないのに暴力的になってしまい、至高の喜びを感じてしまう。これは霊体が得ることのできる唯一の快楽なのだと納得した。だから止めることができない。確固たる残虐が心地よくて仕方ないんだ。

 汚らしい悪霊をバラバラにしてやった。お腹はすいていなかったが、衝動が命じるまま喰った。味はわからない。気色悪さよりも、むしょうに獲物を咀嚼したかったんだ。さんざんに噛み千切って、喰い散らかして満足した。なんとも言えない高揚感に満たされて、麻薬的な悦楽に浸っていた。

 弟にとり憑いた悪霊をメタクソにして喰ったので、わたしは呪われることになった。でも、自身を引き裂いて消滅するわけにはいかない。将来生まれてくる息子のために存在し続けるのだ。だから、あの部屋に戻って、その時をじっと待っている。待ち続けているんだ。

 ああ。

 呪いが、わたしを蝕んでいる。ひどく不快で、耐えがたき苦痛が内側から沸き上がっている。心のすごく柔らかくて清潔な領域に、汚濁にまみれたミミズが何万匹と繁殖していた。痛みよりも、この不快さがたまらなく苦しい。これは、まさに呪いだ。 

 どうして、わたしがこんな目に遭わなければならないんだ。なぜだか忘れたが、部屋に閉じこもって時を待つしかない。こんなせまっ苦しい空間で、いつまでも、いつまでも待たなきゃならない。どうしてだか知らないけれど、わたしは待つんだ。もう目的が思い出せないけれど、そうしなければならない。きっと呪いがかかっているのだろう。末恐ろしい呪いなんだ。

 わたしは、なんと不幸なんだ。誰がこのような運命を強いたんだ。

 憎い。憎くて憎くて、恨んでも恨みきれない。

 誰かを恨んでやろう。誰かを呪ってやるんだ。わたしが受け続けている苦悶を晴らすための犠牲になってもらう。絶対に、そうしてやる。

 誰をやろうか。この部屋にいる女の子か。もうすぐ中学生の生意気な恩知らずだ。不貞腐れたガキに育ってしまった。死ぬ目に遭わせてやろうか。殺してやるか。

 いや、こいつは一度とり憑かれている。二度やっても面白くない。呪いはか弱くて、誰もが失いたくない者に覆いかぶせるのが豪気なんだ。

 そう。

 こいつの子供を呪ってやる。いつか生まれる子供がもっとも可愛いく成長したところで、とっておきの絶望を味あわせてやろう。

 愛してやまない者の喪失に泣き崩れる姿、悲観に暮れる様が、くっさいミミズだらけになったわたしの、唯一の楽しみであり、なによりも慰めとなるんだ。

 ひひ、ひひひひひ。

 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

イマジナリーフレンドへの降下 北見崇史 @dvdloto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ