第12話 笑いの中で

休憩室の薄明かりがやわらかく包む中、麻生は肩越しに差し出された試供品のパウチを受け取った。透明な袋の中には、三日分のダイエットサプリメント。新しくリニューアルされたらしいパッケージが、光を受けて控えめに煌めいている。


「それ、今リニューアル中のやつじゃん?ねえ麻生さん、一番“効きそうな人”にプレゼント〜!はいどうぞ〜!」


同僚の声は明るく、軽やかだ。だが、その明るさの奥には、無意識のうちに彼女の心に針のように刺さる言葉が隠されていた。


麻生は一瞬、口元を緩ませたものの、内心は複雑だった。


――私が一番効きそう、か。


目の前の三袋は確かに、商品が誇る効能の象徴だった。だが、それが麻生に向けられた「太っている」という暗黙の評価のように感じられて、胸の奥が少し痛んだ。


「ほんとだよ、冗談抜きで。3袋セットの定期コースでいっちゃえば?ほら、“お得なまとめ買いで効果実感!”って、そう書いてあったし」


同僚の笑顔は優しい。だが、麻生には、その笑顔がどこか遠くて冷たい壁のように映った。彼女たちは無邪気に話すけれど、その言葉は麻生の心の鏡に、映り込み続けている。


「それ、ちょっと、商品名に失礼じゃない?ちゃんと真面目に作ってるんだから。じゃ、みんなの分も飲まなきゃね」


室内に響く笑い声。重ねて飛んでくる軽口。誰も悪意はない。


空気は穏やかで、休憩室の時計の針は、ほんの少しだけゆっくりと動いているようだった。


麻生は笑顔を崩さず、そっとサンプルを自分のロッカーにしまう。小さな「ありがとう」の言葉を喉の奥から絞り出す。けれど、その声の裏側で何かが小さく引っかかる。


――私は、見た目で判断される存在なのだ。


その一言で、世界がぎゅっと締め付けられるような気がした。


「太っている」というたった一語で、数え切れないほどの感情が押し流されてしまう。


自分でも分かっている。食べる量も、運動不足も。鏡をのぞくたびに、どう見ても痩せてはいないことを。


それでも、誰かに指摘されることは、どうしようもなく苦しいのだ。


だから麻生は、笑って受け流すしかなかった。


ヘッドセットの向こうからは、相変わらず忙しなく鳴る着信音と、やわらかな人の声が届く。受話器の先の誰も、麻生の姿を知らない。見えないからこそ、声だけで「誰か」になれる。


見た目の劣等感も、笑われる痛みも、そこにはない。声だけが麻生を解放し、彼女に新たな自信を与えてくれた。


麻生はもう一度、口角を上げる。


笑っていれば、空気は乱れない。


空気を守れば、仕事は円く回る。


それが、今の麻生にできることだった。


――それでも時折、ふとした拍子に、心の奥底で波が立つ。


別の誰かの視線を感じた途端、心がぎゅっと縮こまり、声が震えそうになる。自信など、紙のように薄くて脆いのだと痛感する。


だけど、そのたびに麻生は「声」に立ち返る。


言葉を届けるたび、相手の笑顔を思い浮かべるたび、声の中にだけ確かにある自分に気づく。


「声は姿を持たない分、本質が出るのかもしれないね」


かつて、教育担当の石井が言った言葉が、今もふとしたときに蘇る。


麻生はそれを、静かに心の中で繰り返す。


「私も、そんな声になれているかな」


そう問いかけながら、いつも通りヘッドセットを装着した。


カチリ、と小さな音がして、麻生の一日がまた静かに動き出す。


見えないけれど、確かに届く声を携えて。


ー第十二話 了ー

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