第11話 スナッチの光景
その日、電話は朝から途切れることがなかった。
まるで何かのスイッチが入ったように、数秒と空けずに次のコールが響く。
キャンペーンの影響か、あるいはテレビCMの放映直後だったのかもしれない。どの端末からも一斉に音が重なり合い、室内の空気は、緊張と熱気でむせ返るようだった。
麻生は落ち着いた手つきで、通話のボタンを押した。
「お電話ありがとうございます。株式会社エースケア、麻生でございます。恐れ入りますが、ただいま電話が大変混み合っておりまして、受付順に折り返しのご連絡を行っております。お名前とお電話番号、それから本日のご用件をお伺いいたします。」
それは「スナッチ」と呼ばれる対応だった。
殺到する入電にすべて即時対応することはできない。かといって放置もできない。だから一時的に用件を預かり、後ほど担当者から丁寧に折り返す。この対応は、緊急時の生命線であり、現場の柔軟さと冷静さが試される場でもある。
「はい、お名前は…〇〇様ですね。お電話番号、復唱いたします…090の…」
麻生の指はキーボードの上を滑るように動き、手元のスプレッドシートに情報が打ち込まれていく。
「ご用件は…あ、CMをご覧になってお電話いただいたんですね。ありがとうございます」
決まりきったフレーズのはずなのに、不思議と心に沁みてくる。
まるで、自分が“受付”ではなく、“案内人”に戻ったような感覚だった。
「ありがとうございます。後ほど順番にご連絡いたしますので電話をお切りになってお待ちくださいませ」
ひとつの会話は一分にも満たない。
だが、ほんのわずかな沈黙や声の震え、語尾の優しさが、電話越しでもはっきりと伝わる。
麻生は、スナッチという行為が、ただの一次受けではないことを知っていた。
それは「今、あなたの声を、確かに聞いています」と示す行為。
たとえ次の誰かにバトンを渡すだけでも、その瞬間に相手の不安や苛立ちが少しでも和らげば、それだけで意味があるのだ。
──声を届ける。名前を預かる。情報を正確に残す。
そのひとつひとつに、「人」としての重さがある。
ふと、マイクの向こうで聞こえた年配の女性の声が、こう言った。
「今朝から何度もかけてたの。やっとつながって嬉しいわ」
「お待たせしてしまって申し訳ございません。お声が聞けて、こちらも嬉しいです」
自然と出た言葉だった。作り物ではない、自分の気持ち。
麻生はふと思った。
自分は“つなぐ”ためにここにいるのだ、と。
数年前、ある出来事のあと、声を出すことすら辛いと感じた日々。
マイクの前に立ち直ったときのあの一歩。
今、スナッチ対応のなかで、ようやくその一歩の意味を理解できたような気がしていた。
──声が届くということは、命が届くということ。
その命のリレーが、今日もここで繰り返されている。
次の着信が鳴る。時計を見ると、もう夕方に差し掛かっていた。耳にはほんの少し疲労が蓄積し、目の奥が熱い。
けれど、麻生は背筋を伸ばして言った。
「お電話ありがとうございます。ただいま大変混み合っておりまして…」
その声は、決して機械的ではなかった。
一本の糸のように、確かに誰かの心へと向かっていた。
たとえその糸の先が、見えなくても。
ー第十一話 了ー
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