メモをしない新人

広川朔二

メモをしない新人

四月、薄曇りの朝。やけに強く吹いた向かい風の中、真島が出社したオフィスの空気には、春特有の緩さと、年度初めの緊張感が同居していた。


「今日から配属される新人、“あの”常務のお身内なんだってさ」


そんな噂が部内を駆け巡っていたが、真島はそれを気にすることなく、いつも通り出社し、デスクの端に置かれたマニュアルのファイルを手に取った。


「佐野です。大学では経済学を学んでいました」


その後の朝礼で紹介されたのは黒髪をまとめた、細身の若い女性。必要最低限の挨拶でぺこりと軽く頭を下げた彼女の挨拶はその場を仕切っていた部長を少し困惑させた。


——“よろしくお願いします。”ある種のテンプレートともいえるその一言がなかったのだ。


彼女のコネと噂される常務はいわゆる悪い昭和の風習をそのままに今のポジションにいる人物だ。パワハラやセクハラは一時よりだいぶ影を薄めたが、未だにコンプライアンス研修なんて無駄だという時代遅れな存在で社内からは随分と煙たがられている。


自身も何度か嫌味を言われたことを思い出し、眉を顰めてパソコンに向かった。


何事もなく昼休憩になり、昼食を買いに行こうとしたその時だった。


「真島くん、あの子の教育お願いしてもいいかな」


「え?教育って吉野さんがするって話でしたよね?」


自身もこの部署にきたばかりの時にお世話になった部署の生き字引、ベテラン事務社員の吉野さん。他部署からは「お局」と囁かれることもあるが同じ部署で仕事を経験をしたことがあればそんなことはないと皆が声を揃える人物だ。


「いやぁ、常務からバリバリ働く男性社員に教育を任せたいって横やりが入ってさ」


「いやいや、基本の事務作業を覚えなきゃどうしようもないじゃないですか」


「そこをなんとか。頼むよ、真島くん。君なら上手くやれると思うからさ」


課長のその一言で、新人・佐野結月を担当することになった。新人教育を任せるからと仕事を減らされれば文句も言えなかった。


「じゃあ、今日からよろしくね。最初は覚えること多いけど、わからないことは遠慮なく聞いて」


「はい。がんばります」


やはり彼女の言葉に何か違和感があった。返事だけはちゃんとするものの、その瞳には若者特有のナニカが存在しない気がした。


そして数日後。真島は佐野結月の本性の一旦を垣間見た。


「えっと、この作業ってどうするんでしたっけ?」


「それ、一昨日説明したよね? 最初に渡したマニュアルにも書いてあるし、話した内容も同じだけど……」


「あっ、すみません。あの、ちょっと忘れちゃって……」


最初はよくある“新人あるある”だと思った。社会人になりたてなら緊張もするし、頭に入らないこともある。だからこそ、真島は極力やさしく、丁寧に繰り返し説明した。


だが、同じ質問が四回、五回と続いた。


ある日、業務フローの説明が一段落したタイミングで、真島は軽く問いかけた。


「ところで、結月さん。いま説明したこと、メモ取ってる?」


「あ、はい。一応……」


教育の間、メモを開いていたが、どうにもページを捲っていることを見たことがなかったのだ。


「一応見せてもらえる?」

そう言って、小さなノートを見せてもらうと、そこには、ただ「やる」「チェック」などの曖昧な単語が数行だけ。業務に必要な手順や注意点などは、一切書かれていなかった。


「……それ、何を意味してるの?」


「え、あの……とりあえずキーワードだけ……」


言葉を濁す様子に、真島は胸の奥で小さくため息をついた。だが、声を荒げたりはしなかった。


「うん、でもそのメモじゃ、たぶんまた忘れると思うよ。ポイントをもう少しちゃんと書いた方がいいかな」


「す、すみません……」


顔を伏せたまま、彼女は謝った。しかし、その姿にはどこか“反省しているふり”のような薄っぺらさがあった。


それからさらに数日が過ぎた。


「この業務の手順、覚えられた?」


「……すみません、ちょっと……」


真島は再びノートを見せてもらった。そこに書かれていたのは、前回とほとんど変わらない内容だった。改善の気配は、皆無。


「結月さん。なんで、ちゃんとメモ取らなかったの?」


「……あの、すみません」


「いや、謝らなくていいよ。理由が聞きたいだけだから」


「…………すみません」


真島は、そのままそれ以上何も言わなかった。ただ、心の中で、何かがすっと冷めていくのを感じていた。





「……真島くん、ちょっといいかな?」


昼休み前、課長が個室に呼び出してきた。昼食の誘いかと思ったが、雰囲気が妙に重い。


「はい、どうかしましたか?」


課長は椅子に腰を下ろし、少し間を置いてから口を開いた。


「……新人の佐野さんから、“指導中に強い言い方をされて怖かった”って相談があってね」


真島は一瞬、意味がわからなかった。


「……強い言い方?」


「あくまで“感じた”って話なんだけど、ちょっと気をつけてやってくれるかな。特に“なんでできないの?”みたいな言い方は、最近はパワハラに受け取られやすくてね」


(……“なんでできないの?”なんて、言った覚えない)


「とはいえ、君からも話を聞きたいんだ。こうは言ったけど、君がそんなことを言うとは思えないし、実際遠目から見ててもそんな感じでもなかったし」


真島は佐野結月の業務態度について課長へ細かに説明した。また、彼らは密室にいたわけでもないので同僚の証言もあり、この件は「佐野結月の勘違い」ということでまとまった。


だがその翌日から、真島は佐野の指導を外れた。これは真島が言い出したことでもある。


「何度説明しても覚えてもらえないなら、私の教え方に問題があるのかもしれません。彼女の為にもなりませんから」


「業務説明はチームで分担する形にしましょう」


課長の提案という形で、毎日持ち回りで先輩たちが佐野に業務を教える体制が始まった。


最初に担当したのは、同僚の西崎だった。


「いやー、正直どういう子か分からんわ。ずっと曖昧な相槌だけだし、説明の途中でスマホ見てたし」


次は先輩の有村。


「メモ取ってるフリしてたけど、こっそり見たら“おつかれさまです”って三回くらい書いてあったよ。何の練習?」


それでも、誰も怒らなかった。誰も声を荒げたり、見下したりしなかった。


ただ、一日の終わりに、全員が同じように静かに尋ねる。


「佐野さん、今日の説明、メモ取ってたよね? ちょっと見せてくれる?」


「……あの、すみません。ちょっとまとめきれなくて……」


毎回、同じような返答。理由は言わない。ただ謝るだけ。


ある日の午後、有村がぽつりと言った。


「……あの子、自分で成長する気、あると思う?」


誰も、すぐには答えなかった。


そして決定的だったのは、ある日の帰り道。佐野が友人らしき人物との駅での立ち話を同僚数人聞いたことだった。


——おじさんのコネで入ったら楽できると思ったのに、あれやれ、これやれ、覚えろってマジうっさいんだよね。


その話が広まると、さすがに課長も見放したのか佐野には単純作業だけが割り当てられるようになった。データ入力、郵送物の仕分け、電話の取次ぎ。そこにミスがあっても、誰も怒らなかった。ただ、「次は気をつけようね」とだけ言った。


それでも彼女の態度が変わることはなかった。仕事中もスマホをチラ見し、ため息をつきながら椅子にもたれている姿が目立つようになった。


そして数日後。佐野結月の姿は、部署から消えていた。


何日か欠勤をしたかと思えば鶴の一声の異動辞令。だが、その理由について、誰も尋ねようとはしなかった。


だが、ひとつだけ確かなことがあった。


彼女がいなくなった日、誰の顔にも、寂しさの色はなかった。




社内内線に、真島宛の呼び出しが鳴る。発信元は、総務部の応接室だった。


「失礼します。真島です」


応接室に入った途端、空気が変わった。革張りのソファには、スーツ姿の男がふんぞり返っていた。常務・佐野仁志。結月の親戚にして、会社上層部でも特に“腫れ物”扱いされている人物。


「お前が真島か」


「はい、営業推進課の真島です」


「……どういう教育してんだ、ああ?」


いきなり怒鳴られた。語調は怒りを通り越し、もはや“親族の面子を潰された私怨”だった。


「うちの結月はな、大学でも評判よかったんだぞ。お前らの指導が悪いんじゃないのか?」


「……彼女の教育は、部署全体で分担しておりました。私一人が何かをした事実もございません」


「ふざけるなよ、聞いてるんだよ、全部。冷遇して、単純作業ばっかやらせてよ!」


怒号が響く。だが、真島の表情は変わらなかった。


「ご指摘の件、上司を通して正式にご意見いただければ、部署全体で精査いたします」


「お前、何様のつもりだ……!」


常務は机を叩いて立ち上がった。目は血走り、顔は真っ赤に染まっていた。だがその時、応接室の隅にいた総務部長が静かに口を挟んだ。


「佐野常務。以後のやり取りにつきましては、コンプライアンス部門を通していただくことになります」


「……なんだと?」


「本日のご発言はすべて、社内手続きに従って記録されております。お忘れなきように」


その瞬間、常務の顔に浮かんだのは、怒りではなかった。“自分が会社という巨大な組織の中では、もはや絶対ではない”と気づいた男の、浅ましい戸惑いだった。


したたかに笑みを浮かべる総務部長。


——一連の騒動、そもそも佐野結月を入社させることもうちの部署に配属するのもこの人が関わっていたはずだ。そういえばうちの部長は総務部長と大学が同じじゃなかったか…。


「常務、パワハラやらかしたらしいよ」

「パワハラ音声が録音されてたって」


常務は沈黙を決め込んだが、やはり何かの力が働いたのだろう。


佐野結月は、その後しばらく会社に姿を見せなかった。無断欠勤とも報告されず、出勤記録だけが淡々と“空白”を刻んでいった。


そしてある日、社内ネットワークの掲示板に一通の辞令が掲載された。


「佐野結月:一身上の都合により退職」


それは、静かすぎる幕引きだった。真島は、その報を見て、ただ一度だけ深く息を吐いた。


あの子が変わる機会は、いくらでもあった。それを投げ捨てたのは彼女自身だ。何かに利用されるための入社だったとしても、彼女自身に問題がなければこうはならなかったはずだ。





佐野結月の退職から一か月。彼女の名前は、もう社内の誰の口にも上らなくなっていた。だが、忘れ去られたわけではない。あの一件は、社内の“ある種の転換点”として、静かに記憶に刻まれ続けている。


昼休み。社食で西崎がぽつりと漏らした。


「常務、地方の関連会社に“出向”決まったらしいよ。名目は“体調考慮”だって。親会社も一枚かんでるって話だよ」


「そりゃまあ、あれだけ暴れればね……」


有村が冷ややかに言った。


「しかも、異動前に“録音を違法だ”って騒いで抗議したらしいよ。全部、社内規定に則って記録されてたのに」


「それ、パワハラ研修で最初に教えられるやつじゃん……」


軽く笑いが漏れる。誰も彼を哀れんではいなかった。


真島は、一人で書類整理をしていた。ふと、書棚の奥から、あの頃使っていた新人教育マニュアルが出てきた。


彼女のメモの記憶が蘇る。


(……せめて、一行でも自分の言葉で何か書いてあったらな)


誰も完璧を求めていたわけではなかった。ただ、“学ぼうとする意志”が、見えなかった。机の脇にマニュアルを静かに置いたまま、真島はコーヒーを淹れに給湯室へ向かった。


「真島さん、聞きました?今度の中途で一人うちに入るらしいですけど、割と優秀らしいですよ」


西崎が資料を抱えて話しかけてきた。


「まあ……“話を聞く耳”があるだけで十分だよ」


そう言って、肩をすくめながら笑う。


「一周回って、それが一番ありがたいんですよ、マジで」


真島も小さく笑った。


新しい春。人が育つには、努力だけじゃなく、周囲の支えと、そして本人の覚悟がいる。それがなければ、どんな“コネ”も、“肩書”も、ただの飾りだ。


風はもう、違う方向に吹いていた。

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