第5話 旅は道連れ その一
「良い温泉をありがと〜 絶対また来るからね〜」
翌日の午前八時過ぎ。
隼人とつばめは、伊豆半島の東海岸沿いを南下していた。
目的地は伊豆半島の南端に位置する下田市。観光道路でもある国道135号を、昨日より雲が多い中を走っている。
割合は雲が七で、晴れ間が三くらい。
雲優勢の道中で二人は、熱海市と伊東市の境の標識を越えた。
そのタイミングでつばめは左後ろを振り返り、左腕を振って熱海市に声掛けしたのだった。
普通なら恥ずかしさなどが勝り、ためらうような事であってもつばめは、これと決めたら迷う事なく遂行する。
良くも悪くも箱入り娘。
世間知らずの一面もある恋人の様子を隼人は、バイザーに投影される映像で確認しながら、心中でやれやれと呟く。
幼い娘を持つ父親の気持ち。これが分かったような気がした。
「今度は花火がある時に来ようよ」
ご満悦のつばめが隼人に語りかける。
その言葉に隼人は、二人の思い出を振り返った。
百歩どころか、千歩譲ったところで普通の恋人同士の間柄とは程遠い。
駆け落ち計画を遂行するに当たって、藤倉家や許婚に二人の関係を察知されてはならない。
普通の恋人同士なら当たり前にやっている事を二人は、特殊な事情から一つも行う事が出来なかった。
花火デートもその内の一つである。
「言われてみれば、花火はまだだったな」
つばめと手を繋ぎ、肩を寄せ合いながら花火を見る。
拒否する理由など皆無だ。
間を置かずに隼人は答えを返す。
「いつかお前と一緒に眺めたいものだ」
「絶対に次はそうしようよ」
「絶対か……花火大会の日に予約を取るのはかなり難しいだろうが、やらない事には見れないからな」
「一昨日のような、露天風呂つきの個室から眺められたら最高だね」
「ま、まぁ、それは確かに出来たら最高だな」
特別な日に、人気がありそうな部屋を押さえるのがどれだけ難しいか。
直接の言及は避けたものの隼人は、あまりの難易度の高さに『出来たら』の部分を僅かに強調させた。
一年に十回以上も開催される花火大会もそうだが、熱海を語る上で絶対に外せないのが温泉だ。
全国でも屈指の歴史と湧出量を誇り、大手旅行会社の予約数日本一。更には一般家庭にも温泉を引けるなど。日本でも有数の規模を誇る温泉郷である。
常識の範囲から通好みの内容まで。
昨日つばめは、熱海温泉の雑学をカメラの前で語り尽くした。
それだけでなく、自らの身をもって温泉を堪能した後で、この動画は伊豆半島縦断一泊二日にしない? と、浴衣姿でつばめは、マッサージチェアで凝りを解していた隼人に案を提示してきたのだ。
おおおおお……
相棒の案に隼人は、両肩を機械で叩かれながら思案した。
伊豆半島に出入りする為の道路は限られている。
敵の本拠から日帰りで行ける距離だ。
もし連中に居場所を特定されていたとしたら、その全てに人員を配置するのは、それほど難しい事ではないだろう。
伊豆半島の先端まで行って、戻って来る間に包囲網が形成されてしまう。その危険な可能性を隼人は、痛気持ち良さを感じながら懸念した。
その危惧はつばめも抱いていた。
隣のマッサージチェアに腰掛け、必要な量の百円玉を投入させながら、何が何でも強行するのは止めようと言ったからだ。
あ、これ気持ちいい……
尾行と思しき車などがあったら、すぐに取り止めにする。下田での滞在も日帰りで済ませ、沼津や富士辺りで宿泊しよう。
計算され尽くした、機械による揉みほぐしを堪能しながらつばめはそう言った。
動画の撮影もこなしつつ、たった一日で伊豆半島一周に匹敵するくらいの距離を走る。排気量1300ccのバイクであっても忙しない行程である。
しかしこれも、最愛の女と添い遂げる為に必要な事だ。
隼人はそう自らに言い聞かせた。
効くぅ……
ちょうど良い力で腰を揉まれながら。
昨日の温泉とマッサージ。美味しい食事に寝心地抜群の布団。
それらのおかげか。寝起きから体調が絶好調の隼人が握るハンドルの中間には、アクションカメラと、それを固定するためのバーが設置されていた。
アクションカメラは、携帯バッテリーにケーブルで繋がっているので、バッテリー切れの心配は無い。
隼人とつばめのチャンネルには、バイク走行時の光景を撮影し、ノーカットで流すサブチャンネルも存在している。
登録者数も再生数も、メインチャンネルには及ばないが、収益化はしっかり果たせているので問題は無い。
「夢のある未来の話も良いが、泊まる場所はどうする? 今日の予定が未定だけに何も決めていないが……」
「……下田に行くか。引き返すか。どちらにしても、今日は沼津とか静岡とかになるだろうから。今の時期の平日なら、どこへ行ってもホテルが満室だらけって事はないでしょ」
「まぁ、そうだろうな」
「だから今決めなくてもいいと思う。気ままに行こうよ」
「お前らしいな。撮影したいところがあれば言ってくれ。いつでも……お?」
スマートフォンがメールの着信を、振動する事で隼人に伝える。
昨日の夜に動画を一本上げたタイミングから考えて、送り主の目星を隼人は一瞬でつけた。
「どうかした?」
上半身を左に傾けて問いかけるつばめの姿が、ミラーとバイザーの映像に映る。
「いや、スマホに着信が来ただけだ。多分親父だろう」
「お義父さんから?」
「ああ。おそらく」
進行方向左手には道の駅があったが、つばめから何の申告も無かったので隼人は、立ち寄らずにそのままバイクを進める。
「あれ? 返信しないの?」
「昨日の夜に動画を上げたからな。タイミングからしてその感想とかだろう。休憩するには早いし、先はまだ長い。次の休憩場所で返信する」
「隼人がそれならそれで良いけど。……お義父さんは次、夏の休暇で帰ってくるのでしょ? 早く会いたいな」
つばめの声には、義父への厚い信頼が込められていた。
信頼と血の繋がりに絶対は無い。
血が繋がっていても人間関係は壊れる。
血の繋がりが無くても、強固な人間関係を築く事が出来る。
奇しくもその事は、つばめと藤倉家の関係と、つばめと高橋家の関係がそれぞれ証明している。
生き証人であるつばめの声に隼人は、優しさや信頼、感謝など。人間の美徳の重要性を再認識した。
隼人の父親は警察官だが、今はとある国の日本大使館で、警備対策官として勤務している。
隼人がつばめと交際を始めたのと、父親の海外赴任が決定したのは同時期だった。
隼人の父親は、初対面の時からつばめを気に入っていた。
彼女の境遇を聞いた時の、藤倉家と許婚への激昂ぶりは、隼人ですら初めて見る父親の姿であった。
隼人とつばめでひたすら宥めた。
思えばあれが初めての、二人の共同作業だった。
隼人はそう考えている。
「俺は一人っ子だ。親父はつばめを、実の娘同然に思っているからな。向こうもほとんど同じだ。……というか、俺よりも確実につばめを可愛がっていやがる」
赤信号で隼人はバイクを止めた。
言葉では父親に噛みつくも、隼人もまた深く父親を信頼している。隼人の言葉と心はちぐはぐだった。
「こらこら。息子にそんな事言われたら、お義父さん泣いちゃうわよ」
「あの親父がその程度で泣くタマかよ」
「……思えないね」
「だろ」
「凄くタフな人だからね。それに四十過ぎとは思えないくらいに若々しいし」
「子供っぽいとも言える。だからこそ手を焼くというか。……今の生活の許可を求めようとした時も大変だった……」
忘れようのない過去を振り返る隼人は、青信号に変わった事に気がつかなかった。
「隼人。信号青」
「おっと。すまん」
ため息を一つ吐いて隼人はバイクを発進させる。
「……そうだったよね。二人の為なら俺は警察を辞める! って、本気で言い出した時はびっくりしたよ。私たちの為に、お義父さんの人生を狂わせる訳にはいかないからね」
海外にいては二人を守れない。
俺は今すぐ警察を退職して、お前たちをを守るぞ!
そう言い放った時もまた、隼人とつばめは懸命に説得し続け、何とか思い止まらせる事が出来た。
駆け落ちを猛反対される事を前提に、それをいかに説き伏せるかを二人で考えていただけに、全くの想定外だった。
張本人も含め、今となっては三人の中での笑い話である。
「今にして思うと滅茶苦茶だ」
「流石にそれ自体は否定出来ないけど、でもそんなお義父さんだから信頼出来るよ。私たちを本当に想ってくれているのが、あの一件で分かったから……」
つばめは一呼吸挟んで続ける。
「その事もそうだし、何よりご両親には、隼人を生んでくれた事に最も感謝しているの。それが無かったら、今の私の幸せは存在しないから」
「……それは俺も同じだ。白バイ警官だった親父がいなければ俺がバイクレーサーになる事はなかったし、つばめと出会う事は無かったからな」
親父がいたから今の俺がいる。
望む未来へ進むのも大事だが、立ち止まって地歩を固めるのも大事だと。
つばめの言葉を受けて、隼人の心中で変化が生じる。
「隼人……」
元より上機嫌だった事もあって、感極まったつばめの想いが声に乗っている。
「少し喉が渇いた。次にコンビニとかがあれば寄ろう。ついでにそこで親父に返信する」
「素直じゃないね。……でもそうしよ。私もお義父さんに返信したい。このすぐ先にコンビニがあるから。……いつかお義父さんと一緒に三人で温泉に行ったり、花火を見ようよ」
「……そうだな」
ずば抜けた記憶力のつばめが言う通り、隼人は近くにあったコンビニに入った。
トイレや水分補給を兼ねつつ二人はそれぞれメールを、隼人の父親である高橋直也宛に送信した。
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