噓と秘密の告白③

 早川さんと久々に昼休みを一緒に過ごした翌日。

 昨日の暑さが嘘のような過ごしやすい気候の中、登校して教室に入ると朝から騒がしい一団が目に入ってきた。


「いやー、これだけ大切にされてると分かると? ちょっと許してやってもいいっていうか? やっぱ一番って言われちゃうと愛されてるって実感しちゃうなー!」

「ひーちゃん、それ昨日も聞いたー。もっと別の面白い話してー」

「諦めなさい、紬。3日は惚気のろけてくるから、聞き流すようにした方が楽よ」

「でもいいなー、そのネックレス。ウチもカレシ欲しくなってきたかもー」


 昨日までとは打って変わってご機嫌な様子の田中さんの話を、疲れた様子の早川さんと白石さん、なんかクッキー食べてる黒石さんが聞いていた。聞き流していた、という方が正しいかもしれない。


 あの後、早川さんと別れて教室に戻ってきたら、田中さんはこんな感じですっかりご機嫌になっていた。早川さんが言っていたようにカレシと上手いことよりを戻せたようだ。プレゼントされたネックレスを見せびらかしながら教室中に聞こえる声で言っていたので、聞きたくて聞いたわけじゃないとは言っておく。


 もっとも、昨日聞いたグループ内のこととか、田中さんのカレシのこととか、そのネックレスはゴールデンウィークのときに見かけたけど1000円もしなかった気がすることとかを考えると、いつまで持つかは分からないところがあるが……


 それでも早川さんと険悪な空気になりかかったことや、今日もチャイムが鳴るギリギリで教室に入ってきた丸内くんのことを気に留めていないのは、一時的なものだろうと平和が訪れたことを実感させてくれる。久しぶりに我がクラスの空気は最悪の状態から脱していた。


 懐かしい穏やかな日々を噛みしめながら過ごしていると、気が付けば4時間目。芸術の授業の時間となったので、俺は空気の良くなった教室を出て旧校舎1階にある美術室へと移動する。


「じゃあ、適当に二人組になってお互いをスケッチしろー。終わったら先生に見せるようになー」


 授業開始のチャイムとほぼ同時に、白髪の男性教員がやる気のない声でそう告げる。いくつかのクラスが混じった生徒たちも、それを聞いてから思い思いに授業内容をこなすための準備を始めた。


 この学校は進学校なのもあって、主要5教科以外はあまり力を入れていない。最低限のカリキュラムこそこなすものの、それ以上は必要ないと言わんばかりに平然と授業が置き換わることも多かった。特に来週からの試験準備期間は、学生からも試験が行われる教科を優先してほしいというのもあり、まず別教科に代わることになるだろう。そんなわけなので教師の方もこの手の授業については割と流し気味で、美術の先生も同じように適当な授業をしているわけだった。


 そんな適当な授業だが、それゆえに困ることも発生することがある。理由は今教師が言っていた『はい、2人組作ってー』イベントである。教師的には楽だからやっているのだろうが、友達がいないと特定の相手と組めないのでどうしても時間がかかって困ることになる。クラスでの立ち位置のおかげか組む相手が見つからないというケースはほとんどないのはいいかもしれないが、そもそも先生と組むことになってもそんなに気にならないのであまり嬉しくはない。


 とはいえ、こういうことが起こり得るのは芸術で美術を選択することになった時点で分かっていたことである。これを避けるためには音楽か書道を選ぶべきだが、音楽は個人的な都合で選ぶことがどうしてもできなかった。合唱コンクールのたびに、別にふざけてないのに「先生! 牧田くんが真面目に歌ってくれません!」と真面目な女子に泣かれ、1人で歌わされ、その泣いてた女子が真顔で謝ってきたのを何度も繰り返せば、音楽をやろうなんて思わなくなる。この話、する必要なかったな。


 なので、第1希望を書道にして美術は第2希望だったのだが、見事ハズレの方を引いてしまったので仕方なしに2人組作成イベントをこなす必要が出てきてしまったわけだ。論外の方を引かなかっただけマシだと思うべきなのか、学校の選択授業で第2希望になるという結構珍しい不運を嘆けばいいのかは分からない。


 そもそも困りはするけど、そんなめちゃくちゃ困るってわけでもないしな……なんて考えながら、組む相手がいないか一応探してみる。大体クラスカーストで上位かつ奇数人のグループの誰かから声をかけられ、そのまま一緒にやることになることがほとんどなのでただのポーズの面が強かったのだが。


「牧田くん、ちょっといい?」


 芸術は複数クラスでの合同だし俺のことを知らない相手ばかりだと、もしかしたら余るパターンもあるかもな……とか考えていたら、聞き慣れた女子の声と薄い桃の香りがしてきてそちらに目を向けた。


「早川さん? どうしたの?」

「牧田くんがまだ誰とも組んでないなら、よかったら一緒にやらないかなって」

「俺と? 別にいいっちゃいいけど……」


 彼女たちのグループもこの授業を選択しているのは知っていたが、女子と男子が組むなんてそうない上に4人組だ。4という数字を奇数とする法律でもできない限り、この手のイベントで余りが出ることはないはずだった。今日は誰も休んでなかったし、俺と組む理由なんてないと思っていたのだが。


「紬が他のクラスの男子と組んじゃって。ロコと芽衣佳はいつも組んでるし、クラスの他の子はみんな組んじゃってるっぽいから、お願いできないかな?」


 言われて美術室を改めて見回してみると、田中さんと黒磯さんは騒ぎながらすでに互いのスケッチを始めており、白石さんはスケッチを放っておいて知らない男子と楽しそうにお喋りしていた。


 ……白石さん、確かカレシいたよな? でも早川さんの言い方的に今話してる男子は違いそうだし、どういうことなのこれが趣味『男漁り』なの――と口にしかけて慌てて噤む。俺がその話を知っているのはおかしいので、たとえこちらに耳を傾けてないと分かっていても迂闊に言うことはできない。


「えーっと……そういうことなら俺でよければ」


 ちょっと考えてから早川さんの提案を受けることにした。教室での俺と早川さんの関係を考えると、ここで拒否するのもそれはそれで不自然だろう。クラスの他の子はもうみんな組んでしまっているのはガチっぽいし、俺としても顔見知りの方が気楽なのは確かだ。


「あれ、早川? いつもの面子と組んでないの?」


 そうと決まればダラダラする意味もない、さっさとスケッチを終わらせて早めの昼休みに――と思っていたら、知らない男子がこちらに向けて声をかけてきた。


「サカイくん? うん、紬が他の子と組んじゃって」

「ちょうどよかった。オレも連れが休みでさー、よかったら一緒にやらない?」

「えーっと……」


 ちらりとこちらに顔を向ける早川さん。先に声をかけたのもあって、どうするのか俺に委ねているのだろう。


 俺としては誰と組んでも問題はない。顔見知りの方が気楽だし気まずい思いもしたくはないが、絶対に嫌というほどでもなかった。サカイくんが誰かは知らないが早川さんとは知り合いのようだし、クラスでほぼ接点ない俺よりは一緒にいて自然な相手ではないだろうか。


 そういうことを考えると遠慮した方がよさそうだ。俺と早川さんの関係を感付かれるのも困るし、それが無難な選択肢ではあった。


「……俺、他に知り合いいないからさ。できれば早川さんと一緒の方が助かる、かな」


 ……気が付いたらそんなことを口にしてしまっていた。しかも、めちゃくちゃ中途半端な引き留め方だ。自分のことながら、さすがにちょっとキモかった。

 俺がこんなことを言うとは思っていなかったのか、早川さんも目を丸くして瞬きしている。誰か知らないサカイくんもなんか驚いていた。俺のことを知らないはずなのに、なんで驚かれてるのか謎だった。


「分かった。ゴメンね、サカイくん。そういうことだから」


 早川さんはしょうがないなぁという感じで微笑むと、サカイくんにそう言って誘いを断る。サカイくんは「しゃーない、それじゃまたなー」と言って、そのまま別の女子のところへと声をかけにいっていた。何の迷いもないその行動に察するところはあったが、これ以上かっこ悪いことを言いたくないので口にしない。


「それじゃ、さっさとやっちゃおうか」

「あー……そうだな」


 俺たちも美術室の適当な場所に移動し、お互いのスケッチを始めることにする。さっき口にしたこともあって早川さんの顔を見るのが恥ずかしかったが、こういうときは早く終えてしまった方が結果的に楽になるのは分かっている。


「ちゃんとかわいく描いてね?」

「え、あ、ああ……そのまま描くのは割と得意だから大丈夫だよ」


 スケッチブックと鉛筆を手に取り描き始めたところで、早川さんがいきなり声をかけてくる。思わず何も考えずに返事をしてしまった。


 まあ、言ったこと自体は嘘でもなんでもない。音楽と違って美術は苦手でもなく、模写の類は得意と言ってもいいだろう。モデルなしに何か描いたりデフォルメしたりとかはできないので絵画全体が得意とは言えないが、見たものをそのまま描くくらいなら特に難しいことはない。


 そんなわけなので何も気にせず鉛筆を動かしながら、スケッチのために早川さんの方へと視線を向ける。と、彼女の手が止まっており、見慣れたイヤリングを着けた耳が少し赤くなっていることに気付いた。


「早川さん、どうしたの? 早く終わらせるつもりだったんじゃ」

「……へ? あ、うん……」


 声をかけてもしばらく『ぽけー』という感じで呆けていたが、やがてニヤっとした嗜虐的な笑みを浮かべて言う。


「牧田くん、結構すごいことさらっと言うね。ちょっとドキッとしちゃった」

「……はい?」


 からかう調子で言われるので何かやらかしたのだとは思うが、その何かが分からない。かわいく描いてほしいと言われて、そのまま描けば大丈夫と返しただけのやり取りのどこに――


「……っ! いやっ、そういうのじゃないからっ! 早川さんがかわいくないって意味じゃないけど、そのっ……!」

「えー? ガチで照れてるの見ると怪しいんですけどー? ってか、いつも割と大胆なこと言ってるのにこういうのは照れるんだね。なんかかわいいかも」

「か、かわいくはないだろ。大体、いつもそんな――」


 大胆なことを言ってないだろ、と口にしかけて気付く。


 だらけた空気の中での授業なのでお喋りがあちこちで行われているが、授業中なのを考えてか一部以外は騒がしくしていない。そんな環境の中でちょっと大きな声を出してしまうと、美術室にいる全員からとは言わないが近くの人間からの注目を浴びるには十分すぎた。クラスでほとんど会話をしていない人間同士の距離感ではないと、感付かれるのはよろしくない。


「……そんなに話をしないのに、分かったようなこと言われても困る」


 多少強引なところはあるが、それでも誤魔化さないよりマシだと思い口にする。


「……え……。あ、ああ、うん。それもそだね」


 早川さんは一瞬戸惑った表情を浮かべるも、周りの様子にすぐに気付いたみたいで話を合わせてくれた。いつもの調子でつい話をしそうになるが、ここにはクラスメイトも含めた学校の人間だらけなことは気を付けないと。


 改めてスケッチを再開しつつ、しかしどうしたものかと困る。教室でのやり取りだけを考えるならこのまま静かに過ごしてしまうのもありなのだが、そうするのなら引き留めずに別の相手と組むべきだった。さっきのやり取りのせいでなんか早川さんも居心地悪そうにしてそうだし、黙ったままやり過ごさずに何か話すべきだろう。


 ……で、何を話せばいいんですかね、これ。ほとんど話したことのないクラスメイト相手とする話題なんか知らないし、実際はすでに結構話してる相手とする話題など更に分かるわけがない。前に出した話題を知らないフリして話せばいいのか……?


 どうすればいいのか分からず、とりあえず早川さんの様子を見て決めるか……と、スケッチするのも兼ねて目を向けてみる。彼女は鉛筆を動かしながら、なぜか頬を膨らませていた。


「……え、早川さん、どうしたの?」

「……なんでもない」


 ぷいっと目を逸らされながら言われても、何かあったとしか思えないんだが……。えーっと、多分拗ねてるんだよな? なんで拗ねてるのかは分からないけど。

 これはこれでかわいいなとは思うが、放っておいていいわけがない。だからといって謝るのも多分違うし、とにかく何か話すしかないか。


「えーっと、今日は暑くなくてよかったね。昨日は結局クーラー使えなかったし、夏服にしてもいいって登校してから言われても困るだけだよね」

「そうね」


 話題に困ったときのお約束、天気や気候の話を振ってみたが案の定塩反応だった。かといって二人きりのときにしてるような話題は振りにくいし、とにかく無難な話を繋いでいくしかない。


 その後もどうにか話しかけ続けたら、早川さんは拗ねた様子は見せなくなった。が、別に楽しそうな様子も見せず、結局スケッチが終わるまでやけに長い40分弱を過ごす羽目になってしまった。


 *


 スケッチを終えた人から昼休みに入ってもいいという、やる気のない授業特有のルールが発動していたのでいつもより早い時間に購買に訪れた俺は、いつものようにパンと飲み物を買って旧校舎の図書室へと向かう。早川さんはスケッチを提出すると同時に田中さんたちに連れられてどこかへ行ってしまった。周りの目を考えると一緒に行動するなどあり得ないが、どうもやらかしてしまった感があるので話はしておきたかったのだが仕方がない。


 買ってきたパンはすぐ食べてしまい、昼休みの時間をほぼ丸々残して暇になってしまった。ここ最近は一人で過ごす方が多く、それ以前も昼休みは大体一人で過ごしていたのでこうした時間は慣れていたはずだったが、昨日久々に誰かと過ごした影響か妙な物寂しさを感じている。図書室らしく適当な本でも読んで時間を潰すという気分にもなれない。


 どうにも何かする気力が湧かない……こういうときは気分転換に限る。そして、気分転換とは掃除だ。部屋全体が清潔な空間となることでQOLを向上させ、ただそこにいるだけでも大変いい気分で過ごすことができるようになる。また、汚れた個所が綺麗になったり整理整頓で無駄をなくしたりなどによって、充実した達成感も味わうことができるのも最高だ。軽く体を動かすことによる心地よい疲労も見逃せない。掃除とはつまり、物や場所だけなくて人間の身も心も浄化する行為なのだ。気分転換にこれ以上の行為はないだろう。


 そういうことを抜きにしても、一向に使われる気配のない受付カウンターに無視できないくらい埃が積もってきたことや、昨日窓を開けてるときに埃が散っていたのが見えていたので、少し払うくらいはしておいた方がいいんじゃないかと思ったのもある。普段使ってるこの木製の長机も、埃こそ溜まっていないが綺麗に拭いておきたいところだった。


 以前から気になっていた、おそらく掃除用具が入っているであろうロッカーを開けると予想通りの物がそこにはあった。古臭いが木造の校舎の雰囲気には合っている箒やちり取り、使い込まれてかなり黒ずんでいる雑巾、ところどころ錆び付いているブリキのバケツがあるだけで、その他の掃除用具は一切ない。たまに掃除に来るとは聞いていたが、それ以外では使われてないんだろうなと思わせるには十分なラインナップだ。


 弘法筆を選ばずとは言うが、掃除をすることが好きであって掃除好きでも綺麗好きでもない俺では、この道具で図書室を完璧にすることはできそうにない。そもそも図書室にしては狭いとはいえ、教室よりは一回り以上広い場所を1時間弱で掃除し切るのは無理だ。だが、埃を拭き取るだけでも何もしないより圧倒的に気持ちよく過ごすことができることをすでに俺は知っている。躊躇う理由は何もない。


 というわけで廊下の水道でバケツに水を汲み、窓際の埃を雑巾で拭き取るところから始めた。木造だし一応図書室だしで、湿気には注意したいので窓は開けておく。昨日も開けてたし、外の景色はいつも早川さんが座る方は家々が見えるだけ、反対側は誰もいないグラウンドが見えるだけなのもすでに知っていたから、誰かに見られることを警戒する必要性は薄いだろう。それよりも、床に水をこぼしたり雑巾に水を吸い込ませ過ぎたりしないように気を付けなければ。


 そうして掃除を始めると、見つけることが難しい場所に頑固な汚れを発見することもある。それらもできるだけ綺麗にしつつ、道具や時間の都合で難しそうなところは場所だけ覚えて後回し、目立つところから中心に片付けていく。図書室なのにハタキの類がないから本棚の掃除はどうしようか、もう昼休みも半分くらいしかないし本を一度取り出してからは無理だよな、なんて考え始めたところで扉の開く音が耳に入ってきた。


「……何してるの?」


 目を向けると、そこにいたのは早川さんだった。ここまで来るのに服を脱いでいるわけもなく、いつものように少し着崩した制服を着ている。ただし、表情はドン引きだった。


「あれ、早川さん? 田中さんたちと昼ご飯食べに行ったんじゃなかったの?」

「お昼は終わったんだけど、博子がカレシに呼ばれたからって言ってどっか行っちゃって。紬もさっきの授業で組んでた男子と会いに行ったし、芽衣佳も顧問に呼ばれたとかで暇になったからここに――って、それはいいの」


 早川さんは左手を腰に当て、右手の人差し指で俺を指差す。正確には俺が持っている箒を指差す。


「何やってるのよ、牧田くん。頭おかしくなった?」

「見りゃ分かるだろ、掃除だよ。ちょっと埃が溜まってるのを見てたらしたくなってきたんだ」

「そんな目立つほど埃溜まってなかったと思うんだけど……もしかして牧田くん、わたしが来てないときも掃除してたりした?」

「まさか。本を読んでるかスマホ見てるかしてたよ。本当に今日はちょっとそういう気分だっただけなんだって」


 前に早川さんには自分が気にならない限りはやらないと言っていたはずなのだが、なぜか毎日掃除しているように思われている気がしてならない。バイトがある平日とか、時間的に無理がある日の方が多いからそんなことはないのに。


「まあ、なんでもいいっちゃいいんだけど……あ、でもあんまり綺麗にしすぎないでね? テストが終わった後で図書委員が掃除に来るんだけど、そのとき綺麗すぎると疑われちゃうかもしれないから」

「おっと、そうなのか。じゃあ、この辺でやめとこうかな」


 普段誰も使ってないはずのところが妙に小綺麗なのは確かに違和感がある。実際は俺たちが使っているのだから過ごしやすい程度には綺麗にしておきたいが、目立たない場所の汚れとかはあえて無視した方がいいかもしれない。


 とりあえず、早川さんも来たことだし掃除用具を片付け始める。箒とちり取りをロッカーに入れ、廊下の水道にバケツの水を捨て雑巾をちゃんと絞って戻ってきたら、いつもの席の傍に立っている早川さんが制服のリボンを外すところだった。ブレザーはすでに脱いで机の上で綺麗に畳まれており、その近くには図書室の本とラッピングされた小さな袋があった。


「そうそう、牧田くん。さっきの授業のことなんだけど、アレなんだったの?」


 え、この人なにやってるんだ……と固まっていたら、唐突にそんなことを不満そうに言われてしまう。


「さっきの授業? えーっと……一緒にスケッチしたこと、でいいんだよね?」

「そう、それ。わたし、アレをきっかけに教室でも話しやすいようにするのかなって思ったんだけど、なんか途中で拒否ってきたでしょ? どういうこと?」


 少し責めてくるような口調で話しつつ、リボンも綺麗に畳んで机の上に置いてから、彼女はブラウスのボタンを外し始めた。


「あー……なんか途中から怒ってた気はしてたけど、拒否られたと思ってたのか」

「そう。違うの?」

「違う違う。何も考えてなかったから状況に気付くのが遅れて、慌てた行動の結果というか。別に話したくなかったわけじゃないよ、ごめん。でも早川さんの言う通り、アレをきっかけにしておけば今後話しやすくなってたかもなぁ」


 怒ってたというよりは拗ねてた感じだったがそれはともかく、思い返すと拒否ってるように感じてもおかしくない言い方だったかもしれない。素直に反省しておこう。

 そんな俺の様子を見て、早川さんはブラウスを脱いで綺麗に畳みながら少し不思議そうに言ってくる。


「何も考えてなかったの? わざわざ引き留めてきたのに?」


 かわいく首を傾げてはいるが、理由を問われると答えに困る。かといって黙ったままなのは先程の言葉が嘘っぽくなってしまうため、スカートのファスナーを下ろし始めた早川さんに向かって正直に言ってしまうことにした。


「なんか、こう……嫌だったんだよ」

「嫌だった? え、何か嫌がられるようなことあったっけ?」

「俺もよく分からないけど、モヤっとしちゃったんだから仕方ないだろ。他に言いようがないんだ」


 脱いだスカートを机に置きながら、早川さんは訝しげな表情を見せてくる。俺も要領を得ない回答だとは思ってるが、これが正直な気持ちなんだから白いパンツを見せられてもどうしようもない。


「牧田くんが分からなかったら、わたしにはもっと分からないでしょ。大体サカイくんと――あっ」


 ベージュのインナーに手をかけて脱ごうとしている最中、何かに気付いたらしい早川さんは、にやぁって感じの嫌な笑顔を浮かべてきた。


「なるほどなるほど、そういうことね」

「違う。絶対違う。断言してもいい」

「えー、でもそれって嫉妬じゃないの? わたしが他の男子と話すのが嫌だったんでしょ?」

「俺は優姫が他の男子と話すときでも嫉妬できる男だぜ、だからこれが嫉妬だとしても恋愛感情は一切ない。というか、なんでごく自然に服を脱いでるんだ? なんかツッコむタイミングがなかったからツッコめなかったけど、人と話をしながら脱ぐなんて非常識じゃない?」


 公共の場で服を脱いでいること自体が非常識だが、そっちはもう諦めた。


「優姫ちゃんが男子と話してるだけで嫉妬するのはさすがにキモいんだけど……服を脱ぎながら話しても大丈夫でしょ、牧田くんももう気にならないんじゃないの?」

「慣れてきたらダメだって俺は何度も自分に言い聞かせてるんだ、だからちゃんと服は着てくれ。まるでここが我が家のように脱がれるのは、いくら慣れてても困るんだよ。俺は早川さんの家族じゃないんだぞ」

「お母さんの前でこんな風に脱ぐわけないでしょ。まあ、見られても気にならないとは思うけど」

「母親と同レベルで気にされてないのかよ、俺。ってか、父親の前で脱ぐのは恥ずかしいって発想はあるんだな……」


 インナーまで完全に脱いでしまい、いつもの椅子に腰かけながら白のブラと大きな胸を惜しげもなく晒す早川さんは、一瞬キョトンとした顔を浮かべる。


「そういえば言ってなかったかな? うち、お父さんいないの」

「……え、あ……ご、ごめん」

「気にしないで。死に別れとかじゃなくて、ただの離婚だし。それに家族のことなら、牧田くんの方が重たいでしょ?」


 気を遣って軽い調子で言ってくれるが、しかし不用意な一言だったのには変わりない。むしろ自分の家族のことがあるからこそ、もっとよく考えないとダメだった。調子に乗りすぎないように気を付けないと。


「お母さんと二人暮らしでも今のところはそんなに困ることもないしね。それより、これ」

「? え、なに、ありがとう?」


 いつの間にか机の上に置かれていて気になってはいた小さな袋を渡され、思わず礼を言いながら受け取ってしまう。見た目からの想像通りに軽く、中からカサコソと乾いた音が聞こえてきた。


「クッキー焼いてきたから、よかったらどうぞ。博子たちの分のついでだけどね」

「ああ……そういやなんか優姫とお菓子のことについて話してた気がするな。優姫に渡せばいいの?」

「普通に牧田くんの分のつもりだったんだけど……そうね、優姫ちゃんと一緒に食べてもらってもいいかな。任せるよ」


「1人分しかなくてゴメンね」と言われるが、友達の分のついででもらっておいて文句があるわけもなし、むしろ感謝する他ない。掃除したばかりでクッキーの粉を落とすのも嫌だし、ここは図書室だから基本飲食禁止だった。完全に忘れて普段から食べたり飲んだりしてるけど。帰ってから優姫と一緒に頂くとしよう。


「ま、優姫に渡してもいいなら遠慮なく。サンキュ」

「うん、遠慮しないで。さっきの授業も助けられちゃったし、何かお礼をしなきゃとは思ってたから」

「授業なら俺も助かった側だし。知った顔の方が気まずくならないのは嘘でもなんでもないからな」


 実際は思いっきり気まずい雰囲気の中で授業を受けていたわけだが、それでも知らない相手よりはマシだったと思う。多分だけど。

 そう思っていたのだが、どうも何かズレた回答だったようで早川さんは苦笑いを浮かべていた。


「そういうのじゃなくて、サカイくんと一緒に授業を受けなくて助かったって話」

「あれ、何か問題あったの? 嫌な相手ではなさそうだと思ってたけど」


 少し軽い感じはしたものの、人当たりもよかったし俺が間に入ってもあっさり引いてもいたから、見た目がちゃんとしてるのもあって悪い人間には見えなかったんだが。


「サカイくん、紬と博子の元カレだからさ。ちょっと距離が近いのは問題あるかなって」

「わあ、めんどくさい……」


 思わず口にしてしまうくらいにはめんどくさい関係だった。昨日、友人の意中の相手に告られてもアウトって話をしたばかりなのに、グループ内で同じ相手が元カレだったとかめんどくさいにもほどがある。


「しかも紬が付き合ってたときに、博子が浮気して寝取った形だからね。当時はさすがの芽衣佳も一緒に困ってたくらい」

「もうめんどくさいとか通り越して、よく今まで友達続けてこられたねって尊敬するんだけど。いくらなんでも白石さんがキレるんじゃないの?」

「紬は『エッチが下手くそだったし別にいいかー』みたいに言ってて、あんまり気にしてなかったかな。博子も結局同じ理由で別れてるし」

「早川さんのグループ、ドロドロしてるのかサッパリしてるのか分からなさすぎるよ……」


 聞いてるだけでもややこしいのに、当人たちは別にそんなでもなさそうなのが本当にめんどくさい。サカイくんもそんな面倒なことを起こすような真似をするから、エッチが下手という事実を無関係な俺にまで知られることになったんだぞ。


「今更だけど、ここのこと本当にバレてないんだよね? そんな関係だと互いに疑い合って、後を付けてきたりしそうで怖くなってきた」

「みんなそんなに暇じゃないよ。それにバレないように後を付けようとしたら、途中で迷って見失うのがオチでしょ」


 まあ、通い慣れた今となってもややこしいと思える経路だし、距離を離して付いていくのも難しいポイントがいくつかあるのも知っている。そもそも露出趣味がバレてたら早川さんが無事でいられるとは思えないから、このことに関しては信じてもよさそうだった。


「……ただ、わたしに本当にカレシがいるのかは紬が疑ってそうなのよね。結構踏み込んだこと聞かれることがあるし」

「え、そうなの? 大丈夫?」

「今のところは平気かな。いてもいなくてもどうでもいいと思ってるみたいだから」


 早川さんが言うには白石さんは周りをよく見るタイプらしい。そうして観察した結果、不自然なところが多々あって疑うに至った……という感じだろうか。致命的なやらかしがあるなら、田中さんと黒磯さんも疑っているはずだ。


「それに、最近は半信半疑くらいにはなってるみたいだしね。このイヤリング、本当に助かってるよ。ありがと」

「大したことはしてないし、お礼なんていいよ。田中さんと黒磯さんは全く疑ってないの?」

「博子は紹介するのが恥ずかしいカレシだって思ってそうな感じかな。芽衣佳は元々こういうの気にもしないし」


 紹介するのが恥ずかしいカレシってなんだと思うけど、俺も早川さんを偽カノジョといえども紹介したくはないからそんな存在もいるだろう。黒磯さんがその辺を気にしてないなら、どうとでもなりそうではあるか。


「そっか、なら安心かな。高くはなくても安くもなかったから、早川さんのお金が無駄にならなかったのならよかったよ」

「なに? 今度は牧田くんが本当にプレゼントしてくれるの? しょうがないなぁ、わたしのこと大好きみたいだし、いつでも歓迎してあげる」

「だからないって、俺の好きなタイプは服を着てる女の子だ。プレゼントが欲しいのならちゃんと服を着てくれ、そうしたら考えてやる」


 そんな軽口を言い合って互いに笑い合う。


 恋心とは違う感情だとは思うけど、自分以外と仲良くしてるのを見ると少し妬いてしまうくらいには、彼女と過ごす時間は嫌いじゃなくなってしまっている。優姫以外にこんな気持ちを持つとは、自分でも思っていなかった。きっとこのまま誰にも心を許すことはないんだろうなと、漠然と考えていたから。


 成り行きで互いが互いの秘密を握り合うことになった、健全とは言えない関係。全部は見せ合うことはできない関係。


 だけどその一端を互いに見てしまったから、こうして気を許してしまうのだろう。


 ずっとこの時間が続けばいいのになんて、そんな叶わぬ想いを願ってしまうけれど、いつものようにあっという間に昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響くのだった。

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