この海が見ていた
「あ、やっと来た。航―、美南―」
そう言いながらぶんぶんと激しく手を振りながら叫んでいるのは杉下恵だ。彼女のトレードマークの帽子が頭の上で揺れている。その横では真剣な表情をして参考書を読んでいる貝塚翔太の姿も見える。4人が住んでいる和泉島は人口5000人近くの小さな島だ。中学校まではあるが高校はない。なので島にいる子供たちはフェリーにのって本土の高校に通うことになる。
「お前、大丈夫か。そんな調子でZ大なんか受かるのかよ。あそこ超難関だぞ」
翔太が真剣な雰囲気を崩さずに言う。
「大丈夫だって、なるようになんだろ」
「いいよね、航はお気楽で」
「でもお気楽じゃない航って気持ち悪くない?」恵と美南が笑いながら口々に言う。
「人のことをなんだと思ってるんだよ、二人とも」
口ではそう言ったものの勤勉な自分というのはどうにも想像できない。自分を律し、ひたむきに努力するというよりは、その場しのぎでうまくやるというのが自分のやり方ではあった。
航たち4人は島で生まれ、島で育った同い年の高校3年生だ。翔太と航は高校を卒業した後島を出て大学に進学する。美南は警視庁の警察官、恵は東京の建築事務所で働くことが決まっており、形は違えど全員島を出ることは確定していた。
「あ、船来たよ」
フォーンという音を立てて船が船着き場に泊まる。降りてくる人はほとんどいな航たち4人は島で生まれ、島で育った同い年の高校3年生だ。翔太と航は高校を卒業した後島を出て大学に進学する。美南は警視庁の警察官、恵は東京の建築事務所で働くことが決まっており、形は違えど全員島を出ることは確定していた。
「あ、船来たよ」
フォーンという音を立てて船が船着き場に泊まる。降りてくる人はほとんどいない。本土から島に働きに来る人は息子か娘夫婦と本土に住んでいるおばちゃんか、島の学校に勤めている先生ぐらいである。全員降りると同時に乗り込む人の列が動きだした。島から本土へ働きに出る人はそれなりにいるものの、席がすべて埋まってしまうことはない。海が一番近くに見えるいつもの席に4人は座った。
「ねえ航。私これ何回いったか覚えてないんだけどさ、私はあんたのお世話係じゃないのよ」
美南がうんざりしたようにつぶやく。その隣で恵も「そうだぞ航、もう東京に出たら美南、私、翔太、航の世話を焼いてた私たちはいなくなるんだから」とうなずきながら、こちらに近づいてくる。
「確かにな、大学に合格できるのと生活できるのかは別問題だからな」
翔太も参考書から目を離し、航のほうを見ながら、にやついている。
「おいおい、信用ねえなあ」
「いままでの積み重ねだよ。航」
そう言って全員が笑った。航には島を出たいという気持ちがあることは確かだ。狭い島の中で一生を終えたくはない、都会に出て自分の力を試したい、そんな気持ちを幼いころからずっと持っていた。多分ほかの3人も同じような気持ちを少なからず持っていたからこそ、島を出るという決断をしたのだろう。しかしこの4人で過ごす島での日々が楽しいことも事実だった。自分は本当に島を出て行きたいのだろうか、本当は残りたいという気持ちもあってそれに蓋をしているだけなんじゃないのか、たまにそう思うことがある。そんな気持ちになるたびに航は自分の中の大事なものがどこか揺らぐような、えも言えぬ不安な気持ちに襲われるのだ。
「よう、おまえら元気そうだなあ」
声のするほうをむくと、よく焼けた肌に筋骨隆々とした肉体、いかにも海の男といった感じの人だった。
「ああ、ゲンさん」
美南が大きい声で言った。大和田元気、和泉島生まれの和泉島育ちで、ダイビングツアーの会社をやっている。和泉島周辺の海は、海流の関係で魚の種類が多く有名なダイビングスポットなのだ。27歳という若さで事業を成功させ、それまで人がほとんど来なかった島を、夏の間だけとはいえ観光客を呼び込めるような場所になったのは間違いなく元気のおかげだ。
島の商店街の人たちなんかは元気が買い物にくると「ゲンちゃん割引」などといって定価よりはるかに安い値段で売ってたりもするのだ。そうすると元気は困ったような笑みを浮かべながら「すいません」と言って品物を受け取る。
子供たちの遊びにも元気は仕事の合間をぬって、よく付き合っている。元気が高校生だった時にもまだ幼稚園生であった美南たちの鬼ごっこや、かくれんぼにも嫌な顔一つせず付き合ってくれた。島の小さな女の子たちの中には大きくなったら元気くんと結婚するなんて言ってる子も多いはずだ。航の記憶では美南も恵も昔はそうだった。元気の姿を見ていると島の人のためになんて、とても自分にはできないなと感心すると同時に、自分の情けなさを痛感させられる。
「この島に育てられたんだから、恩返しがしたい」
それが元気の口癖だった。口で言うのは簡単だが、そんな簡単にできるようなことじゃないのはみんなが知っている。島のために本土の人間に頭を下げて診療所を建ててもらい、医者を本土から派遣してもらえるようにしたり、ウェブサイトをひとりでつくって島の宣伝をしたりと、その働きは並大抵なことではない。そんな元気のことを島で悪く言う人はまずいない。
「ゲンさん、今日どうしたの。普段この時間にフェリー乗らないでしょ」
恵が不思議そうに聞いた。
「ああ、丸山のばあちゃんが腰が痛いっていうもんで、薬買いに行くんだよ」
「やっぱ、ゲンさんいい人だなあ。行くにしてもこんな朝早くから」
航は感心したように言い、美南も「さすがだなあゲンさん」と尊敬のまなざしで見つめている。
「それより航と翔太、受験勉強はどうだ?何とかなりそうか」
「翔太は安パイ、航はどうだかねえ」
「そりゃ翔太は真面目だもん、航はまあわからないな」
恵と美南が口々に似たニュアンスのことを言った。航は「ハイハイ、どうせ俺は期待されてませんよ」とすねたように言う。実際自分は怠け者だという自覚があるし、別にそれを否定するつもりはない。そういう意味では航は翔太を尊敬していた。偏差値で言えば航は翔太より高いかもしれない。しかし翔太は自分を信じ、努力を継続できる精神力がある。その精神力を航は尊敬し、羨ましいとさえ思っていた。そんな精神力があれば俺ももっと頑張れるのではないか、迷わずに進めるのではないか、そう思ったことは数えきれない。
「でも航なら何とかなる、そう思ってるんじゃないか?」
元気がにやにやしながら全員を見る。恵は「それは、まあ・・・」と、もごもご言い、美南は「それが航だしねえ」と不自然に大きな声で答えた。翔太も下を向いたままぼそぼそ何かを言っている。
「俺も子供のころからお前らを知ってるからな、なんとなくわかる」
「航なら大丈夫だろ」
翔太が小さい声で、しかしはっきりとそう言った。
「え」
「うそ」
恵と美南の声が重なった。幽霊でも見たかのような表情を浮かべている。
「お前、どうしたんだ急に、熱でもあるのかよ」
航も驚きと嬉しさが混ざったような、不思議な調子で翔太に聞いた。これでも大分ショックを抑えたほうだ。航が翔太のことを尊敬することはあれど、翔太は航のことを「いつも適当で努力をしない怠け者のお調子者」という風に考え、真面目な翔太からは、認められてないと思っていたからだ。
「驚きすぎだろみんな」
そう言って翔太と元気は目を合わせて笑った。
「いや、翔太が航のことを褒めるなんて今までなかったもんだから」
恵が喉の奥から絞り出したかのような声で言った。
「航は適当だけど、なんやかんややるべきことはやってるし、物覚えもいい。そもそも航の志望校は俺の志望校より偏差値高いしな」
翔太はまた参考書に目線を戻そうとする。その瞬間大きな波が来て、船が揺れる。翔太の眼鏡はずり落ち、恵の帽子は吹っ飛びかけた。その光景を見て、また全員が声をそろえて笑った。
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