第六話「飼い犬になった日」
警察署のドアを押し開けた。冷えた外気が、顔にべったりと張りつく。息が、かすかに白い。
迎えはいない。……いや、一人だけ。
路地の隅、傾いた外灯の下。角田与夢が、背広のポケットに手を突っ込んだまま、こちらを見ていた。くわえた煙草から、ココアの甘い煙が滲んでいる。
「よぉ……色男」
角田が、だるそうに声をかけた。笑っている。けれど、目は笑っていない。
「どうだった? 檻の中の湯加減はよ」
洞内は立ち止まった。答えない。喉は渇ききって、張り付いた血の味がするだけだ。
角田は一歩、踏み出す。靴底が、アスファルトの砂をざりっと削った。その音だけが、世界に響いた。
「おう、なんだよ。吠えねぇのか?」
からかうような声。だが、その奥に潜むのは、期待でも興味でもない。もっと無関心な、冷たく濁ったものだった。
洞内は、指を震わせた。握り拳。殴りたい。殴って、全部ぶち壊したい。
だが、肩はこわばり、足は動かない。乾いた、空っぽの体。
角田はポケットの中でジャラジャラと小銭を弄びながら、鼻で笑った。
「ま、いいさ」低く、落ちる声。
「拾ってやるよ」
洞内の胸が、かすかに波打った。なけなしの誇りが、最後の抵抗を試みる。
角田は、それを楽しむように口元を歪めた。
「首輪、用意してっからよ」
耳元で囁くように言うと、角田は小石をひとつ、つま先で蹴った。コツン、と無様な音を立てて、石が舗装路を転がる。
洞内の目が、その石を追った。ほんの一瞬だけ、ほんの一度だけ。そこに“逃げる”選択肢を探そうとした。
だが、見つからなかった。逃げ場など、最初からなかった。
洞内は、震える唇を噛みしめた。目を伏せる。牙も、怒りも、すべてを奥歯の裏側に押し殺して。
鎖を待つ犬のように。角田は退屈そうに肩をすくめ、背を向けた。
だらしなく歩き出す。振り向きもしない。
「……行こうぜ、犬っころ」
投げ捨てるような声。それだけ。
洞内は、わずかに膝を折りながら、乾いた地面に靴底を擦りつけ、歩き出した。背筋に、見えない鎖の重さが絡みつく。
一歩、また一歩。
振り返る者はいない。見送る者も、いない。
小石が転がる。洞内はそれを、何も考えずに、踏みつけた。
音もなく、砕け散った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます