仁義なき品位

ほらほら

プロローグ

 とあるアウトローの手記より


 世の中はクソだ。だが、糞溜は生きている。だから、熱い。




 鹿の頭の剥製。大理石の彫刻。伽羅の仏像。豪華でチグハグな調度品が、無遠慮に並ぶ一室。


 オーク材のデスクの上。無造作に置かれた、ミッフィーのぬいぐるみ。染みついた汚れが、乾きかけた血のように見えた。


 熱意と殺意と理性が、そこに渦巻いている。


 ソファに、どっかと腰を下ろす。能登一家組長、能登権蔵。


 タバコの灰を、指で弾いた。


「――おい、若いの」


 声は低く、よく通った。


「元気がいいのは結構だが、少し……仁義が足りねぇんじゃねぇか?」


 間。権蔵は、ふっと笑った。


「それともお前、自分にそれだけの貫目があるとでも思ってるのか?」


 洞内は何も答えない。ただ、獣の目で権蔵を見た。


 憎悪も忠誠もない。ひたすら、無意味な激情だけ。


 胸の底で、暴発しそうな何か。洞内は、それを堪えるでもなく、遊ばせるでもなく、ただそこに置いていた。


 権蔵がタバコをくわえ、深く吐き出す。


「帝流徒の馬鹿どもと揉めたのは、別にいい。だが――」


 声色が低くなる。


「この街で、俺に挨拶もなしってのは、どういう了見だ?」


 ピクリ、と周囲の組員たちが反応する。


「ましてや、先生の顔に泥を塗りやがって……」


 重い沈黙。


「……ただじゃ済まさんぞ」


 洞内は、鼻で笑った。


「木端ヤクザが、なに粋がってやがる」


 声が冷たい。吐き捨てるように続ける。


「気に食わねぇ奴はぶん殴る。それが、渡世の筋だろう」


 組員たちが一斉に立ち上がる。今にも飛びかかりそうな殺気。


 だが権蔵は、片手を挙げただけで全員を止めた。空気が一瞬で冷え切る。


「威勢がいいな、若いの」


 権蔵は静かに笑った。


「だがそれは、お天道様にツバを吐くようなもんだ」


 重い。刺すような声。


「誰のおかげで、その気勢が吐けるのか。考えた上で言ってるか?」


「知るか」


 洞内は短く吐き捨てた。


「やりたいように生きれねぇなら、なぜ極道なんてやってる?」


 肩をすくめる。


「金か? 名誉か? 面子か?」


 冷笑。


「日陰者が、そんなもん語ってんじゃねぇよ」


 そして吐き捨てる。


「クソだよ、全部。クソにクソが群がって、クソの山になってんだろうが」


 権蔵は黙ってタバコを吸った。


 紫煙が揺れる。煙の向こう、洞内の口元が、歪んだ。


 歪んだ世界の中で。何かが、ゆっくりと、音を立てて腐っていく。


 そして、ミッフィーが笑っていた。


 生地に滲んだ、得体の知れない染み。


 それが誰のものかは、もうどうでもよかった。


「――ナマ言ってんじゃねぇぞ若造!!」


 堪えきれず、タバコに火をつけた組員が絶叫した。


 空気が、引き裂かれた。


 ーーだが、爆発はしなかった。 ーー激情は、静かに、燃えた。


 組員たちの殺気を、空気ごと押し潰すように。


 権蔵は、ゆっくりと立ち上がった。


 靴音が、床を叩く。そのたびに、そこにいた全員の胸が微かに震えた。


「――洞内」


 名を呼ぶ声は、死刑執行人のそれだった。


「オレたちが何に寄って立ってるか、教えてやろうか」


 洞内は、応えない。目を細め、わずかに口角を吊り上げた。


 挑発でも、侮蔑でもない。ただ、世界に対する諦観の笑み。


 それを見て、権蔵は笑った。


「クソだと笑うか。上等だ。……だがな」


 指で揉み潰したタバコの灰が、床に落ちた。


「クソでも、糞溜めでも――"座る場所"のねぇやつから、先に死ぬんだよ。」


 組員たちが、にやりと笑った。だがその笑みには、どこか薄暗い怯えが混じっていた。


 生きるために、クソにまみれた者たち。その生き様を、否定されることへの本能的な怒り。


 洞内は、ひとつだけ、薄く笑った。


「……生きるため?」


 問いかけではない。吐き捨てるような独り言。


「そんなもん、頼まれてねぇんだよ」


 乾いた声。虚無の底から、にじみ出る本音。


「クソ溜めに座るくらいなら、立ったまま沈んでやるさ」


 洞内の視線の端に、ミッフィーのぬいぐるみが転がった。


 その顔には、ただの、無邪気な笑顔が貼りついているだけだった。


 権蔵は一歩、洞内に近づく。


「……じゃあ、せいぜい沈めよ」


 低い声。剣呑な笑み。


「ここは、生き残ったクズの墓場だ。英雄も聖人も、とうに喰い散らかされてる」


 さらに一歩、詰め寄る。


「――お前みたいな、綺麗な吠え方してる奴が、一番最初に喰われるんだよ」


 洞内は、動かない。立ったまま、ただ、権蔵を見据えていた。


 そのとき。


「ふっ」


 誰かが、抑えきれずに笑った。


 静かに。だが確実に、空気が歪んだ。


 組員たちの列の奥。座ったまま、煙草をふかす一人の男。


 古びたスーツ。よれた背広。脂ぎった顔に、妙な冷たさが宿る。


 洞内も、権蔵も、その男を見た。


「笑うな」


 権蔵の声が、低く響いた。


 だが男は、肩をすくめた。


「悪ぃ悪ぃ。いやな、あまりにも『型通り』だったもんでな」


 ニヤリと笑う。


「若いのも、ジジイも。どっちも、ただの様式美じゃねぇか」


 場が、凍りついた。


 組員たちが、一斉に首の向きを揃えた。


 だが、男は動じない。


「わかってんだろ? ここはもう、腐った神輿だ。 担ぐヤツも、叩くヤツも、同じ穴の狢だってよ」


 静かな声。だが確実に、空気を切り裂く。


「クソを笑うのも、クソを崇めるのも――全部、クソだ」


 権蔵は、しばらく無言だった。そして、不意に、深く、長く、タバコを吸った。


「……いいぞ」


 紫煙を吐きながら、ぽつりと呟く。


「そうだよな。そういうこった」


 ふらりとソファに腰を落とす。


「全部クソだ。全部どうでもいい。それでも――それでも生きるから、俺たちは今日も、クソの上に立つしかねぇんだ」


 洞内は、その光景を見つめた。


 心のどこかで、理解していた。


 あらゆる理屈も、信念も、理念も、結局は、「生きたい」という、原始的な叫びの前では、ただの方便でしかない。


 それを、「クソ」と嗤うか、「糞溜めに座る」と受け入れるか。


 違いは、それだけだった。


「……まあ、好きにしろよ」


 かすれた声で、洞内は言った。


「クソでも、なんでも――最後まで立ってりゃ、それで十分だろ」


 冷えた空気の中、誰も、何も、応えなかった。


 ただそれぞれの胸に、それぞれの"クソ"を、押し殺しながら。

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