霞の向こうの、わたし

或 るい

プロローグ 灰色の雨音、消えない陽だまり

降り続く雨は、まるで世界から色彩を奪い去っていくかのようだった。

窓ガラスを叩く単調な雨音だけが支配する、薄暗い部屋の隅。わたし、水瀬雫は、膝を抱えて小さくうずくまっていた。十六歳。明日、わたしはここを出て、新しい「家」へ行くことになっている。児童相談所の人が、そう言っていた。何度も、何度も、壊れたレコードみたいに。


「新しい生活が始まるのよ、雫ちゃん。今度こそ、きっと大丈夫だから」


その言葉は、インクの滲んだ手紙みたいに、わたしの心には少しも届かなかった。だって、「大丈夫」なんて言葉を、わたしはもう信じることができない。今まで、何度その言葉に裏切られてきただろう。期待しては突き落とされ、手を伸ばしては叩き落とされ。その繰り返しの中で、わたしはいつしか、自分の心を厚い殻で覆い、誰にも本当の顔を見せないようになった。笑う時は、顔の筋肉を巧みに動かして。悲しい時も、悔しい時も、ただ無表情を貫く。それが、わたしがこの世界で生き延びるために身につけた、唯一の処世術だった。


壁に掛けられた古いカレンダーだけが、色のないこの部屋で唯一、時が流れていることを教えてくれる。そのカレンダーには、赤いマジックで大きなバツ印がいくつもつけられていた。わたしがつけたのではない。この部屋の「主」が、何かを待ち望むように、あるいは何かから逃れるように、一日一日を必死で消し去っていった痕跡。その狂気じみた執念が、息苦しいほどこの部屋の空気に染み付いている。


窓の外は、相変わらず灰色だった。雨に濡れた電線が、重たげに垂れ下がっている。遠くで、救急車のサイレンのような音が聞こえる。それは、日常の風景のはずなのに、今のわたしには、まるで世界の終わりを告げるファンファーレのようにも聞こえた。

明日、わたしはどこへ連れて行かれるのだろう。新しい「家」は、どんな場所なのだろう。そこにいる人たちは、わたしをどう扱うのだろう。また、あの冷たい目で見られるのだろうか。また、心ない言葉を投げつけられるのだろうか。

そんな不安が、冷たい霧のように胸の中に立ち込めてくる。


わたしは、そっと目を閉じた。

すると、瞼の裏に、温かい陽だまりのような光景が浮かび上がってくる。

それは、もう二度と戻らない、かけがえのない日々の記憶。

彼――陽向(ひなた)と過ごした、短いけれど、きらきらと輝いていた時間。


陽向は、わたしの隣の家に住んでいた、一つ年上の男の子だった。

生まれつき身体が弱くて、学校も休みがちだったけれど、彼の周りにはいつも、穏やかで優しい空気が流れていた。わたしの家とは、まるで違う世界の空気が。

わたしの家は、いつも怒鳴り声と、物が壊れる音と、そして母親のヒステリックな泣き声で満たされていた。父親の顔は、もうほとんど覚えていない。ただ、アルコールの匂いと、見下すような冷たい視線だけが、記憶の片隅にこびりついている。

そんな家から逃げ出すように、わたしはよく、陽向の部屋の窓辺に座り込んでいた。彼は、何も聞かずに、ただ黙ってわたしの隣にいてくれた。そして、時々、ぽつりぽつりと、彼が見た夢の話や、本で読んだ不思議な物語の話をしてくれた。


「雫ちゃんはさ、まるで、迷子の小鳥みたいだね」

ある日、陽向がそう言って、わたしの頭を優しく撫でてくれた。その手は、少しだけカサカサしていたけれど、驚くほど温かかった。

「でも、大丈夫だよ。いつかきっと、ちゃんと飛べるようになるから」

彼の言葉は、何の根拠もなかったけれど、不思議とわたしの心にすうっと染み込んできた。彼がそう言うなら、本当にそうなるのかもしれない、と。


陽向は、わたしの「普通じゃない」ところを、一度も責めなかった。

わたしが、人の言葉の裏が読めなくて、的外れなことを言ってしまう時も。みんなが笑っているのに、一人だけきょとんとしている時も。彼は、ただ困ったように笑って、「雫は面白いなあ」と言ってくれるだけだった。

彼だけが、わたしのこの歪な心を、ありのままに受け止めてくれる、世界でたった一人の理解者だった。

彼といる時だけ、わたしは息苦しい仮面を外し、ほんの少しだけ、本当の自分でいられるような気がした。


でも、そんな時間は、あまりにも短かった。

陽向の病気は、少しずつ、でも確実に彼の命を蝕んでいった。

最後に会った日、彼はもうベッドから起き上がることもできず、細い腕には点滴の管が繋がっていた。それでも、彼はわたしに向かって、いつものように優しく微笑んでくれた。

「…しずくちゃん、泣かないで…」

掠れた声で、彼は言った。

「ぼくがいなくなっても…しずくちゃんは、ちゃんと生きていくんだよ…? きっと、大丈夫だから…」

それが、彼がわたしにくれた、最後の言葉だった。


陽向がいなくなってから、わたしの世界は再び色を失い、音を失った。

心の陽だまりは消え去り、冷たい雨が降り続く、灰色の世界に逆戻りしてしまった。

わたしは、またあの息苦しい仮面を被り、自分の心を固く閉ざした。もう二度と、誰にも心を開くまい、と。だって、大切に思えば思うほど、失った時の痛みが大きすぎることを、わたしは知ってしまったから。


児童相談所の人が、何度かわたしの様子を見に来た。そして、わたしをこの「一時保護所」という名の、冷たくて無機質な箱の中に連れてきた。ここでどれくらい過ごしただろうか。季節の感覚も、曜日の感覚も、もうほとんどない。ただ、単調な毎日が、雨音と共に過ぎていくだけ。


あれから、半年、いや、1年以上が過ぎた気がする。


「雫ちゃん、荷物の準備はできた?」

担当の人の声が、ドアの向こうから聞こえてきた。どうやら、明日の出発の時間が近づいているらしい。

わたしは、重い身体をゆっくりと起こし、部屋の隅に置かれた、小さなボストンバッグを見つめた。中には、数枚の着替えと、古びた教科書が一冊入っているだけ。思い出の品なんて、何一つない。陽向がくれた、小さなガラス玉のストラップも、いつの間にかどこかへ失くしてしまった。

「…はい」

わたしは、か細い声で答えた。


窓の外は、いつの間にか雨が上がっていた。

厚い雲の切れ間から、ほんの少しだけ、夕焼けの赤い光が差し込んでいる。

それは、まるで、陽向がわたしに見せてくれた、最後の笑顔みたいだった。

わたしは、その光に向かって、そっと手を伸ばした。

でも、もちろん、その光に触れることはできない。


明日から始まる、新しい生活。

わたしは、そこでうまくやっていけるのだろうか。

また、誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられたりするのだろうか。

もう、何も期待しない。何も望まない。

ただ、息を潜めて、嵐が過ぎ去るのを待つように、静かに生きていければ、それでいい。

わたしは、固く、固く、心を閉ざした。

そして、薄っぺらい笑顔の仮面を、顔に貼り付けた。


これが、新しい場所へ行く、わたしの精一杯の覚悟だった。

霞がかった未来の向こう側に、何があるのかは分からない。

でも、もう二度と、あの陽だまりのような温もりを求めることはないだろう。

そう、心に誓ったはずだったのに。

胸の奥の、一番深い場所で、何かがまだ、チリチリと小さな音を立てて、燻り続けているような気がした。

それは、消え残った熾火のように、決して消えることのない、小さな、小さな希望の欠片だったのかもしれない。

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