時空を超えた鋼鉄の守護者

ねこあし

第1話 非日常へのプロローグ:鋼鉄の艨艟、時空を超ゆ

相模湾の碧い海原に、真白な航跡が一条、長く伸びる。海面を撫でる潮風は生温く、しかしどこか張り詰めた空気を運んでいた。海上自衛隊、最新鋭イージスシステム搭載護衛艦「みらい」の艦橋は、静かな緊張感に満たされている。各種計器類が淡い光を放ち、CIC(戦闘指揮所)からの冷静な報告が響く。


「目標、針路三五度、速力二〇ノット。識別、僚艦『きりしま』。訓練想定、対艦ミサイル対処、開始五秒前」


艦長の席で、三等海佐・橘 遼(たちばな りょう)は小さく息を吐いた。25歳。この若さで最新鋭護衛艦の艦長というポストは異例中の異例である。彼が持つ類稀なる状況判断能力と、シミュレーション訓練で常にトップスコアを叩き出す戦術眼が、この大抜擢を現実のものとした。とはいえ、実戦経験は皆無に等しい。今回の洋上訓練は、彼にとって正真正銘、初めての実艦指揮となる。


「よーし、始めよう。各員、配置につけ!」


遼の声は、意外なほど落ち着いていた。内に秘めた高揚と、膨大な責任感が彼を研ぎ澄まさせている。


「ミサイル発射! 本艦に接近中!」


CICからの緊迫した声。想定上の敵性艦から放たれた対艦ミサイルに対し、「みらい」の迎撃システムが作動する。


「ESSM、装填完了! 射撃指揮、本艦!」


CIWS(高性能20ミリ多銃身機関砲)の管制担当の声。


「目標追尾!」


レーダー担当の声。


「ファランクス、スタンバイ!」


「対ミサイル回避機動、ヨーソロー!」


遼は落ち着いて指示を飛ばす。イージスシステムがリアルタイムに脅威を分析し、最適な迎撃方法を提案してくる。それを基に最終判断を下すのが艦長の役目だ。シミュレーションでは何度も繰り返したパターン。しかし、実際の海の上、鋼鉄の塊であるこの巨艦を動かしているという事実に、独特の重みが伴う。


「撃て!」


遼の号令と共に、「みらい」のVLS(垂直発射システム)から一本のミサイルが白煙を上げて射出された。誘導ミサイルESSM(発展型シースパローミサイル)は、想定上の敵ミサイルへと向かう。


「迎撃成功! 目標消滅!」


CICからの報告に、艦橋内にわずかな安堵の空気が流れた。しかし、訓練はまだ始まったばかりだ。


「よし、次の想定に移行する。今度は複数目標への対処だ」


遼が指示を続行しようとした、その時だった。


艦橋の窓の外、真っ青だったはずの空と海が、奇妙に歪み始めた。まるで水面に石を投げ入れたかのように、空間そのものが波紋を描く。それは次第に大きくなり、色のない、無機質な灰色へと変色していく。


「な、なんだ、あれは…!」


当直士官の一人が、信じられないものを見たかのように声を上げる。


「各部署、異常を確認せよ! レーダー、ソナー、全てのセンサーで異常を報告!」


遼は即座に指示を出すが、返ってくる報告は全て異常なし、あるいは測定不能というものだった。計器類は正常な値を指しているにも関わらず、視覚情報だけがこの異常な光景を伝えている。


空間の歪みは急速に拡大し、「みらい」を包み込み始めた。灰色だった歪みは、やがて暗い、深淵のような色に変わり、強烈な引力が働くのを感じる。艦全体が、その歪みに吸い込まれていくかのように傾き始めた。


「艦体、大きく傾斜! 船体が悲鳴を上げています!」


「機関、異常なし! しかし制御不能!」


「通信途絶! 全ての外部通信が遮断されました!」


混乱が艦橋を襲う。ベテランの海曹たちも、経験したことのない事態に顔色を失っている。遼もまた、理解不能な現象に戸惑いを隠せない。しかし、艦長として、彼は平静を保とうと努めた。


「総員、衝撃に備えろ! 手すりに掴まれ!」


遼が叫んだその瞬間、視界は暗闇に包まれた。強烈な浮遊感と、全身を締め付けられるような圧迫感。それは一瞬の出来事だったのか、永遠にも感じられる時間だったのか、判然としない。ただ確かなのは、最新鋭イージス護衛艦「みらい」が、相模湾の日常から、忽然とその姿を消したということだけだった。


次に遼が意識を取り戻した時、彼は立っていた。足元は、何処までも続くような白い空間だった。家具も何もなく、壁も天井も見当たらない。ただただ、眩しいほどの白が広がっている。


「……どこだ、ここは?」


掠れた声が、静寂に吸い込まれていく。身体は無事のようだ。制服も乱れていない。艦橋にいたはずなのに、どうやってここに? 「みらい」は? 乗組員たちは?


疑問が次々と湧き上がるが、答えは見つからない。不安が胸を締め付け始めた、その時だった。


空間に、まるで絵画が浮かび上がるように、一人の人物が現れた。


その人物は、齢を重ねた男性だった。長い白髭を蓄え、穏やかな、しかしどこか全てを見透かすような瞳をしている。纏っているのは、時代不明の簡素なローブ。その姿は、まるで物語に出てくる賢者、あるいは──。


「ほう、目が覚めたか、若者よ」


男性が口を開いた。その声は、耳に心地よく響き、何処までも遠くまで届くような、不思議な響きを持っていた。


遼は警戒しながらも、相手の雰囲気に圧倒され、思わず姿勢を正した。


「あなたは…? 私は、訓練中に…」


「うむ、知っておる。お主たちの乗っていた鋼の舟ごと、この空間に招き入れたのは儂じゃからな」


男性は鷹揚に頷いた。その言葉に、遼はさらに混乱する。鋼の舟、イージス艦「みらい」のことだろうか? そして、「招き入れた」とは?


「一体、どういうことですか? あなたは誰なんですか?」


遼は意を決して問い質した。男性は微笑むような表情を浮かべた。


「儂か? そうじゃな…お主たちの言葉で言うならば、『神』とでも名乗っておこうかの」


「…神、ですか?」


遼は瞠目した。神。突拍子もない言葉に、彼の理性は警鐘を鳴らす。幻覚か? 何かの高度なシミュレーションか? しかし、この現実離れした白い空間と、目の前の男性の圧倒的な存在感は、それが現実であると突きつけてくる。


「信じられんのも無理はない。じゃが、事実じゃ。そして、儂がお主をここに呼んだのには、他でもない頼み事がある」


神と名乗る老人は、緩やかに話を続けた。


「儂には娘がおってな。可愛い娘じゃが、少々世間知らずなところがある。その娘が管理しておる惑星があっての。イステリアという名の、美しい星じゃ」


イステリア。聞いたことのない名前だ。


「そのイステリアの海が、困ったことになっておる。本来、豊かな生命に溢れた海じゃったのじゃが、近年、異形の存在…お主たちの言葉で言えば『魔獣』とでも呼ぶべきか…それが大量発生し、海を支配してしまったのじゃ」


神の言葉に、遼は耳を傾ける。海が、魔獣に支配された?


「魔獣は強力で、繁殖力も旺盛。海の資源は枯渇し、何より、人々は海に近づくことすらできなくなった。海上移動は不可能となり、沿岸の町は魔獣の脅威に晒されておる。娘は心を痛めておるが、どうにも事態を打開できずにいるのじゃ」


神はそこで言葉を切り、じっと遼を見つめた。


「そこでじゃ。お主の力が必要になった」


「私の、力?」


「うむ。お主は海を守る者として、その生涯を捧げておる。そして、あの鋼の舟を操る卓越した技量を持つ。あの舟ならば、イステリアの海の魔獣に対抗できる可能性があると考えたのじゃ」


遼は困惑した。海上自衛官として海を守ることに誇りは持っているが、それはあくまで地球の海での話だ。異世界の、魔獣なる存在が支配する海など、想像もつかない。それに、あの「みらい」が異世界で通用するのか? 魔獣とやらは、ミサイルや砲弾で倒せる相手なのか?


「しかし、私はただの海上自衛官です。魔獣なんて、どうやって戦えば…それに、乗組員たちはどうなったんですか?」


遼の問いに、神は再び穏やかな笑みを浮かべた。


「心配いらん。あの舟はお主のために、少々改造を施した。魔力という、この世界にはないエネルギー源を用いることで、乗組員を必要とせずとも稼働できるようにしたのじゃ。そして、代わりに高性能な意思を持つ存在…そうじゃな、お主たちの言うAIとでも呼ぶべき存在を搭載しておいた。更に海上を航行するだけでは目立つ上に危険じゃ。よって潜航能力…まぁ、潜水艦のような機能もつけた」


AIを搭載した、乗組員不要のイージス艦?しかも潜水能力? SF小説のような話だ。


「乗組員たちも無事じゃ。あの舟がこの空間に招き入れられた瞬間、彼らは安全な場所に転移させておいた。お主の任務が完了すれば、彼らと共に、時が全く経過しておらぬお主たちの世界に戻してやる」


時間が経過していない世界に戻れる? それはつまり、訓練中に忽然と姿を消したことにはならないということか? 理解が追いつかない。


「そして、お主にはイステリアの海を制圧してほしい。魔獣を駆逐し、人々が再び海を利用できるようにするのじゃ。それが、儂がお主への頼み事じゃ」


神は真剣な眼差しで遼に語りかけた。イステリアの海を制圧する。それは、海上自衛官としての使命感を刺激する言葉だった。地球の海ではないとはいえ、海が脅威に晒され、人々が苦しんでいる。それを目の前にして、見て見ぬふりはできない。


しかし、相手は神。そして、依頼内容は異世界の海を魔獣から解放すること。あまりにも現実離れしている。


「なぜ、私なんですか? 神様なら、もっと容易く解決できるのでは…」


遼が疑問を口にすると、神は少し悲しそうな顔をした。


「それぞれの惑星には、それぞれの理(ことわり)というものがあっての。儂や娘が直接、過度に干渉することはできんのじゃ。娘が管理する星故、全く干渉しないわけではないが、大きな変革をもたらすには、外部からの力が必要だった」


なるほど、という顔をする遼。神にも、その力を行使する上での制約があるらしい。


「そして、お主を選んだのは、お主の持つ海の守り手としての覚悟と、あの鋼の舟を操る才、そして何より…お主の魂が持つ、清らかさゆえじゃ」


魂の清らかさ。気恥ずかしいような言葉だったが、神に言われると妙な説得力があった。


「どうじゃ? 引き受けてくれるか? イステリアの人々、そして娘のためにも、お主の力が必要なのじゃ」


神は静かに、しかし確かな期待を込めて遼を見つめた。断るという選択肢は、この場の雰囲気では考えられなかった。海上自衛官としての使命感、そして、困っている人々を助けたいという純粋な思いが、彼の背中を押す。


「…分かりました。やらせていただきます」


遼は迷いを振り切り、力強く頷いた。神は満足そうに微笑んだ。


「感謝するぞ、若者。では、早速イステリアへと向かってもらおう。あの舟は既に準備万端じゃ」


神がそう言うと、白い空間の一部が再び歪み始めた。今度の歪みは、温かい光を放っている。


「あの光の中へ進むが良い。舟と共に、お主はイステリアの海に降り立つ。舟の使い方、そして搭載されたAIのことについては、そこで詳しく説明があるじゃろう」


「AI…」


「うむ。良き相棒となってくれるはずじゃ。そして、イステリアには娘もいる。困ったことがあれば、助けを求めるが良い。ただし、娘にも制約がある故、全てを頼ることはできんがな」


神は最後にそう付け加えると、その姿を淡い光の粒子に変えて、空間に溶けて消えていった。


後に残されたのは、遼一人と、穏やかに輝く光の歪みだけだ。覚悟を決めた遼は、一歩、また一歩と、光の中へと足を踏み入れた。


光に包まれた瞬間、再び浮遊感と、今度は温かい安心感に包まれた。視界が反転するような感覚と共に、彼の意識は急速に遠のいていく。


次に意識が戻った時、彼は柔らかい感触の椅子に座っていた。目の前には、見たことのない、しかし見覚えのある光景が広がっている。


それは、最新鋭イージス護衛艦「みらい」の艦橋だった。


しかし、何かが違う。


操舵輪も、多数のモニターも、確かに見慣れたものだ。だが、そこに乗組員の姿は一人もない。静まり返った艦橋に、自分一人だけが存在している。


「みらい」の艦橋窓の外に広がるのは、相模湾では決して見ることのできない、エメラルドグリーンに輝く、広大な海だった。見上げる空には、二つの太陽が昇り、幻想的な光景を作り出している。


「ここは…イステリア…?」


遼が呟くと、艦橋のメインモニターが明るくなった。そして、そこに映し出されたのは、美しい女性の顔だった。黒髪を肩まで伸ばし、知的な光を宿した瞳。優しさと、芯の強さを感じさせる表情。しかし、その存在には、どこか現実離れした透明感があった。


「ご覚醒、並びにイステリア海域への着水を確認しました、艦長」


女性は、まるで旧知の仲であるかのように、穏やかな声で遼に語りかけた。その声には感情の起伏がほとんど感じられない。


「あなたは…まさか、あのAI?」


遼が問いかけると、女性は微かに微笑んだように見えた。


「はい。私はこの艦の統合管制AIです。神より、『ユイ』という名を与えられました。今後、艦長を補佐し、この艦の運用を全面的にサポートいたします」


ユイ、と名乗ったAIは、淀みない口調で続けた。


「この艦は、神の御力により、従来の動力機関に加え、イステリアの魔力エネルギーを変換して稼働する特殊機関を搭載しております。これにより、乗組員を必要とせず、私…統合管制AIが艦全体の運用、戦闘システム、航行システム、およびその他全ての機能を制御いたします」


まるで夢物語のような説明だった。乗組員がいないイージス艦。AIが全てを動かす。神の力、魔力エネルギー…理解は追いつかないが、これが現実なのだ。


「…分かった。あなたがユイね。よろしく頼む」


遼はそう言うと、ユイは小さく頭を下げた。


「承知いたしました、艦長。本艦の現状についてご説明いたします。現在、水深約500メートル地点に静止しております。周辺海域のデータ取得は完了しており、分析を進めております」


ユイはメインモニターに様々な情報を表示し始めた。見たことのない海洋生物の画像、複雑なエネルギー反応を示すグラフ、そして…おぞましい姿をした、巨大な生物のシルエット。魔獣のデータだろうか。


「艦長。分析結果によると、周辺海域には多数の未確認大型生命体…神より『魔獣』と定義された存在が確認されます。これらの魔獣は、従来の兵器に対する高い耐性を持つ可能性が示唆されています」


ユイの報告は、早くも困難の始まりを告げていた。従来の兵器に対する高い耐性? イージス艦の火力やミサイルが通用しない可能性もあるのか?


「そして、彼らは非常に縄張り意識が強く、本艦の存在に既に気付いている可能性があります。攻撃を受ける前に、対応策を講じる必要があります」


ユイの言葉に、遼は背筋を伸ばした。ここは異世界イステリアの海。そして、自分はたった一人で、この鋼鉄の艨艟を操り、未知なる脅威、魔獣と戦わなければならないのだ。


ふと、故郷の海を思い出す。相模湾の、穏やかな碧い海。そこにいた仲間たちの顔。


必ず、地球に帰る。そのために、この異世界の海を制圧する。


「ユイ。現在の脅威レベルは?」


遼は艦長としての顔に戻り、落ち着いた声で問いかけた。


「脅威レベルは『高』です、艦長。複数の大型魔獣が、急速に本艦へ接近しています。戦闘準備への移行を推奨します」


「よし。全システム、戦闘配置。武装、スタンバイ。…ユイ、最初の作戦だ。この海域で、この『みらい』の力を見せてやろう」


遼の言葉に、ユイは静かに応じた。


「承知いたしました、艦長。本艦はいつでも戦闘準備完了です。指示をお待ちしております」


異世界の海での、孤独な戦いが、今、始まった。目の前に迫る未知の脅威に対し、遼はたった一人と、鋼鉄の艦、そして高性能AIと共に立ち向かう。それは、想像を絶する困難に満ちた、長い道のりの始まりだった。

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