第二十二話:心の鏡、迷宮の出口
ドクター・マインドの囁きは、まるで心の最も柔らかな部分に染み込む毒のように、俺、相馬海斗の精神を蝕んでいった。MAが示すはずの客観的な市場の動きすら、彼の言葉というフィルターを通すと、罠や欺瞞に満ちたものに見えてしまう。過去の失敗の記憶がフラッシュバックし、将来への不安が胸を締め付ける。エントリーしようとすれば恐怖が足を引っ張り、ポジションを持てば疑念が心を揺さぶる。
俺のトレードは精彩を欠き、証拠金はみるみるうちに減少していく。チャットウィンドウは、俺の敗北を確信する声と、ドクター・マインドの巧妙な心理操作への賞賛(あるいは戦慄)で埋め尽くされていた。
『KITE、完全に飲まれてるな…これがドクター・マインドの真骨頂か』
『心が弱いトレーダーは、こうやって狩られていくんだ…』
『もうMAとか関係ない。完全にメンタルの勝負だ』
「もう…ダメなのか…」
諦めの感情が、冷たい霧のように心を覆い尽くそうとした、まさにその瞬間だった。ポケットの中で、師匠から託された黒い「道しるべの石」が、ひときわ強く、そして温かく脈打ったように感じられた。
ハッと息を呑む。脳裏に、高柳師匠の静かで、しかし力強い声が蘇った。
――MAは、お前の心の鏡でもある。心が曇れば、MAも曇る。じゃが、お前の心が定まれば、MAは必ず、お前が進むべき正しい道を示す――
心の鏡…。そうだ、今俺が見ているのは、市場の真実じゃない。ドクター・マインドの言葉によって歪められた、俺自身の心の弱さ、恐怖、そして欲望そのものなんだ。
そして、これまで俺が戦い、そして想いを託してくれた者たちの顔が、次々と脳裏に浮かんだ。
幻術師フィボルトの、最後に見た涙。「君のその真っ直ぐな線は…美しいな…」
世界を読むストラテジスト高遠の、厳しくも期待に満ちた眼差し。「君ならあるいは、ファンダメンタルズを正しく使いこなし…」
アルゴリズムの覇者、神崎の、機械を超えた人間への信頼。「君のトレードは私の計算を超えていた…」
そして…Solitary Roseの、不器用ながらも真っ直ぐな励まし。
『あなたのMAが示す道筋を信じ抜けるのなら、きっと…』
そうだ、俺は一人じゃない。師匠がいる。仲間たちがいる。そして、信じるべきMAがある。俺が戦うべきは、ドクター・マインドの言葉という名の幻影じゃない。俺自身の心の中に巣食う、恐怖と疑念という名の内なる敵だ!
俺は一度、深く、深く息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと吐き出す。まるで、心の中に溜まった澱(おり)を全て吐き出すかのように。
再び目を開いた時、俺の瞳にはもう迷いの色はなかった。そこには、ただ静かな決意の光だけが宿っていた。
「KITE、どうしたのかな? 諦めてしまったのかい? それもまた、人間らしい美しい選択だと私は思うよ」
ドクター・マインドが、チャットでさらに追い打ちをかけるように囁いてくる。
だが、今の俺にはもう、その言葉は届かなかった。俺は、彼のチャットウィンドウを画面の隅に小さく表示させ、意識の外へと追いやった。そして、目の前のポンド/ドルのチャート、そしてそこに引かれた赤い20SMAだけに、全神経を集中させた。
MAは、変わらずそこに在った。市場参加者たちの無数の思惑と感情を織り込みながら、淡々と、客観的な市場の「平均値」を示し続けていた。ドクター・マインドの言葉というノイズを取り払った途端、MAの動きは驚くほどクリアに見えてきた。
MAが、緩やかな上昇トレンドを示している。ローソク足は、何度かMAにタッチしながらも、力強く反発している。明確な買いサインだ。
俺は、一切の躊躇なく、買いエントリーのボタンを押した。
「おや、そちらへ行くのかね? 私の分析では、市場は間もなく下落に転じると予測しているのだが…実に興味深い選択だ。後悔しないことを祈るよ」
ドクター・マインドが、なおも揺さぶりをかけてくる。だが、俺は一切反応しなかった。ただ、MAが示す損切りポイントと利食い目標を冷静に設定し、市場の動きを見守る。
俺のトレードは、まるで生まれ変わったかのように、以前の冷静さと精度を取り戻していた。ドクター・マインドが仕掛けてくる心理的な罠や、彼が意図的に作り出す市場のノイズに、俺は一切惑わされない。MAがGOと言えば進み、STOPと言えば止まる。ただそれだけを、機械のように、しかし確固たる意志を持って繰り返した。
ドクター・マインドのアバターである穏やかな中年男性の表情から、初めて焦りの色が滲み始めたのが、チャットウィンドウの向こう側からでも感じ取れた。彼の言葉は次第に苛立ちを帯び、そのトレードもまた、どこか精彩を欠き始めている。
「なぜだ…なぜ私の言葉が君の心に響かない…? 君の心の闇は、もっと深いはずだ…! 君は、もっと脆いはずだ!」
俺は、初めてドクター・マインドのチャットに、静かに、しかしはっきりと返信した。
「俺の心には、師匠がいます。そして、信じ頼れる仲間たちがいます。何より…俺が進むべき道を示してくれる、このMAがありますから」
その瞬間、ドクター・マインドの白衣のアバターの表情が、一瞬、激しい怒りと苦悶に歪んだように見えた。彼の最後の切り札か、あるいは、彼の本当の顔が、ついに仮面の下から露わになろうとしているのか。
心の迷宮の出口は、もうすぐそこに見えていた。
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