第十九話:機械の心、人間の魂
ユニット731のEA(自動売買プログラム)が刻む冷徹なトレードの前に、俺、相馬海斗のMA一本の戦略は、まるで時代遅れの骨董品のように無力に感じられた。証拠金は容赦なく削られ、チャットウィンドウには俺の敗北を確信するようなコメントが並ぶ。だが、絶望の淵で俺が見つけたのは、機械の完璧な論理の裏に潜む、ほんの僅かな「癖」――プログラムされた反応の限界だった。
(機械といえど、それを作ったのは人間じゃ。その設計思想には、必ず作り手の『癖』や『願望』が反映されるものよ。それを見抜ければ、機械の鎧にも隙間風が吹く)
高柳師匠の言葉が、脳内で反響する。俺は、ユニット731のEAのトレードログを再度徹底的に分析し直し、その「癖」が顕著に現れるパターンを特定した。それは、重要な経済指標発表後、市場が一方向に大きく振れた直後の、EAによる過剰なまでのトレンド追従。そして、その後の市場が一時的な調整局面に入る際の、EAの反応の遅れだった。まるで、一度信じた方向に全力疾走し始めると、すぐには止まれないプログラムのようだった。
「これだ…! EAが作り出す一方的な流れの『後』、市場が本当の均衡点を探ろうとする動き…その初動をMAで捉える!」
俺は戦略を切り替えた。EAが作り出す機械的なトレンドにはあえて乗らず、その「癖」が現れ、市場が過剰反応から醒めようとする瞬間を、20SMAを道しるべにじっと待つ。それは、嵐の後の凪いだ海面から、次の潮目を見つけ出すような、繊細な作業だった。
バトルが再開されると、俺はユニット731のEAが米ドル/円で強烈な買いトレンドを形成し、市場参加者の多くを巻き込んで価格を押し上げていくのを冷静に観察した。チャット欄では「ユニット731、今日も絶好調!」「もう誰も止められない!」といった声が上がる。
だが、俺の目は20SMAとローソク足の形、そして何よりも市場全体の「呼吸」に注がれていた。EAが作り上げた急騰の後、明らかに買いの勢いが衰え、上値の重いローソク足が連続して出現し始めた。そして、20SMAが緩やかに横向きになり、価格がその下に潜り込もうとする、まさにその瞬間。
(今だ!)
俺は、EAの作り上げた「作られたトレンド」の終焉を確信し、売りエントリー。それは、まだ多くの市場参加者が買いの幻想に囚われている中での、大胆な逆張りだった。
直後、ユニット731のEAは、俺のエントリーをまるで無視するかのように、さらに買いポジションを積み増そうとした。だが、市場のエネルギーは既に入れ替わっていたのだ。俺のポジションはみるみる含み益を増やし、逆にEAのポジションは大きな含み損を抱え始めた。
「やった…! 機械の思考の裏をかけた!」
人間の「直感」や「大局観」、そして市場の「雰囲気」を読む力。それは、過去のデータとプログラムされたロジックだけでは決して辿り着けない領域のはずだ。俺は、師匠の教えである「MAは市場参加者の心理の平均」という言葉を、今、EAとの戦いの中で新たな意味合いと共に再認識していた。EAの動きもまた、ある種のプログラムされた「意図」の表れであり、それに反応する人間の心理が、結果としてMAに歪みとして現れるのだと。
俺の予測不能なカウンタートレードの前に、ユニット731のEAのパフォーマンスは徐々に、しかし確実に低下していった。完璧だったはずのアルゴリズムに、明らかな「エラー」や「非効率な動き」が頻発し始める。時に、EAは不可解なタイミングで小さな損失を繰り返し、あるいは重要な経済指標発表の直後に完全にフリーズしたかのような動きを見せた。
そして、バトル終盤。世界的な緊張を高める突発的な地政学リスクのニュースが報じられた瞬間、市場はパニック的な動きを見せた。多くの通貨ペアが乱高下する中、ユニット731のEAは、このプログラム外のイレギュラーな事象に対応できず、米ドル/円で致命的な損失を計上した。
【KITE WINS!】
バトルプラットフォームに、俺の勝利を告げるファンファーレが鳴り響いた。チャットウィンドウは、「人間がAIに勝った!」「裁量トレード最強!」「歴史的勝利だ!」といった興奮したコメントで埋め尽くされた。
俺は、大きく息を吐き出し、勝利の余韻に浸っていた。その時、ユニット731からプライベートチャットが届いた。
『…ERROR: Unknown strategy detected. Logical paradox encountered. My algorithm... defeated...』
無機質なシステムメッセージ。だが、その後に続いたのは、明らかに人間らしい、感情のこもった言葉だった。
『…見事だ、KITE。君のトレードは、私の計算を、私の論理を、完全に超えていた。私は、人間の感情こそが市場のノイズであり、排除すべき絶対悪だと信じてきた。だからこそ、完全なる論理機械を、神にも等しいアルゴリズムを追求してきたのだ…だが、君は、その『感情』が生み出す市場の歪み、そのカオスの中から、逆に秩序を見つけ出したというのか…』
チャットの向こう側で、ユニット731の「中の人」が静かに語り始めた。彼は、かつて人間の感情に起因する一度の致命的な失敗で全てを失い、それ以来、人間を、そして自分自身の心を信じられなくなった天才プログラマーだった。EA開発は、彼にとって現実からの逃避であり、完璧な論理世界への渇望だったのだと。
『君のMAは…まるで生きているようだった。機械には決して模倣できない、市場の魂の律動を感じた。…あるいは、私が捨ててしまったはずの「人間らしさ」というものを、君のトレードの中に見たのかもしれない』
そして、彼は膨大な量のファイルを俺に送信してきた。それは、彼が心血を注いで開発したEAの基本設計思想、主要なアルゴリズムの解説、そして彼自身が長年蓄積してきた市場の統計データと、その分析ツールの数々だった。
『これは、私の敗北の記録であり、同時に、君への期待の証だ。君のようなトレーダーなら、機械の限界を知り、そしてそれを超えるための新たなヒントを、この中から見つけ出せるかもしれん…』
「ありがとうございます、ユニット731さん…いえ、あなたの名前を、教えてもらえませんか?」
俺がそう問いかけると、しばらくの沈黙の後、小さな文字で一つの名前が送られてきた。
『…神崎。神崎という名だよ』
そして、球体のアバターは何も言わずに、静かにバトルルームから消えていった。
俺は、神崎さんから託されたものの重みと、機械を超えた人間の可能性という大きなテーマを胸に、静かに目を閉じた。Solitary Roseは、この劇的な勝利を、画面の向こうでどう見ていただろうか…?
四天王三人目撃破。エンペラーへの道は、確かに近づいている。だが、その前に俺は、手に入れたこの新たな知識と経験を、MA一本の道にどう昇華させていくべきか、深く考える必要があった。
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