第八話:狼たちの牙、開戦
高柳師匠の言葉と「道しるべの石」を胸に、俺、相馬海斗はオンライン・トレードバトル「狼たちの牙」へのエントリーを済ませた。ハンドルネームはシンプルに「KITE」。凧のように、相場の風を掴んで大空へ舞い上がりたい。そんな願いを込めた。
バトル開始は三日後の午後九時。それまでの間、俺は師匠の元で最後の調整に時間を費やした。過去検証とデモトレードを繰り返し、20SMAの動きとローソク足の囁きに全神経を集中させる。
「気負いすぎるな、海斗。お前が今まで積み重ねてきたことを、いつも通り、淡々とやるだけじゃ。相場は戦場だが、お前自身の心が最大の敵になることを忘れるな」
師匠の言葉は、送り出す船頭のようでもあり、厳しくも温かい激励だった。
そして、運命の夜が来た。
自室のPCの前に座り、黒い石をそっとディスプレイの横に置く。深呼吸を一つ。指定されたバトルプラットフォームにログインすると、スタイリッシュなインターフェースと共に、参加者リストとチャットウィンドウが目に飛び込んできた。初期資金として100万クレジット(仮想通貨)がデモ口座に振り込まれている。期間は一週間。取引対象は主要通貨ペア。最終的な資産額で順位が決まる、シンプルなルールだ。
【バトル開始まで、あと1分…】
画面にカウントダウンが表示される。チャットウィンドウが、参加者たちの闘志溢れる言葉や、あるいは軽口で急速に流れていく。
『今宵、新たな伝説が生まれる!』
『雑魚はさっさと退場しろよw』
『狙うは頂点のみ!』
参加者リストには、いかにも強そうなハンドルネームが並んでいた。「神速のスキャルパー・J」、「ファンダの千里眼・O」、「Mr.リスクリワード」…。その中でも特に目を引いたのは、黄金の装飾が施されたアバターの「黄金律の使徒ゼータ」と、完全に無機質なロボットアバターの「Q.E.D.」だった。
ゼータはチャットで「宇宙の真理はフィボナッチにあり…今宵、諸君はその一端を垣間見るだろう」と詩的な言葉を放ち、Q.E.D.は一切発言せず、ただ静かにその存在感を示している。
そして、そのリストの中に、俺は場違いな名前を見つけてしまった。
「ふわふわ♪わたあめ」。アバターは、パステルカラーの綿あめを持った、大きなリボンをつけたウサギのキャラクターだ。
「…え? マジかよ…」
思わず声が漏れる。チャットでも「わたあめちゃん、可愛すぎw」「癒やし枠か?」「秒で狩られそう…」といったコメントが流れている。俺も正直、大丈夫なのかこの子、と心配になった。
【バトルスタート!!】
カウントダウンがゼロになり、戦いの火蓋が切られた。俺はまずドル円の15分足チャートを開き、師匠に叩き込まれた20SMAを表示させる。緊張で手が汗ばむが、黒い石にそっと触れると、不思議と心が落ち着いてくる。
「いつも通り…いつも通りだ…」
開始早々、派手なエントリーを繰り返すトレーダーもいるようだが、俺は焦らない。師匠の教えは「待つも相場」。20SMAが明確なサインを出すまで、じっと待つ。
数十分後、最初のチャンスが訪れた。ドル円が20SMAを明確に上抜け、SMAの傾きも緩やかに上向きに転じた。ローソク足の形も悪くない。
「…よし!」
ルール通りに買いエントリー。損切りラインを直近の安値の少し下に設定する。心臓が早鐘を打つ。含み益が少しずつ増えていくが、チキン利食いしたい衝動を必死で抑え込む。「まだだ…SMAが明確に反転するまでは…」師匠の言葉を頭の中で反芻する。
そして、20SMAが横ばいになり、価格がその下に潜り込もうとした瞬間、俺は利益確定のボタンを押した。
+35クレジット。決して大きな利益ではない。だが、ルールを守り通して得た最初の勝利は、俺に小さな、しかし確かな自信を与えてくれた。
ランキングボードに目をやると、やはり「黄金律の使徒ゼータ」と「Q.E.D.」が、開始わずか一時間で驚異的な利益を叩き出し、トップ争いを演じている。ゼータは、まるで予知していたかのようにフィボナッチ・リトレースメントの61.8%ラインで完璧な反発を捉え、大きな値幅を獲得。Q.E.D.は、その名の通り「証明完了」と言わんばかりに、EAによる超高速スキャルピングで細かな利益を積み重ね、人間業とは思えないトレード回数を見せつけていた。
「すげえ…これが、本当の実力者たちの戦いか…」
圧倒的な力の差を感じずにはいられない。だが、同時に、心の奥底で眠っていた闘争本能が刺激されるのを感じた。
そんな中、ふとランキングの中ほどに目をやった俺は、ある名前に釘付けになった。
「ふわふわ♪わたあめ」
あのウサギのアバターの彼女が、なんとランキングの真ん中より少し上、予想外の健闘を見せているのだ。
「え、なんで…?」
彼女のトレード履歴を覗いてみると、その内容はハチャメチャとしか言いようがなかった。トレンドの真っ最中に逆張りしたり、レンジ相場でブレイクアウトを狙ったり…。だが、なぜかことごとくエントリー直後に価格が逆行し、薄利で逃げているものの、大きな損失は出していない。むしろ、時折信じられないようなラッキーパンチで大きな利益を上げている。
チャットウィンドウも、彼女の話題で少しずつ盛り上がり始めていた。
『わたあめちゃん、地味にすごくない?』
『あれ、どうなってんの? 天才か天然か…』
『もしかして、何か秘密のロジックでも…?』
俺もまた、この「ふわふわ♪わたあめ」というトレーダーに、強烈な興味と、ある種の謎を感じ始めていた。彼女の戦い方は、師匠の教えとも、他の実力者たちのセオリーとも全く違う。
ランキングは目まぐるしく変動し、夜が更けていく。俺は気を引き締め直し、再びチャートに向き合った。この「狼たちの牙」は、まだ始まったばかりだ。
そして、最初の夜が明けようとする頃、ランキングシステムが次回の注目マッチアップとして、俺「KITE」と、あの「黄金律の使徒ゼータ」の直接対決(同じ時間帯での収益率を競うミニイベント)が組まれたことを告げたのだった。
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